騎士の砦 第七章
ララ。
その、音楽のような名をトグルルはそっと口の端に乗せてみた。
幸せはいつも、その名とともにあった。
この砦に囚われて何日になるだろう、とトグルルは思った。この暗い牢で鎖に繋がれて。
昼は異教徒の司祭が毎日、訳の分からない説教と鞭をくれる。飽きもせずに。
そして、夜は。
『トグルル、今日はいいものを持ってきた』
その、若い修道騎士は強張った顔で言い、小さな皿に乾燥させた草を盛った。「『冥府の女王』。お前の、求めるものだ」
「お前は、その薬がどういうものか分かっているのか?」
『もちろん知っている』
確かファビアンとか言った。赤い巻き毛の、少女のような儚げな顔つきのその異教徒は、思い詰めた顔で頷いた。
トグルルは、ファビアンの顔をじっと見詰めた。昼間の司祭たちは、俗物で高慢な、鼻持ちならない輩ばかりだが、このファビアンとやらは、少しはマシだ。そう、トグルルは思った。
彼は傷の手当てをしてくれる。もちろん上からの命令であり、彼の意志ではないだろうが、それでもきっちりとした仕事ではある。何よりも、頑固なまでにトグルルたちの言葉を使おうとするのが気に入った。だから自分も敢えて、彼らの言葉を使う。そして何よりも、目を伏せた時の寂しげな顔がララを思い出させた。何ひとつ似てはいないのに。
ただ、トグルルは感じていた。ファビアンの中に宿る憎しみを。誰よりも激しい、怒りの奔流を。司祭たちの目にはそれは無い。彼らにあるのは、蔑み。それは自分を人間とは思っていないからだ。
ファビアンは薬に火を点けた。
甘い、饐えたような匂いが立ち上がる。
確かに、「冥府の女王」に違いない、とトグルルは感じた。慣れ親しんだ香りだ。頭の芯から痺れてくるような。
だが、ファビアンはパタンとその葉の上に蓋をした。甘い香りが一瞬、途切れる。
「トグルル、もっと嗅ぎたいのなら、お前たちの、『鷹の爪』の居所を話すんだな」
トグルルは鼻で笑った。
『お前は、<冥府の女王>を使ったことがない』
ファビアンは、グッと詰まった。
「…そんなことを言って、私の気を逸らそうとしても無駄だ」
『真実だ』
「うるさい!うるさい!」
ファビアンは机を荒々しく叩いた。「さっさと吐くんだ!お前たちの穢れた巣窟を!そうしたら、思う存分、この煙を吸わせてやる」
トグルルはまた鼻で笑った。
『話してやってもいいさ。だがお前は多分、俺の言葉を聞けないだろう。今、お前は、<冥府の女王>に火を点けたからだ。もうじき<夢>がやってくるさ。俺にも、そしてお前にも』
「夢、だと?」
少女のような修道騎士は、引き攣った顔で問う。
『やはり、お前は知らないのだな。<冥府の女王>のもたらす夢を』
俺は知っている。ララ。その名を唱えて、煙の中に身をおけば、現世の苦しみを忘れられる。
もうじき、甘い煙とともに君がやってくる。君の顔を思い出せば、どんなことにも耐えられる。
『ファビアン、とか言ったな。異教徒たちよ、俺を殴るがいい。切りつけたっていい。俺は痛みなんか感じない。俺の意識はもっと高いところにある。お前たちがどんなに俺の体を痛めつけようと、俺はそれを高みから眺めているだけだ』
トグルルはそう言って、戸惑うファビアンを尻目に目を閉じた。
心を研ぎ澄ませ、集中させれば、音はじき消えていく。甘美な煙が、体の痛みを消し、美しい思い出へと連れ去ってくれる。そう、「冥府の女王」がもたらすのは、甘美な夢。もしくは悪夢。
ララ。
もう一度、トグルルはその名を口にした。
ララ、いつか帰るんだ。僕たちの、あの美しい街へ。
太陽を受けて輝く青い煉瓦のモスク、賑わう市場、そしてたくさんの装飾品がきらきらと光を放つ、銀細工師だった父の仕事場。
そして、ほら、顔を上げれば、いつでも窓から君の顔が見える。
「トグルル!」
