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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第九章

 「冥府の女王」の甘い煙がもたらす夢。

 地下牢の中、ファビアンとトグルルはそれぞれの夢に溺れていた。

 ファビアンの元には、再びギイの面影がやって来た。ファビアンはその腕に触れ、「やはり生きていたのだな」と呟いた。その温かな腕に頬を寄せた。

 けれど、正気に戻って目を開けると、自分の傍らにいるのはトグルルだった。

 トグルルは目を微かに開けてはいるが、まだ夢の中に漂っている。

(なぜ、このような獣とギイを間違えるのか)

 悔しさと、情けなさにファビアンは唇を噛んだ。

 何という恐ろしい夢を「冥府の女王」は見せるのか。ファビアンは顔を両手で覆った。

 その時、トグルルのひび割れた唇が微かに動いた。

 ファビアンは目を光らせると、その唇に耳を寄せた。「鷹の爪」について、何か口を滑らせるのではないか、と。

「…ララ…」

 また、その名か。ファビアンは小さく舌打ちをした。

「トグルル、お前たちの住処はどこだ?次に狙っているのは、どこだ?」

 だが、トグルルはもちろん答えない。正気ではないのだから。それどころか、虚ろな声で歌い始める。

「…第二の門で、奪われし…、太陽と、月の耳飾り…」

 ファビアンは焦れて、トグルルの頭を抱えて、上を向かせた。

「このうつけ者が!少しはまともに答えてみろ!お前たちの首領は誰だ?どこにいるのだ?仲間は何人だ?」

 やはりトグルルは答えない。代わりに、腕を伸ばしてファビアンの頬に触れた。

 ファビアンはその手を払いのけ、飛び退いた。

「気色の悪い!」

 だがトグルルは悲しげに呻く。

「…ララ、ララ、ララ…」

 その指をむなしく宙に漂わせ、今にも泣き出さんばかりに、トグルルはその名を呼ぶ。

(ララとかいう女が、この獣の弱点なのか?)

 ファビアンはしばし考えた後、思い切ってトグルルの指を握った。そして自分の頬にその指を触れさせ、彼の耳元で悪魔のように優しい猫なで声で囁いてみた。

「…トグルル」

「ララ!」

 朦朧としたままトグルルはファビアンの首に抱きついた。「ララ!ララ!」

 ファビアンは冷酷な目でトグルルを睨んだ。今が、この獣に「鷹の爪」について吐かせるチャンスだ。女を装い、甘い声色で続ける。

「トグルル、傷は痛むでしょう?」

「痛くない。ララ、痛くなんかない」

「トグルル、早く楽になって。貴方の胸にあることを全部吐き出してしまいなさい。もう楽になっていいのよ」

「ララ、大丈夫。僕が君を守るから。絶対に助けるから。信じて待っていて」

 とっとと、吐けば良いものを。ファビアンが舌打ちとともに顔を歪めたのと対照的に、トグルルは満足げに微笑んだ。

「大丈夫だから、待っていて…ララ…」

 そして、ファビアンの思惑とは裏腹に、トグルルはまた深い夢の中に潜っていった。


 「冥府の女王」が誘う夢の中で、トグルルは再び来し方の記憶の中にいた。

 「山の老人」に連れられて、「鷹の爪」の岩屋に来たころのことを。

 岩屋に着いて間もなく、ララはどこかへ連れていかれた。すぐにまた会えると、「山の老人」は言った。だが、それから間もなく、彼女が病で死んだと知らされた。

 トグルルは呪った。この世のすべてを。そしてトグルルはその悲しみを忘れるために、ララの仇を討つために、「山の老人」の言う「神の戦士」になれるよう修行に打ち込んだ。剣術、武術を極めただけでなく、ありとあらゆる暗殺術を習得した。

 「鷹の爪」には、トグルルのような少年たちが大勢いた。だが、成長するにつれ、一人また一人と消えていった。それは「神の戦士」になって徳を積み、神の元へと召されたからだと「山の老人」は言った。

 そうして五年が過ぎた。トグルルは十七歳になっていた。

 ある日、「山の老人」が彼を呼んだ。「山の老人」の導くまま、トグルルはともに険しい山の中腹にある谷へと分け入っていった。

「トグルルよ、お前にもやっと『神の戦士』になれる日がやってきた。お前の精進を神は大層喜んでおられる。これから聖なる戦いの任務をお前に託そう。が、その前に、特別に『天国』を味わうのを許そう」

