騎士の砦 第十三章
「おかしいな」
翌朝、ファビアンは地下牢の中で独りごちた。
「何だ」
傍らにいたトグルルは、すでに目覚めていて聞きつけた。ファビアンは現地の言葉に変えた。
『いや…従士たちが来るのが遅い。いつもなら、もうそろそろ迎えに来るはずなのだが』
彼らのいる地下牢には日は差さない。だが、朝の気配、空気の緩みというのは伝わってくる。もう日も昇っているはずだが、従士たちはまだ来ない。『やはり昨夜の、神の怒りのような揺れのせいだろうか』
「そうだろうな」
トグルルは皮肉な笑いを浮かべた。
『トグルル、お前は恐ろしくはないのか?』
「あれは、神の怒りなどではない」
トグルルは言い切る。「お前たちは知らぬだろうが、この地はもともと、揺れる大地だ。それがこの地の運命なのだ。最近でこそ滅多にないが…。それを知らずに、お前たちは天上へと向かうような巨大な建物を建てたがる。それこそが、恐ろしいことだ」
『神の怒りではない…』
ファビアンはトグルルの言葉を反芻した。
「ファビアン様!ご無事でしたか!」
その時、やっと外から声がした。牢の扉が開き、明かりを持った若い従士が現れた。だが、全身が土埃で汚れている。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。…ああ、ファビアン様!」
ファビアンに明かりを向けた途端、従士は驚きの声を上げた。それほどにファビアンの姿は異様だった。身に纏っているのは、あちこち破れた下着だけ。赤い巻き毛も一部焼け焦げていたのだから。「もしや昨夜の地震で、どこかお怪我をされたのですか?」
ファビアンは面倒くさそうに手を振った。
「大事無い。地震で火が倒れただけだ。すぐに消えたし、怪我も火傷もしてはおらぬ。ところで、大きな揺れだったが、皆、無事なのか?」
従士の顔が歪む。
「大変でございます、ファビアン様。城内のあちこちが倒壊しております。鉄の門の一部が崩れ、この地下牢へ通じる階段も半分が崩れた石で埋まり、人一人がやっと通れる程度。私も瓦礫をどけながら、何とかここまで辿りついたのでございます」
「そうか、危険を冒して来てくれたのだな。感謝するぞ、…その」
「ルネにございます、ファビアン様」
若い…と言っても、ファビアンと同じくらいなのだが、従士ルネは土埃で汚れた頭を深々と垂れた。
「ありがとう、ルネ」
「滅相もない。さあ、地上へ参りましょう、ファビアン様。先刻から揺れが何度か続いております。ジャン様が、とりあえず獣はそのまま捨て置き、まずファビアン様を安全にお連れするように、と」
「それでは今日はトグルルの尋問は行わないのか?」
「それどころではございませぬ!まずは地上に上がってくださいませ。ささ、お早く」
「あ、ああ…」
ファビアンは当惑しつつも、トグルルの方を振り返った。明かりに照らされたトグルルの顔は、眠りを経たせいか、今日はかなり腫れが引いていた。見慣れた、彫りの深い鋭角的な顔になっている。だが司祭のモンテスパンに爪を剥がされた足はさすがに回復しておらず、一人で歩ける状態ではない。地上への通路がどんな状態かは分からないが、トグルルを背負っていくのは危険だろう。
トグルルは床に座ったまま、じっと無言でファビアンたちのやりとりを見ている。
『トグルル、今日は尋問はないようだ。地震が心配だが、しばらくそのまま休んでいろ。私はちょっと様子を見てくる』
トグルルは何も答えない。先刻までの打ち解けた雰囲気など、忘れてしまったかのように無表情だ。だが、ファビアンはそれでいいと思った。従士が見ている。トグルルに情を移したと思われては困る。
「それでは、行こう」
ファビアンもまた、何事も無かったかのように従士ルネに言った。
ルネに続いて入り組んだ通路を渡り、階段を上がる。確かに一部の壁が崩落し、人一人がやっと通れる程度の箇所がいくつもあった。昨夜、天井から降ってきた土埃はこのためだったのかと思う。
「ひどいな」
「はい。ですが、ここはまだましな方でございます。西の塔はほぼ崩れてしまいました…」
