騎士の砦 第十章
管区長代理のフィリップは自分の執務室に戻ると、周囲に誰もいないことを何度も確認し、音がせぬようにそっと机の引き出しを開けた。小さな箱を取り出し、蓋をこわごわと開ける。
その中には、大きな緑の石の指輪が入っていた。
深い緑色の中に、赤黒いものが見える。決して美しい石ではないし、高価なものではなさそうだ。だがその複雑で不思議な色合いが心を捉えて離さない。
フィリップは、その青灰色の目を細めた。普段は冷酷そうなその目が、熱にうかされたようにその石に吸い付いている。
トグルルがしていた指輪だった。最初は、紋章など何か「鷹の爪」につながる手がかりがないか、と考え、指輪を調べていた。だが、結局何も分からなかった。指輪には何の銘も刻まれていないし、何の仕掛けもない。石と金の土台があるだけ。それだけだ。
フィリップは溜め息をついた。ファビアンに任せたトグルルの尋問も成果はなさそうだ。「鷹の爪」をどうやって追い詰めたら良いのだろうか。
顎髭を触りながら石をまじまじと見詰めるが、名案は浮かばない。
暗殺者の一味を捕まえておきながら、何の成果もないとあっては、エルサレムの総長に顔向けできぬ。
「こんな山奥の砦の主で終わる私ではない」
フィリップは小さな声で呟くと、何の気無しに、その指輪を嵌めてみた。左手の薬指に。
逞しいトグルルの指とは、太さが違うはずなのに、なぜかそれはフィリップの指に誂えたようにピタリと納まった。
途端に、ドクン、と指輪が息づくのを感じた。
息づく?
フィリップは怪訝に感じ、指輪に触れてみた。
石が、熱くなっているように思えた。
「…そんな馬鹿な」
フィリップは一人ごち、頭を振った。これは自分の体温のせいだ。何を考えている。
ドクン。また、指に衝撃が来る。
「まさか、指輪が…」
抜こうとしたが、抜けない。
(…壊せ)
声が、突然聞こえた。
「誰だ?」
フィリップは周囲を見回す。だが、誰もいない。いるはずはない。
(…すべてを、壊せ)
また、声がする。
その時、フィリップは気付いた。声が石からしていることに。
(…すべてを、壊せ)
(…すべてを、殺せ)
(お前を虐げ、侮辱し、踏み躙ったすべての者どもを、血祭りにあげろ)
低い、地鳴りのような声だ。
石は、獣の目のように、フィリップを見ていた。目…そうだ。確かに、何かの目だ。少年のように純粋で、竜のように残酷な瞳だ。
(…壊せ)
石が、いや、目が呻く。
「…誰か…!」
フィリップは叫んだ。だが、自分の声は喉に張り付いて、裏返ってしまう。その間に、石がどんどん熱くなっていく。指の上に焼けた鉄が押し付けられたようだ。
「指、指が…!」
(…すべてを、壊せ)
(…すべてを、殺せ)
石の声が、頭の中でぐわん、ぐわんと反響する。
「管区長代理殿!どうかされたのですか!」
扉が勢いよく開き、修道士が駆け込んできた。ジャンだった。
「きょ、兄弟ジャン、よく来てくれた…!」
よろよろとフィリップは立ち上がり、ジャンに縋りついた。
「賊ですか?」
「違う、声がこの石から…」
「声?」
ジャンはきょとんとしてフィリップを見た。その怪訝な顔に、フィリップはハッと我に返った。
「す、すまぬ。何でもない。…そう、夢、夢を見ていたのだ」
「夢ですか?」
フィリップは大きく息を吐くと、ジャンから体を離した。そして何食わぬ顔で咳払いをした。
「そ、そうだ、夢だ」
石の声、なぞと言ったら、悪魔憑きと思われてしまう。そうなったら、エルサレムへの出世の道は危うくなる。それどころか異端審問にかけられ、火あぶりになるかもしれぬ。
咄嗟にフィリップは左手の指に嵌めた緑の石を手で隠した。幸い、ジャンは気付いていないようだ。
「兄弟ジャン、もう、もう、大丈夫だ。気にせずとも良い」
「…ですが、お顔の色が…」
「良いと申しておる!」
訳が分からぬという顔のジャンを追い払うと、フィリップはもう一度指輪に手を触れた。
あれほど熱くなっていた石は、まるですべてが幻だったと言いたげに冷たくなっていた。
フィリップはゆっくりと指輪を引き抜いた。改めて見ると、それは変わった石ではあるけれど、それ以上でも以下でもない、ただの石だった。