「天国に、私も行けるのですか?」

 トグルルが真っ直ぐな瞳で聞くと、「山の老人」は重々しく頷いた。

「天国は、あの洞窟の奥底にある」

 そう言って、「山の老人」は山道の果てにあった窪みを指差した。「行ってくるがよい。ただし天国にいられるのは一晩だけだ。明日の朝、お前は神のための戦いへとその身を投じるのだ。もし、お前がもう一度この天国へ来たければ、神の御技を成し遂げて、再び戻ってくるが良い」

「はい」

 素直にトグルルは頷いた。

 小さな灯火を「山の老人」から渡され、真っ暗な洞窟を一人で進むように言われた。

 洞窟からは、今まで嗅いだことがないほど甘い匂いの煙が漂っていた。

 「冥府の女王」という聖なる葉を燻したのだと、「山の老人」は言った。

 甘い。甘すぎる。トグルルは胸がムカムカした。だが、進まなければならない。手にした灯火を頼りに、頭がぶつかりそうなほど狭い洞窟を手探りで進んだ。

 煙の匂いはどんどんきつく、甘ったるくなっていく。

 その煙を吸い込み続けるうち、トグルルの思考は次第に麻痺していった。一呼吸するごとに、周囲は美しく輝き始め、蜃気楼のようにすべてが歪んでいく。

 ふいに、トグルルは笑いたくなった。

 何という甘い香り。楽園のすべての花を集めたような、むせ返る甘い匂いがする。そして、何もかもが、とてつもなく愉快だ。

 全身をくすぐられるように、高揚感が走る。

 その時、洞窟の果てに明かりが見えた。甘い煙は、そこから流れてきているのだ。竪琴の音も聞こえる。胸を締め付けるような、切ない、もの悲しい弦の音色。そして、微かに歌声が聞こえた。

 少し掠れた、甘い声。

(まさか!)

 トグルルは突然、冷水を掛けられたように目が覚めた。灯火を持っていた手が震えた。

 煙の中に浮かび上がったのは、一人の女の後ろ姿。腰を下ろし、竪琴を爪弾いている。薄い布で顔を覆ってはいるが、憂いを帯びた横顔がうっすらと見える。長い睫が、何かを言いたげに、悲しげに伏せられている。

 柔らかそうな唇が動き、歌を紡いでいく。


 --現れたるは 七つ門

   立ちはだかりし 門番は

   女神の宝 奪いたり

   最初の門で失うは 王の冠なりにけり

   第二の門で奪われし

   太陽と月の耳飾り--


 掠れた声が歌う。切ない声で歌う。俄かには信じがたい、あの声。

「…何の歌?」

 そっと問いかけると、歌は止まり、代わりに掠れた声が答えた。

「遠い、遠い昔のバビロンの歌。預言者が現れるよりもっと昔に、冥界へ降りていった女神イシュタルの物語よ。冥界へは七つの門があって、門をくぐるごとに彼女は一つ一つ宝物を死霊に奪われたの。女神はもう地上へは戻れない。帰るためには、身代わりが必要なの。それだけじゃない。死霊に盗られた宝を取り返さなければならない」

 間違いない。柔らかな掠れた声。たまらなくなってトグルルは叫んだ。

「ララ!」

 ビクリ、と女の体が震えた。

 答えはない。どちらも何の声も発しない。ただ灯火の燃えるチリチリという音だけが、ひりつくような沈黙を彩る。

「…ララ、だよね」

 思い切って、もう一度トグルルは呼んでみた。「ララ、生きてたんだね…。良かった。俺、もうララは天国に行っちゃったって聞かされて…、俺…」

「天国なのよ、私がいるのは」

 ララは背を向けたまま答えた。「ここは天国だって、聞いて来たんでしょ?」

 その声はぞっとするほど冷たく、自嘲めいて響いた。

「…ララ?」

 トグルルは灯火を地面に置くと、恐る恐るララの頭を覆う薄布に触れてみた。ララは逆らわず、トグルルのするがままに任せた。するり、と布が落ちると同時に、ララは振り返った。闇のような黒い瞳と、もの問いたげに揺れる長い睫。何も変わっていない。少し大人びたけれど、聡明で凛とした美しさはそのままだ。いや美しさはさらに増している。