「西の塔?確か、司祭のモンテスパン殿がお泊まりなのでは?」
「…はい。早朝から、皆で倒壊した石をのけて探しておりますが、お姿を見た者はまだ誰も…」
「モンテスパン殿が…」
ファビアンは、モンテスパンの冷酷な、トロリとした目を思い出した。トグルルの足の爪を剥ぎ取った男が、地震で犠牲になったというのか。
「…おいたわしいことだな」
口先だけで、ファビアンは言った。
地上へ出る前に、何度か小さな揺れがあり、そのたびにルネは足を止め、壁にピタリと体を寄せた。ファビアンもそれに倣い、頭上からの崩落に備えた。幸いにして、無事に朝の光が満ちた地上へ出られた時には、さすがにファビアンもホッとした。
ファビアンは自室で身支度を整えてから、管区長代理のフィリップの執務室へと向かった。
そこには、すでに兄弟ジャンら、主だった騎士たちが集まっていた。
「おお、無事だったか、兄弟ファビアン」
兄弟ジャンが心配そうな顔で近寄ってきた。肩を抱き、ねぎらってくれる。
「ありがとうございます、兄弟ジャン。皆様もよくぞご無事で」
「無事ではないぞ、兄弟ファビアン」
氷のような管区長代理のフィリップの声が、鋭く響いた。フィリップは一人机に向かい、苦虫を噛み潰したような顔でファビアンを見ている。「聞いているだろうが、モンテスパン司祭がまだ見付からぬ。その他の西の塔にいた兄弟たちは皆、無事だったのだが。今、全員で西の塔の瓦礫から司祭を探しておる」
「恐ろしいことにございます」
ファビアンが頭を下げる。
「せっかく、名うての尋問者を呼んできたというのにな」
フィリップは吐き捨てるように言った。「で、兄弟ファビアン。芥子の薬の効果はどうだった?あの悪魔は、何か吐いたのか?『鷹の爪』の連中の居場所とか、彼らの宝のありかとか…」
「管区長代理殿、今はそのようなことよりも、地震の始末を…」
「兄弟ファビアン!」
フィリップは突然怒りの声を上げた。「そのようなことは分かりきっておる!そなたは庶子の分際で私に指図をしようというのか!」
「…いえ、そのような…」
「確かに、あの神の怒りとも言うべき地震の後始末を急がねばならぬ。だが、『鷹の爪』の居所を探るのもまた、待ったなしの最優先の課題なのだ。そのようなことも分からずに、大きな口を叩くな!」
「…申し訳ございませぬ。出すぎたことを」
ファビアンは跪き、頭を垂れた。
「で、どうだったのだ?」
ファビアンが顔を上げると、フィリップの容赦のない青灰色の目がひた、と注がれていた。ファビアンは、一度唾を大きく飲み込み、口を開いた。
「…アンサリーヤの…」
「アンサリーヤ山脈に何かあるのか?」
フィリップの復唱に、ファビアンは大きく頷いた。
「…はい、アンサリーヤの最も高い山のさらに奥に、麻が生い茂る谷がある。そこには一筋の緑の川が流れており、上流に向かって一日ほど歩くと、竜のような巨大な岩が見える。そこを右手に曲がり、さらに二日間分進むと、『鷹が帰るべき場所がある』。そう、トグルルは申しておりました」
ファビアンの言葉に、フィリップは眉を寄せた。
「それは、本当か?兄弟ファビアン」
ファビアンは顎をくいっと上げて、管区長代理をキッと見据えて頷いた。
「真偽のほどは、私ごとき者には分かる由もありません。ご存知のように、芥子を使ったためかトグルルの意識は朦朧としておりましたし、薬が見せた幻影かも知れませぬ。が、確かにトグルルはそう言いました。探してみる価値はあるかと」
フィリップは顎髭を苛立たしげに触りながら、威圧するような青灰色の目で睨んだ。が、ファビアンも目を逸らさず、やさしげな顔を顰めてみせる。
先に視線を背けたのは、フィリップの方だった。
「そなたは、どう思う?兄弟ジャン」
フィリップは、ファビアンの傍らにいた修道騎士に問う。裏表の無いジャンは生真面目そうな顔で頷いた。
「兄弟ファビアンが申します通り、試してみる価値はあるかと思います」
「うむ…そうだな」
フィリップは立ち上がった。「でかしたぞ、兄弟ファビアン。よくぞ聞き出してくれた。それでは、兄弟ジャン、今これから騎士たち十人ほどを連れてアンサリーヤの奥に行ってみてくれ」
