騎士の砦 第十一章
「それでは兄弟ファビアン、これまでの報告と同じではないか」
管区長代理のフィリップは苛立ちを隠さずに言った。
フィリップの執務室には今、ファビアンをはじめ騎士団の主だった人間たちが集められていた。彼らの前で、ファビアンは一歩前に立たされている。
「…恥ずかしながら、仰せの通りです」
ファビアンは俯いて言った。「トグルルは、『ララ』という名…おそらく恋人の名と思われますが…その名を呼び続け、不思議な歌を歌うばかりです。それ以外は取り立てて何も…」
「あの、太陽と月の耳飾りが奪われた、とか言う歌だな」
「は、はい。その通りです。よくご存知で」
ファビアンは怪訝そうにフィリップを見た。あの、女神が冥界へと下っていくという長い歌を、ファビアンですらよく覚えていない歌を、なぜフィリップは正確に知っているのだろう。
「奴は、指輪のことについて何か言ってはいなかったか?」
フィリップは意味ありげにファビアンを見た。「たとえば、あの指輪の持ち主の…緑の瞳の少年のこととか」
「指輪?…ああ、あのトグルルがしていた指輪のことですか?ですが、緑の瞳の少年とは?」
「いや、何でもない。大したことではない」
フィリップは慌てて打ち消した。指輪を見詰めるたびに現れる、あの、麦穂の色の髪と深い緑の瞳の少年は誰なのか。現し身ではないことは分かっている。精霊なのか、悪霊なのか。どちらでも構わぬ。どうしたら、あの美しい少年に会えるのか。触れられるのか。トグルルなら知っているはずだ。フィリップはそれをどうしても知りたかった。だが、そのようなことは口が裂けても言うわけにはいかぬ。
部屋には、奇妙な沈黙が流れていた。
フィリップはわざと大きな咳払いをし、大仰な声で呼びかけた。
「兄弟ファビアン!」
「は、はい」
「これでは埒が明かぬ。『鷹の爪』も今は沈黙しているが、あのトグルルとやらを取り戻すために何か仕掛けて来ぬとも限らぬ。時間はないのだ。分かっているな」
「はい」
「そのために私はこのお方に来てもらった。司祭のシャルル・ド・モンテスパン殿、こちらへ」
ざわめきが起きた。シャルルの名は誰もが知っていた。というのも、彼の「尋問」はあまりに厳しく、罪を告白しなかった人間はいない、と言われているからだ。犯したことがないはずの罪までも、だ。そして彼の証言のもと、大勢の人間が悪魔憑きとして、処刑されてきた。
フィリップの言葉に従って、シャルルは前に歩み出た。
シャルルはあちこちの十字軍の城を渡り歩いてきたため、ファビアンが彼を見るのは初めてだった。年は五十がらみだろうか。のっぺりとした長い顔で、ドロリとした目の表情がほとんど変わらないのが、不気味だった。
「シャルル殿が来たからには、早晩トグルルもすべてを告白するだろう」
フィリップは得意げに言った。「が、兄弟ファビアン。そなたにも、より働いてもらわねばならぬ。今夜から件の薬の量を倍、いや十倍にしてみよ。芥子の実も使ってみるがよい」
「芥子の実を…!」
ファビアンは蒼白になった。確かに口を割らせるには、より強力な薬の方が良いだろう。だが芥子の実の中毒性は、麻の葉の比ではない。「そ、それではトグルルは廃人になってしまいます!」
フィリップは眉をピクリと動かし、青灰色の冷酷な目でギロリと睨んだ。
「兄弟ファビアン、何を言うのだ。薬を使うことは、もともとはそなたが申し出たこと。今になって、あの悪魔の心配をするとは妙ではないか。まさかとは思うが、あの異教徒に情を移したわけではあるまいな」
「め、滅相もない!た、ただ…、そうです。ただ、…芥子の実を焚くならば、傍らにいる私の身そのものが危うくなってしまいます。ですから…」