「…ララ、だよね?」

「…トグルル…、私は…」

 押し殺したような声が、ララの口から漏れると同時に、トグルルはララを力の限りに抱き寄せていた。

「ララ!会いたかった…!ずっと、ずっと会いたかったんだ…」

「トグルル…!」

 ララは諦めたようにトグルルの抱擁を受け入れ、自分もその背中に腕を回した。「…私も、私も本当は会いたかった。あんたに会いたかった」

 ララは体を離すと、トグルルの顔を両手で包み、じっと彼の目を見詰めた。灯火の微かな光の中で見えるのは、お互いの懐かしい顔。

「いつのまにか、立派な大人になったのね」

「そうだよ、もう十七だよ」

 ララが笑う。すると、その片耳で月の形の銀の耳飾りが揺れた。

 トグルルは、そっとその耳に口付けた。

「持っていてくれたんだね、ララ」

「当たり前でしょう。これだけは絶対に離さない。耳をちぎられたって離さない」

「ララ!」

 もう一度、トグルルはララを抱き締めた。何ひとつ変わっていないのに、ふくよかな唇だけは、熟れた果実のように赤く染められていた。それが、幻惑するように目の前で震える。トグルルは、その唇に狂ったように口付けた。唇に、白い歯に、会えなかった日々の思いを刻み付けるように。

 長い口付けが終わった途端、ララはなぜか急いで灯火を吹き消した。

「ララ?」

「…黙って」

 閉ざされた洞窟の中で、明かりと言えるのは、甘い煙を吐き出し続ける小さな壺だけ。やっと互いの輪郭が見える程度の闇と煙の中で、二人は手探りしながら抱き合った。

 トグルルの腕の中で、ララの細い体は芳香を放つ蜜になり、若きトグルルを熱く受け入れた。

 そして、トグルルは知った。「天国」とは、ララの中にあることを。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。遠くで名も知らぬ鳥の鳴く声が響き、夜明けの気配が近付いてきた。

 トグルルはララの黒い髪をいとおしげに撫でながら問うた。

「ララ、君はいつから、どうして、ここにいるの?」

「…私は…」

「俺、ララはもう死んだって聞いてたんだ。だから、すごく、すごく悲しくて…悔しくて…」

 ララは悲しげに長い睫を伏せた。

「その通りよ。もう私は死んだの」

「嘘だよ。今、ちゃんとここにいるじゃない。どうして『山の老人』は嘘なんかついたんだろう」

「嘘なんかじゃないわ。私は天国の…、いいえ、冥界の人間も同じ。もう地上へは出られない」

「どういうこと?」

「言葉の通りよ。私は、ここを出られないの」

「分からないよ。囚われているってこと?」

 だが、ララを縛る鎖はどこにもない。ララは肯定も否定もせず、曖昧に笑った。

 トグルルは合点がいかないまま、小さな声でララに囁いた。

「…ララ、一緒に逃げよう」

「トグルル?」

 ララの声が固くなる。けれど、トグルルはララの手を握って続けた。「ララ、俺は君がいてくれたら、それでいいんだ。あとは何もいらない。『神の戦士』になんてならなくていい。もちろん異教徒どもは憎いよ。父さんやララの母さんの恨みも晴らしたい。奴らを八つ裂きにしてやりたい。それは嘘じゃない。でも俺、ララ、君がいてくれたら、それで、俺はもういいんだ」