「か、管区長代理殿、今、でございますか?」
ジャンが驚いて言う。「何の準備も整っておりませぬし、モンテスパン殿の捜索も…」
「ならば、今すぐに準備するが良い!司祭を探す人手を考えたからこそ、ギリギリの数で行ってもらうのだ」
「ギリギリの…」
「そうだ。くれぐれも敵地に入るということを忘れず、決して油断するな!」
「…ですが…」
「絶対服従だぞ、兄弟ジャン」
「…はっ!」
ジャンは突然自分に降りかかってきた火の粉に、一瞬うんざりとした顔を見せたが、すぐに恭しく頭を下げた。
フィリップが功を焦る理由くらい、その場にいる者は皆、想像がついていた。不慮の天災のためとはいえ、中央から派遣された司祭の生死が不明とあっては、エルサレムの総長に合わせる顔が無いだろう。ここで「鷹の爪」一掃といった、目覚しい功績でも挙げなければ、フィリップの出世の道は間違いなく閉ざされる。
「何をしておる、兄弟ジャン!一刻の猶予も許さぬぞ」
フィリップは怒鳴った。「何を見ておる、兄弟パウロと兄弟ジュリアン。お前たちも兄弟ジャンとともに、すぐにアンサリーヤへ向かえ!」
「はっ!」
「仰せの通りに!」
ジャンら数人の騎士たちが、慌しく部屋を出て行った。
その様を、チラリとファビアンは盗み見、心の中で詫びた。
先刻の言葉は、咄嗟に出た大嘘だった。トグルルを回復させるための時間稼ぎの小芝居だ。谷の奥に川があるかも分からぬし、竜のような岩などありはしないだろう。だが、これでジャンたち主だった修道騎士を最低四日は砦から遠ざけられる。
「管区長代理殿、お願いがございます」
ファビアンはフィリップの側に歩み寄った。
「何だ?」
「あの獣…トグルルのことでございます。司祭殿が行方知れずとあっては、これからは、どうされるおつもりですか?」
「あの男の尋問は、今度は私が行おう」
「ですが、奴は正気のうちは決して何も話しませぬ。そのような者に対し、この人手が足りぬ中で尋問するなど無駄ではございませんか」
フィリップが苛立った顔を見せた。
「兄弟ファビアン、そなたが言うべきことではないぞ」
「仰せの通りにございます。ですが、地下への通路は半分以上も崩れております。担架に乗せるとしてもトグルル連れ出すのは難しいと思われます」
「ならば、私が行くまでだ」
「管区長代理殿が地下牢へ、ですか?」
今度はファビアンが驚いた。なぜ、フィリップはそこまでトグルルにこだわるのか。
「もちろんだ。あの獣が持っている情報がどうしても欲しい」
フィリップが言い放ったその時だった。空気が軋むような音を立て、地面が再び揺れ始めた。
昨夜の恐怖から、修道騎士たちは皆座り込み、一斉に祈り始めた。
「主よ、憐れみを!」
「どうぞお許しを、尊き主よ!」
今回の地震は時間も揺れも、昨夜ほどではなかったが、修道騎士たちに恐怖を思い出させるには十分だった。フィリップもまた、床に座り込み、椅子にしがみついている。北フランスの、地震に慣れていない地で育ったフィリップにとって、地震は世界の終わりの序章のように感じられていた。立ち上がろうにも、動くことすらできない。
揺れが治まるのを待って、ファビアンはフィリップの側に近付き、耳元で囁いた。
「管区長代理殿、地下牢は崩れようとしております。そのような場で尋問されるなど、御身にまで危険が及ばないとも限りません。ここは、どうか私にお任せを」
フィリップはファビアンを睨むが、腰が抜けたような今の状況では説得力は無かった。
「…分かった。…それが、賢明だな。その代わり、兄弟ファビアン、そなたが何としてもあの獣から聞き出せ。『鷹の爪』どもの巣と、そしてあの、…指輪の石のことを」
フィリップの目が複雑な表情を帯びるのを、ファビアンは見た。指輪の石、と言った瞬間に狂おしいような光がよぎったのだ。妙だとは思いつつも、ファビアンは何も聞かなかった。何か不用意な発言をして、フィリップの気が変わるのだけは避けたかったからだ。
「仰せのままに」
ファビアンはそう言って頭を深々と下げると、再び地下牢へと向かった。