「石が話すなど、何を馬鹿げたことを…。疲れておるのだ、きっと…」
フィリップは苦笑した。
そして再び、石を見た。
だが、石も見ている。こちらを。
ゾクリ、とフィリップの背中に冷たいものが走る。
(最初の門で失うは 王の冠なりにけり)
石から、再び声が聞こえる。歌だ。悲しげな歌。
先ほどのような地の底から湧くような、恐ろしい声ではない。細い、掠れた、声変わりを終えたばかりの少年のような声だ。
石は、次第に少年の瞳になった。麦穂の色の巻き毛をした、彫刻のように美しい異国の少年。緑の瞳をした気の強そうな。
(第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り)
少年は歌う。
フィリップは目の前に少年がいる気がした。
砂漠を渡る砂嵐を従えて、石と同じ深い緑色の瞳の少年が。カミツレ草の花の香りをまといながら。
フィリップは手を伸ばした。が、途端に少年の幻は消えた。
パン、とフィリップは自分の頬を叩いた。目を何度もしばたたかせる。
幻だ。幻覚だ。
フィリップは慌てて指輪を引き抜くと、再び小箱に収め、引き出しの奥にしまい込んだ。
だが、頭の中からは深い緑の石と、そこから聞こえた声が忘れられなかった。
美しい石。いやこれは美しい瞳だ。そして掠れた少年の声の、何と魅惑的なことか。体の内側をなぞられるような官能的な響き。
その後、フィリップはたびたび箱を開け、指輪を手にすることになる。日に何度も、何度も。周囲の目を盗んで。
幻の少年の姿を求めて。
トグルルは夢の中で、自分の指を探った。
指輪が無い。ララの指輪が。だが、それでいいのだ、きっと。
あの最後の夜、ララから指輪を奪った。
ララは言っていた。あの指輪は呪いなのだ、と。あれが嵌められている限り、自分は洞窟を逃れられないのだ、と。
あの指輪が歌を語り続ける、と。
「こんなの嵌めてちゃ駄目だよ!」
指輪を強引に奪った。だが、驚いたことにララは抵抗しなかった。
「…いいわ。でもトグルル、その指輪をあんたが持ってちゃ駄目」
「どういうこと?」
「その指輪はきっとあんたにも囁く。古い、悲しい歌を。奪われた宝の歌を」
「…『イシュタルの冥界下り』だね。ララが歌っていた歌だ」
「でも、それだけじゃない。その石は恐ろしいことを囁く。だから耳を貸しちゃ駄目」
「囁くってどういうこと?この石が?」
「言葉の通りよ。だから、その囁きに負けない人が持っていなくちゃいけないの。でないと、恐ろしいことが起きるから」
「俺なら大丈夫だよ」
ララはトグルルをじっと見た。真っ黒な聡明な目がトグルルのすべてを見透かすように見詰める。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。だから、その指輪を捨ててしまって」
「いいの?ララ」
ララは神妙な顔で頷いた。
「お願いよ。私には出来ないから」
「…分かった」
「そして、トグルル」
ララは何かを言いかけ、そして諦めるように長い睫を伏せた。「今度こそ、もうここには戻ってこないで」
「何を言うんだ、ララ!」
確かに、今度の任務はたった一人で十字軍の砦に侵入することだった。恐らく生きては戻れないだろう。よしんば出来たとしても無傷ではいられない。だが。
「ララ、俺は戻って来るよ、絶対に。そして今度こそ二人で逃げよう」
「…それは…」
ララが答える前に、洞窟に朝の光が差し込んで来た。任務を果たす朝が来たのだ。
それからトグルルは野を駆け、山を駆け、数日後には「騎士の砦」に辿りついた。闇に乗じて入り込もうとしたその時、石が囁いた。
(…第二の門で奪われし…太陽と月の耳飾り)
遠い世界から聞こえるような、掠れた声。ララに似た声。
(月の耳飾り?)
(それは、ララと分け合った、この耳飾りのことなのか?)
一瞬、トグルルはぼんやりとした。その時、声がした。
「悪魔の異教徒を見つけたぞ!」
気付いた時には、呆気なくトグルルは十字軍の騎士たちに捕まっていた。