 ララは泣きそうな目でトグルルを見つめたが、目を逸らし、俯いた。

「…駄目なのよ、トグルル」

「どうして?まだ朝には間があるから、今なら『山の老人』も見ていないよ。一緒に逃げられる」

「本当に駄目なの!」

 ララが叫んだ。「私はもう、あの歌の女神と同じなの。冥界から出られない。どうして分かってくれないの!」

 ララの黒い瞳から堪えきれずにボロボロと涙が零れ落ちる。

 トグルルは慌ててララを抱き締めた。ララはその腕の中で小さく震えた。肩が嗚咽で揺れる。

「…ごめん、ごめん、ララ。お願いだから泣かないで。ララ、君があの歌…あの女神と同じなら、身代わりを連れてくればいいんだよね」

「…」

 ララは肯定も否定もしない。

「俺、連れてくるよ。神が望む、あの異教徒の悪魔たちの首を持ってくる。そうすれば、ララにまた会えるんだよね」

「…会えるわ。でも、お願い。そんな身代わりはいらない。だから、あんたはここを出て、そのままどこかへ逃げてちょうだい」

「何を言うの?ララ」

 トグルルは怪訝な顔をした。だが、ララは真剣だった。

「お願いだから、このまま逃げて」

「でも、それじゃララは…」

「いいのよ、私はこれで」

「嫌だ」

「トグルル!」

「俺、絶対に戻ってくる。身代わりを連れて戻ってくる。そしてララを解放する」

 トグルルはララの手をしっかりと握った。

 その時初めて、トグルルはララの左手の指に嵌められた指輪に気付いた。大きな石がついた指輪だ。

「この指輪、どうしたの?」

「…これが、私にかけられた呪いなの」

「呪い?」

「この石が、…私を縛りつけ、私に歌を囁き続けるの」

「歌?」

「あの、冥界下りの歌よ」

 その時、朝日が一条だけ、洞窟の奥まで差し込んできた。その光は狙ったかのようにララの指輪に当たった。石は、深い緑色をしていた。光を吸い込み、反射し、石は緑の光で周囲を染める。

 トグルルも目を奪われた。見たこともないほど美しい緑なのに、真ん中には赤黒い塊があるのが見えた。まるで瞳のような、いや、禍々しい卵のような緑の石だった。

 トグルルは甘い煙に咽ながら、その石を見ていた。すると、再び周囲が蜃気楼のように歪み、遠くから「山の老人」が呼ぶ声がした。朝が来たのだ。

「そろそろ時間よ!トグルル、行ってちょうだい」

「…でも、ララ」

「早く行って!」

 仕方なくトグルルは洞窟を後にした。ララを助けるために。

 そして、トグルルは「山の老人」の言葉に従い、異教徒たちを血祭りに上げる冷酷な暗殺者となった。

 彼はララの洞窟に戻ると、多くの異教徒の首をララに捧げた。そのたびにララは抱擁ととろけるような甘い時間をくれた。だが、ララはあの煙の漂う洞窟から外に出ようとはせず、ただ悲しげに笑うだけだった。

「『身代わり』の血が足りないからだ」

 そう「山の老人」は言った。その言葉を信じて、トグルルは何度も異教徒の血を求めて街へと降りていった。

 トグルルはひたすらに血を求め、成果を両の手にさげながら、甘い煙の漂う洞窟へと通った。ララを解放するために。


 地下牢に漂う、甘い香りの草の葉の煙。「冥府の女王」という名の葉。

 その匂いに酔いしれながら、トグルルは呟くように歌っていた。

 --女神、死霊に夫を指し示す

   我が身代わりは この男-

 ファビアンは冷たい薄荷水を浸した布を、うつぶせに横たわったトグルルの頬に当てた。そのまま顔を拭いてやる。深く刻まれたトグルルの眉間の皺が、一瞬ほぐれる。

 トグルルの手がファビアンの指をそっと掴み、呟いた。

「…いいんだよ、ララ、君のためなら、俺は喜んで…だから、どうか、君は…」

 トグルルの目から一筋の涙がつい、と流れた。

(獣のごとき異教徒にも涙があるのか?)

 ファビアンは握られた指を外し、そっとその涙に触れてみた。温かい。唇に持っていくと、ほのかに塩辛い味がした。

 そっと薄荷水の布でトグルルの耳元を拭く。トグルルの左耳には、小さな銀の耳飾りがあった。

 三日月を模した耳飾りだ。精巧でもなければ、美しくもない。高価とも思えない。それどころか幼い子供が作ったかのように稚拙だ。だからこそ、彼から緑の石の指輪を奪った管区長代理のフィリップたちもこの耳飾りには食指を動かさなかったのだろう。

 だが、ファビアンはその耳飾りから目を離せなかった。その耳飾りを、彼は美しいと感じた。不恰好な三日月からは、ぎこちない温かさが滲んでいたから。

 この牢からは見えない、やさしい月の光がトグルルの耳で輝いている。

 誰かが、この男に愛とともにこれを託したのだろう。それは、「ララ」なのだろうか。

 ファビアンはその耳飾りをよく見ようと顔を近づけた。すると、トグルルの腕がやさしくその頭を抱き、額に口付けた。

「ララ、大丈夫だから。俺が、必ず救い出すから」

 甘い煙の中で、ファビアンをララと勘違いしたまま、トグルルはまだ深く眠り続ける。

 ファビアンも、その腕を振り払うことはできなかった。ギイのように、やさしく力強い腕だったから。

(悪の化身の腕が、なぜ、これほどに優しく、温かいのだ…)

 ファビアンもまた、自ら進んで、甘い煙がもたらす夢の中に再び落ちていった。



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