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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第八章

 トグルルたちの街は真紅の炎と、どす黒い煙に覆われていた。

 焦げ臭い匂いが、丘の上の二人の鼻にまで漂ってくる。

「ララ!早く戻ろう!」

「駄目!トグルル!」

 ララはトグルルを意外なほど強い力で引き止めると、棗椰子の木の陰へと引っ張り込んだ。トグルルが驚き、抗う。

「ララ、早く家に戻らなきゃ!」

「静かに。隠れて」

 声を押し殺してララが言う。

 ララは有無を言わせずトグルルを地面に伏せさせ、自分はその上に覆いかぶさった。周囲に鋭い視線を放つ。近くに誰もいないことが分かると、トグルルの耳元で囁いた。

「あの旗は、異教徒どもよ。十字軍がついにこの街にまで来たんだ」

「それなら皆を助けなきゃ!」

「駄目!」

 ピシャリと、ララは言った。「連中は私たちを悪魔だと言って、手当たり次第殺すそうよ。アンティオキアでも、ダマスカスでもそうだったって…」

「それじゃ、父さんたちは…」

 ララは唇を噛んだ。

「…あんたは、絶対に行っちゃ駄目」

「ララ、でも…」

「行っちゃ駄目!」

 トグルルはララの下で大人しくなった。ララが声を押し殺して泣いているのが分かったから。

 そして二人は一晩、丘の上で過ごした。

 街を焼く煙は朝まで立ち上っていた。

 ララはまだ動かなかった。夜の闇が再び迫り始めるころ、やっと二人は街へと降りていった。


 果たして、街はララの言った通りになっていた。

 家も、市場も、マドラサも、モスクも、すべてが真っ黒に焼け焦げている。道にはたくさんの死体が無造作に転がっている。男のもの、女のもの、子供のもの、年寄りのもの。すべての命が、尽きていた。

 生きて動くものは、そこにはない。漂うのは、肉が焦げる生臭い匂い。知っている人たちのはずなのに、どうしてもそうは思えない。

 二人は手をしっかりと繋いで、無言のまま街を歩き続けた。

 最初は恐怖と吐き気で、口を押さえ、必死に耐えていた二人だったが、次第に死体を見ても何も感じなくなっていった。それほどに死が、当たり前のように転がっていた。世界の終わりをたった二人で漂っている。そう思えてならなかった。

 足は自然に、かつて家があった場所へと向かう。

 が、そこが本当にそうなのか、二人は俄かには信じられなかった。それはただ黒く焦げた瓦礫の山にしか見えない。

 二人はトグルルの家の前に来ると、無言のまま目を見合わせ、握った手にさらに力を込めた。そして思い切るように、一緒に暗い家の中へと入っていった。鉄のような、腐った油のような、生臭い匂いが鼻を突き刺す。

「…父さん、いないの?」

 答えは、無い。

 トグルルは何かに躓いた。ぬるり、と足が滑る。暗くてよく見えない。目を凝らす。一瞬を置いて、トグルルの口から悲鳴が上がった。いや、恐ろし過ぎて悲鳴にすらなっていなかった。空気が裂けたような、息が漏れただけだ。

 それは首のない死体だった。服は血にまみれ、何色だったのかさえも分からない。けれど、その大きな手、長く、あちこちに胼胝がある指は、明らかに見慣れた父のものだった。

 呆然と立ち尽くすトグルルを、ララはきつく抱き締めた。

「…トグルル」

「…ララ」

 トグルルは顔を上げた。そうだ、ララがいる。ララだけは、ここにいる。

 唇を湿らせて、トグルルは言った。

「…ララの、お母さんを探しに行こう」

 トグルルの言葉に、ララは小さく頷いた。

 ララには覚悟はできていた。女しかいない、自分の家がどうなっているか。

 隣のララの家からも、やはり生臭い匂いがした。覚悟はできていたつもりだった。が、やはりララは顔を手で覆った。

 そこには、トグルルの父親よりも無残な死があった。

 何が起きたのか、幼いトグルルにも分かった。衣服は切り裂かれ、まるで家畜を屠殺するように胸から腹、股までが切り裂かれていた。辱められ、なぶり殺された女の顔が、虚空を睨み、世界を呪ったまま事切れている。

 二人は言葉も無いまま、ただ抱き合った。

 あまりの恐怖に、泣くことすらもできない。

 なぜ、こんな残酷なことができるのか。

 これは悪魔の仕業なのか。

 なぜ、こんな恐ろしいことが自分たちの上に降り注ぐのか。

 なぜ。

 なぜ!