少し掠れた、甘い響きの声が、窓からした。逆光が眩しすぎてよく見えないが、誰かは見なくたって分かっている。
「ララ!」
そう呼ぶと、隣の家に住むララはいつも少し困った顔をした。それは彼女の本当の名ではないから。でも、皆がララと呼ぶのだ。愛を込めて。けれど、彼女は不本意そうだった。その名のどこが気に食わないのか、五歳も年下のトグルルには分からなかったが。
ララは太陽のように美しく、そして賢い少女だった。女子ながら、マドラサ(イスラム法学の学校)で学ぶことを許されたほどの。他のどの学生も、時には教師すらも、ララの知識と頭の冴えには適わない。
それが、トグルルには我がことのように誇らしかった。
「ララ、もう授業は終わったの?」
「うん。そっちもいいの?」
ララはマドラサで学ぶためなのだろう、外に出るときは男の服装をしていた。それは十七歳のララの、花が綻ぶような美しさを際立たせるだけなのだけれど。
「ララ、太陽の丘へ行こうよ!きっと夕陽が綺麗に見えるよ」
ララの返事を聞く前に、十二歳の少年のトグルルは通りに飛び出していた。そしてララの手を引っ張り、丘へ向かって走り出した。
「待ってよ、トグルル!体ばっかり大きくなって、子供みたいよ。私はあんたみたいに足が速くはないのよ」
咎めつつ、ララは嬉しそうに笑っている。
「早く、ララ!夕陽が沈んじゃう」
トグルルは転ぶように通りを走り、一気に街を駆け抜けた。丘へ向かう一本道になったところで、トグルルは足を緩めた。ララは大きく息を整える。
「本当に体力だけは大したもんね。なのに、どうしてあんたはマドラサに来ないの?」
「えへへ」
トグルルはバツが悪そうに舌を出した。「だってさ、ありがたいお話なんだろうけど、僕、眠くなっちまうんだ、あんな授業聞いていると。僕、頭悪いから。いいんだよ、僕は父さんの跡継いで、銀細工師になるんだから」
「でも、神様のお話を聞くのは良いことよ?」
「いいんだって。僕、大事な話はララから聞くから」
「トグルル、いつまでも甘えてちゃ駄目よ。私はもう…行くんだから」
「うん」
トグルルは口を尖らせて、ララの手を強く握った。「知ってる。宮殿に入ってスルタンに仕えるんだって、おばさんが得意げに言ってたよ。すごいね」
「…すごくなんか、ないの」
ララは一瞬、視線を落とす。長い睫が頬に影を落とし、端正な横顔に憂いが宿る。沈黙が訪れる。
トグルルもまた黙ったまま、二人は丘の頂上へと急いだ。夕焼けに間に合うために。
「うわあ」
最初に声を上げたのは、ララだった。
丘を登り切ると、ちょうど西には真っ赤に燃えて落ちていく太陽が見えた。そして、東には青みを深めて空に浮き上がる弓のような月。その先端には、宵の明星が輝き、刻一刻と光を増していく。
「まるで…まるで、世界中が全部私たちのためにあるみたい」
ララがうっとりと呟いた。
「そうだよ、ララ」
トグルルは胸元から小さな袋を取り出すと、ララの手の中にそっと押し込んだ。
「何?」
「僕が、君に世界をあげる。永遠に」
不思議そうにララはトグルルの顔を見、その小さな袋を開けた。
そこにあるのは、銀の耳飾り。今、目の前にある月を形にしたような、三日月だ。
「これ…」
「僕が作ったんだ。まだ下手だけど、ララにあげる」
ララはしばらく、その耳飾りとトグルルの顔を困ったように見比べていた。
途端にトグルルは恥ずかしくなった。気に入らなかったのだろうか。きっと、そうだ。こんなおもちゃみたいなものを、宮殿に入る美しいララにあげてしまうなんて。
「ララ、気に入らなかったら、捨てていいから…」
言い終わる前に、ララは泣き出した。くっきりと縁取りをしたような、アーモンドの形の目から真珠のような涙がポロポロと零れ落ちる。
「ラ、ララ?どうかしたの?」
「…ありがとう」
ララはしゃくり上げながら、掠れた声で言った。「すごく、嬉しい。大事にするね」
