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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第十二章

 地面が、激しく揺れ続ける。神の怒りのように。

 ファビアンの僧衣に落ちた炎も、揺れとともに燃え広がる。何もできないまま、ファビアンは呆然と自分が炎に包まれるのを見ていた。

 その時、トグルルが動かせる片足だけで立ち上がった。自分の下に敷かれていた粗末な布に水をかけ、炎にまみれたファビアンごと押さえ込む。

 炎が一瞬、小さくなる。

「早く服を脱ぎ捨てろ!」

 ファビアンは何とか衣を脱ごうとするが、激しい揺れと恐怖で手がうまく動かない。トグルルはそんなファビアンを引き寄せると、襟元に手をかけ、思い切り僧衣を引き千切った。そのままファビアンを炎の蛹から引きずり出し、抱きかかえて油が流れていない壁際へと這いずっていった。

 頭上から、パラパラと何かが落ちてくる。崩落するのかもしれない、と二人は同時に思った。

 トグルルはファビアンを壁に押し当て、炎と砂埃からかばおうとした。

 やがて揺れは少しずつ収まっていった。

 大きな揺れだったが、牢が崩れるほどではなかったようだ。炎もまた小さくなり、消えていった。油と僧衣を燃やし尽くしてしまえば、幸いにして冷たい石の壁、石の床には炎の餌食となるものは何もない。僧衣の残骸が、ちろちろと鬼火のように燃え残っているだけだ。

 ようやく、ファビアンは大きく息をつくことができた。

「大丈夫か?」

 すぐ耳元でしたトグルルの声に、ファビアンはハッと我に返った。僧衣はトグルルの手で破られ、自分が纏っているのは粗末な下着だけだ。そんな姿でトグルルの腕の中で震えていたと思うと、ファビアンは真っ赤になった。慌ててトグルルの腕を押しのけ、何とか立ち上がる。

「火傷はないのか?」

 トグルルは再び聞いてきた。ファビアンは仕方なく答えた。

『…ああ、大丈夫だ』

「それは良かった」

 いたわるように言うトグルルに、ファビアンは背を向け、自分の肩を抱いた。震えが止まらず、鼓動が速いままなのは、突然の地震の恐怖のためだろうか。それとも。

 ファビアンは唾を呑み込むと、意を決したようにトグルルを見ずに言った。

『…お前のおかげで助かった。礼を言う』

「そうか」

『…でも、なぜ…』

「なんだ?」

『なぜ、お前は私を助けたのだ?お前は私たちが憎いのだろう?私たちがお前たちの村をそうしたように、私たちを焼き殺したいのだろう?』

 今度はトグルルが黙った。

『トグルル、聞こえなかったか?なぜ、お前は…』

「分からない」

 トグルルは吐き捨てるように言った。「分からないが、ただ、体が動いた」

 ファビアンはゆっくりと振り返った。トグルルの真っ黒な目が、じっとこちらを見ている。ファビアンもまた、目が離せない。

「ファビアン、お前は俺の怪我を癒やそうとしてくれる。…お前は、多分、悪魔ではない。だから…」

『確かに私の名はファビアンで、悪魔などではない。そして、私は自分の命の恩人を悪魔呼ばわりするほど恩知らずでもない』

「俺の名も悪魔ではない。トグルルだ」

 その言葉に、二人は一緒に顔を綻ばせた。そして、そのことにお互いが驚いた。悪魔とも、獣とも思い、消し去りたいと思っていた相手とともに笑い合うことができるとは。

 笑うと、トグルルは幼い顔になる。

 慌ててファビアンは再び顔を背け、紛らすように言った。

『トグルル、お前、よくその足で立ち上がることができたな』

「お前の傷の処置がいいから、すぐに動ける。だが、今ごろ痛くなってきた」

 トグルルは大儀そうに、床に座ろうとする。慌ててファビアンが肩を貸し、足が痛まぬように座らせた。その肩をトグルルはじっと見る。「お前の方こそ、腕から背中にかけて真っ赤だ。放っておいては火ぶくれができる。治療が必要だ」

 ファビアンは苦笑し、肩を竦めた。

『そうだな。それでは頼まれてくれるか。この薬を塗ってくれ』

 ファビアンは傍らの薬箱から軟膏を取り出し、下着を脱いで、無防備な背中をトグルルに向けた。

「この薬は、俺に塗っていたものだな」

 トグルルは薬の匂いを嗅いだ。

『ああ、そうだ』

「これはよく効くぞ。俺が保証する」

 トグルルは、おどけて言うと、ファビアンの肩や首、腕に軟膏を塗っていく。騎士というには細い体だ、とトグルルは思ったが、その手を止めずに言った。「こんなに簡単に背中を向けていいのか?俺は鎖で繋がれていないのだぞ?このままお前を殴り殺して脱走するかもしれない」