 その気配に気付いたのは、トグルルだった。

「ララ、あれ…」

 トグルルの目が丸く見開かれる。「竜…、竜がいる」

 ララは驚いて振り返った。

 確かに、トグルルの視線の先には恐ろしい竜がいた。

 青く冷たい月明かりに照らされ、こちらをひたと睨む赤い目、蝙蝠のような黒い巨大な翼。

 ララはもう一度、瞬きした。

「…違うわ、トグルル」

 それは、街へと入る門の残骸だった。堅牢だったはずの門は、業火に焼かれ、投石器で崩され、今は片側しか残っていない。それが、まるで不恰好な化け物が蹲っているように見えたのだ。まるで地獄から来た竜のように。

 だが、ララの体が硬直した。竜に見えた門の側から、何かの影が動くのが見えたからだ。ゆっくり近付いてくるそれは、馬に乗った人間だった。

「トグルル、隠れて!」

 ララは素早くトグルルを自分の背に隠そうとした。が、もう既に遅い。馬上の人間は二人に向かって迷いなく馬を駆けさせた。

 だが、その人物を見た瞬間、ララはホッと安堵の溜め息をついた。

 それは、ターバンを巻いた、白く長い顎髭を持つ初老の男だった。獣のごとき異教徒ではない。

「この街の生き残りか?」

 二人は無言で頷いた。

「恐ろしい目に遭ったな」

 男は周囲に目をやると、搾り出すように言った。「このような地獄をつくり出した野蛮な神のしもべどもに、呪いあれ」

「呪いあれ」

「呪いあれ」

 二人は掠れた声で繰り返した。

「安心していい。奴らはもう北へ行った」

 二人はただ頷く。

 男は、そんな二人をじっと見た。

「お前たち、これから行く場所はあるのか?」

 二人は首を振った。初老の男は続ける。

「もし、お前たちにあの野蛮な異教徒どもを葬る勇気があるのなら、我らの岩屋に来ぬか?我はアンサリーヤ山脈の奥に住む、『山の老人』。お前たちに力を授けることができようぞ。蛮族どもに神の怒りの一太刀を浴びせる力を」

「…それは、『暗殺教団』のこと?」

 ララが訝しげに聞いた。「噂に聞いたことがある。『山の老人』のもとで、えらい人たちを狙って殺す恐ろしい集団があるって…」

 男は困ったような顔をした。

「そのように見えるかもしれぬ。だが、我らは蛮族どもに神の怒りの鉄槌を下し、正義を実現させるために力を尽くしているだけだ。我が民の血と涙の代価を、異教徒どもに支払わせているのだ」

「…でも」

 ララがさらに言い募ろうとした時、

「僕を連れて行って!」

 トグルルが叫んだ。「父さんと、ララのお母さんを殺した奴らを、八つ裂きにしてやるんだ!」

 少年の目は怒りで燃えている。ララを悲しませるのは、何人たりとも許さない。

「もちろんだ。来るがよい、逞しき少年よ」

 満足そうに男はトグルルの背を叩くと、ララをチラリと見た。「娘、おぬしはどうする?」

「…トグルルが行くのなら」

 ララは、仕方なくそう言った。長い睫を伏せ、何かの言葉を呑み込んで。

 初老の男は頷くと、腕を伸ばし、二人を馬に乗せた。その時、ララは見た。男の指に、緑の石の指輪が輝いているのを。美しいが、何かの目玉のような不気味な色の石だった。

 そして三人は、遠い山脈の奥にある、隠された岩屋へと向かった。



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