「兄弟ファビアン、そなたは騎士団の掟を忘れているのではないか。絶対服従、挺身であるぞ。どんな危険な任務でも引き受け、我が身を犠牲にするのが騎士の務めであろう」
「…仰せの通りです。申し訳ありませんでした。修行が足りませんでした」
ファビアンは跪き、唇を噛んだ。だが確かに、ファビアン自身も自分の感情に戸惑った。あれほどトグルルを薬漬けにして苦しめてやりたい、と思っていたはずなのに、なぜ、咄嗟に彼をかばおうとしてしまったのだろう。
「兄弟ファビアン」
ぼんやりとしていたファビアンに、フィリップが近付いてきた。彼は自分の顎を触りながら、瞬きもせずに冷たくファビアンを見て言い放った。「あの獣のために、そなたの信仰が揺らぐ、などということは断じてあるまいな。私はそなたを信じている。だが、そなたは、庶子だ」
ファビアンの体が凍りついた。が、フィリップは冷たく続ける。
「そなたには本来、修道騎士の資格はない。にもかかわらず、こうして神に仕える騎士として遇している騎士団のありがたさを、今一度、しっかりと考えるように」
「…はい」
部屋にいた騎士たちが再びざわめいた。ファビアンが庶子であることは、ほとんどの人間が知っていた。確かに騎士団には庶子は入ることはできない。だが、実際にはそうした人間は他にも大勢おり、それは公然の秘密だった。公式の場でその出自が明かされることなどは、これまでにありえなかった。
ファビアンは屈辱に耐えるために、唇をさらに強く引き結んだ。
(…私が何をした…。なぜ、このように辱められなければならぬのだ…)
恥ずかしさと、沸々と湧いてくる怒りを必死で抑えながら、ファビアンは一礼をすると、執務室を出て、薬の貯蔵庫へと向かった。
言い付け通りに、人を廃人にさせる薬、芥子の実を持ち出すために。
その夜、いつにも増してトグルルは痛めつけられた様子で、ファビアンが待つ地下牢に帰ってきた。ぐったりとした彼の体を従士たちは担架で運んできた。顔は殴られたのか、瞼も唇も大きく腫れ上がり、誰であるかの見分けもつかないほどだ。右足は血にまみれ、指の爪はすべて剥がされている。
「これは、司祭のモンテスパン殿が?」
ファビアンが従士に聞くと、彼らは素直に頷いた。
「はい。司祭様は断固とした態度で悪魔に立ち向かったのでございます」
「…そのようだな」
ファビアンは顔を歪めた。そして、シャルルのドロリとした表情のない目を思い出した。何の感情も表に出さずに、シャルルはトグルルを痛めつけたに違いない。彼の左足が無事だということは、明日へ楽しみを取っておいたのかもしれない。
従士たちがトグルルを床に横たえると、ファビアンは彼らに言った。
「お前たちは立ち去れ。扉の側にいても危険だ。なるべく離れた場所にいるように」
「え?なぜですか?兄弟ファビアン」
「管区長代理から聞いておらぬか?これから芥子の実を焚く。正気を失わせ、廃人になる薬だ。このままここにいては、お前たちにも危害が及ぶかもしれぬ」
「それではファビアン様は…」
「私は薬の知識があるから、大丈夫だ」
管区長代理の命令とあっては仕方がないのだろう。従士たちはファビアンの言葉に従い、牢を出ると、外側から鍵をかけ、足早に立ち去った。
彼らの引き上げる音を確認した後、ファビアンはぐったりと床に臥せっているトグルルの側に跪いた。
『トグルル、なぜ、お前はそこまで耐えるのだ?』
トグルルは顔を上げた。顔は苦痛で歪み、脂汗と血で汚れている。だが、「冥府の女王」の煙を吸っていない今は、腫れ上がってはいても、彼の目は真っ直ぐで冴え冴えとしていて、正気だった。