『そうかもしれぬな』

 ファビアンは淡々と言った。『だが、命の恩人を鎖で繋ぐほど、私は落ちぶれてはおらぬ』

 澄ました顔での返答に、トグルルは笑った。

「さすが、誇り高き騎士様は違うな」

『それに体の回復には深い眠りが必要だ。繋がれていては治るまい。私の仕事はお前を生かし続けることだ。お前は生きねばならぬ』

 ファビアンは長い睫を二度、瞬かせた。そうだ。この男を憎み、葬ったところで、ギイは戻っては来ない。トグルルに向かって振り返ると、小さな声で、だが心を込めて言った。『もう軟膏は十分だ。…ありがとう。お前のおかげで、助かった』

 トグルルはもう笑っていなかった。神妙な顔でファビアンの目を覗き込む。

『何だ、トグルル』

「いや…。お前はなんと言うか…、俺の知っている人間に似ている」

 ララ。ララもそんな言葉で俺を気遣ってくれた、とトグルルは思い返した。

『知っている人間?』

「何でもない。…それでは、遠慮なく横にならせてもらう」

 トグルルが石の床に体を横たえようとした時、ファビアンはその肩に手を伸ばし、自分の膝を枕にさせた。

「おい、重いだろう」

 トグルルが苦笑するが、ファビアンは首を横に振った。

『このくらい神の騎士にとっては苦にもならぬ。少しは楽になるだろう』

「そうか。それなら言葉に甘えよう」

 トグルルは素直にファビアンの膝に頭を預けた。固い石の上で眠るのは至難と思われたが、昼の尋問や先ほどの地震、炎と、相次ぐ騒動に疲れ切っていたのだろう、トグルルはすぐに泥のような眠りに陥り、寝息を立て始めた。

 その傍らでファビアンは、じっとトグルルの寝顔を見ていた。

 月の耳飾りが寝息のたびに揺れる。顔は腫れ上がっているが、今は少年のように無邪気な顔で眠っていた。

 認めたくはないが、根は善良で、素直な男なのだろう。そうファビアンは思った。そうでなければ、自分の命を顧みず、咄嗟に炎に飛び込むようなことはできない。

 どんな苦しみが、痛みが、憎しみが、その善良さを奪ったのだろう。

 なぜ彼は我々の神を信じないのだろう。良き人間のはずなのに。

 ファビアンは、そっとトグルルの長い睫に触れてみた。まるで月光が降り注ぐように、そっと。


 夜の間、余震と思われる小さな揺れが、繰り返し起きた。

 明け方が近付き、空気が紫色に変わる頃、床に座ったまま、まどろんでいたファビアンはトグルルの唸り声で目を覚ました。

『どうかしたのか?』

 だが、トグルルは答えない。ただ獣のように呻き、長い腕と足をばたつかせる。ファビアンの膝から転げ落ち、床を転がり始めた

『トグルル?』

 トグルルの体を押さえつけると、彼はじっとりと脂汗をかいていた。白目を剥いて、頭を左右に振る。何かを払い落とそうとしているかのように。

 ファビアンは小さく舌打ちした。禁断症状だ。ここ数日、毎晩のように「冥府の女王」の煙を吸わせていたのだ、依存が強くなって当然だ。

 床を見た。先ほどの地震で散らばった「冥府の女王」の葉がまだ残っているのが見えた。これを燻せば、トグルルの苦しみも一時だけ収まるはずだ。傷の痛みも消えるはずだろう。そして、彼は再び、幻想のララに会える…。

 だが、ファビアンはその葉を集めると、それを捨てるために焼け爛れた布と一緒に丸めた。

 もう、「冥府の女王」は使う気はなかった。このまま使い続けては、遠からずトグルルが廃人になってしまう。

(もっとトグルルと話がしたい。まともな状態の彼と話がしたい)

 そう、ファビアンは思った。

(そうすれば、彼を憎むべきかどうか分かるはずだ)

『…ウウ…』

 トグルルが呻き、手足をばたつかせる。そして体を大きくブルリと震わせると、激しく全身をわななかせ始めた。這い回り、壁に激突すると、抗議するように壁に両手を、頭を打ちつけ始める。

『やめろ!トグルル』

『ララ!』

『トグルル、落ち着け!』

『ララ!ララ!どこにいる!』

 激しく、トグルルは頭を壁に打ちつける。

『トグルル、神の戦士なら正気に戻れ!』

 ファビアンはトグルルの体を背後から抱きすくめた。そのまま壁から引き剥がす。ファビアンの腕の中で、トグルルは獣のようにフーッ、フーッ、と荒い鼻息であえぐ。

 トグルルに比べると細く華奢だとは言え、ファビアンもまた一人前の騎士だ。全身の力を使えば、傷を負った男一人なら何とか押さえ込むことくらいできる。

 やがて、トグルルはファビアンの腕の中で少しずつ大人しくなっていった。

『トグルル、私の言葉を聞け。私が、お前を助ける』

 ファビアンは、駄々をこねる子供に言い含める母のように語り掛けた。トグルルは腕の中で、微かに唸り続けている。

『私が助ける。お前が囚われている、その幻から』

 そうやって、トグルルが疲れて再び眠るまで、ファビアンは彼を抱き続けた。



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