「…お前たち悪魔の与える、まやかしの痛みなぞ、屁でもない」
『私たちは主のしもべだ。悪魔なぞではない』
ファビアンが、この地の言葉でトグルルに言う。
「ならば聞くが、お前たちの主とやらは、苦痛を与えることを望むのか?」
トグルルもまた、ファビアンたちの言葉で聞いてきた。
『私たちはお前から悪魔を追い出し、正しい道に導くために行っている』
ファビアンがそう言うと、トグルルは大声で笑い出した。
『何がおかしい?』
ムッとしてファビアンが問う。
「気付かないか?俺たちは同じことを言っていることに。悪魔は、お前たちと俺たちと、どっちなのだ?」
ファビアンは言葉に詰まった。その通りだった。自分たちは互いに相手を悪魔と罵っている。同じことを、違う言葉で言っているだけだ。
『…愚かなことを』
ファビアンはトグルルの問いは無視した。無言で水と清潔な布を持ってトグルルの足元に行き、彼の傷付いた足を洗い始めた。
「おい、俺を鎖で繋がなくていいのか?お前たちの言う、悪魔が暴れるかもしれぬぞ」
トグルルが皮肉まじりに笑って言った。だが、ファビアンはトグルルの顔を見ずにきっぱりと言った。
『そのようなものは、治療の邪魔だ』
その言葉にトグルルが真顔になり、無言でファビアンを見詰めた。
ファビアンは無心で手当てをしていた。肉が見える傷口を丁寧に洗うと、足の指一本一本に丁寧に聖油を塗り、油紙でくるんでから清潔な布で傷口を覆った。
すべての手当てが終わると、トグルルは口を開いた。
「ファビアン…と言ったな。お前はなぜ、私を癒やそうとするのだ?」
『そう命じられているからだ』
「では、なぜ、お前は俺たちの言葉を使う?それは命令されてはいないだろう?」
『トグルル、お前も私たちの言葉を使っている。それはなぜだ?』
ファビアンは顔を上げた。トグルルも真っ直ぐに彼を見ていた。トグルルは一度息をのむと、思い切ったように口を開いた。
「…もしかしたら、お前とは分かり合えるかもしれないと思っている」
トグルルはさらに言い募る。「お前も、そう思ったのではないか?俺たちは、分かり合えるんじゃないかと。だから…」
『…違う』
ファビアンはトグルルに背を向けた。だがトグルルは続ける。
「俺たちは、ともに大事な人を奪われている。だから理解し合えるんじゃないか。違うか?」
ファビアンは震えた。
(何を言い出すのだ、この悪魔は。ギイを奪ったのは、他ならぬお前たちではないのか?この憎しみに気付かないのか? 苦しめてやりたいと願っている心が分からないのか?)
ファビアンは答えずに立ち上がると、用意した芥子の実を焚く準備を始めた。粗末な木の机の上に蝋燭を置き、持ち込んだ材料を皿に並べる。
(これで、廃人になるがいい。思い上がるな。ギイの無念を思い知るがいい)
ファビアンが薬に聖油を掛けようとした、その時だった。
ドン、という大きな音とともに大地が突き上げられた。
石の壁がキイイイイイという悲鳴にも似た音を立てる。空気が軋む。途端に地面が激しく揺れ始める。
地震だった。地の底からの、突然の叫びにも似た縦揺れが、ファビアンとトグルルを荒々しく揺さぶる。
ファビアンは立っていられず、床に這いつくばった。
机の上の聖油の瓶が倒れ、油がファビアンの僧衣と床に零れ落ちた。
大地はなおも激しく揺れ続け、机の上にあった蝋燭を倒した。炎がゆっくりと床に落ちた。油に濡れた床の上に。
あっと言う間に紅の炎が立ち上がる。見る間に、倒れていたファビアンの僧衣にも燃え広がった。
ファビアンは、悲鳴を上げることもできず、炎を呆然と見ていた。