「ほんと?ほんとに?」
トグルルはララの肩を掴んだ。ララは泣きながら笑って見せた。
「私、この耳飾り、一生、死ぬまで離さない。どんなことがあっても」
「死ぬまで…」
トグルルは、何か大きな力が胸の奥をグッと掴むのを感じた。鼓動が、どんどんと速まっていく。
「ね、ねえ、ララ。僕、お願いがあるんだ」
「何?」
トグルルは、一つ唾を飲み込んだ。
「今じゃなくていいんだ。僕が大人になったら、立派な男になったら、ララ、僕と結婚してくれる?」
言った途端、またララの表情が曇った。「ララ」と呼ぶたびに、何か悲しげに曇る、あの表情だ。
またしばらく沈黙が訪れる。トグルルは、唇を噛み締めて、ララの顔から目を逸らした。
やっぱり、駄目なんだ。こんな子供では駄目なんだ。トグルルは、恥ずかしく、悲しくなった。もし口にした言葉が元に戻るすべがあるなら、今すぐに飲み込んでしまいたいと思いながら。
沈黙に耐えられなくなり、トグルルが再び口を開こうとしたその時、
「トグルル」
ララは掠れた声で呼び、トグルルの頬を両手で包んだ。黒い瞳がじっとトグルルを見ていた。すべてを許し、受け入れるような、不思議に静かな瞳だった。ふっくらとした桜色のララの唇がそっと動く。
「トグルル、ありがとう。嬉しい。でも、あんたはまだ幼くて、何も知らない。もっと物事が分かるようになったら、あんたは絶対にそんなことは言わない」
「ララ、僕、世界のすべてを知っても、君が好きだよ」
トグルルは、自分の頬を包むララの手に自分の手を重ねた。
ララは困ったように笑い、自分を納得させるように頷いた。そして、ララはトグルルの掌にそっと口付けた。
「私も、あんたのことが大好き。トグルル、世界中の誰よりも。こうしましょう。この耳飾りを分けましょう。私とあんたで。そして、あんたが違う誰かと結ばれる日が来たら、せめてこれだけは私に返してちょうだい」
「そんな日は来ないよ」
「人は変わっていくものよ、トグルル」
「僕は変わらないよ」
ララはまた、困ったように笑った。でも嫌がってはいなかった。
「トグルル、あんたが私にこの耳飾りを着けて」
そう言うと、ララは頭に巻いていたターバンを少しずらし、耳たぶをトグルルに差し出した。トグルルは耳飾りの鉤をララの右耳に当てた。綿のように柔らかな耳たぶの感触に、トグルルの頬が赤らむ。
「痛かったら、ごめん」
ララは花が綻ぶように微笑んだ。
「あんたが与えるものはすべて、喜びなの。痛みだって」
トグルルは指に力を入れた。途端に溢れる鮮血。トグルルはそっとその血に口付け、三日月の耳飾りを引っ掛けた。
「今度はララが僕に着けて」
トグルルが右耳を差し出した。ひんやりとしたララの指先がトグルルの大きな耳たぶに触れ、続いてさらに冷たい耳飾りの鉤が押し付けられる。一瞬の痛みの後、ララはトグルルがしたのと同じように、トグルルの耳たぶに口付け、銀の耳飾りをぶら下げた。
「僕は一生、ララ、君だけのものだから」
「…ありがとう」
トグルルはララを固く抱き締めた。
爆発しそうな歓喜が、体の奥から湧いてくるのをトグルルは感じた。あまりに嬉しくて、眩暈が押し寄せてくる。
「ララ…ララ…!」
ララもまた、トグルルを抱き締める。
その時だった。
ララの体が急に硬直した。
「…トグルル!トグルル、あれ…!」
ララの声が裏返り、震える。
「ララ?」
ララの目は大きく見開かれ、口元は恐怖で震えている。
トグルルはララの視線を辿り、振り返った。その瞬間、彼の口からも空気が漏れるような悲鳴が走り出た。
何が起きているのか、彼らには俄かに分からなかった。
丘の下の街が真っ赤に燃えていた。
それは夕陽が染め上げた色ではなく、本当に燃えているのだ。街のあちこちで蛇の舌のような炎が噴き出していた。地獄のように。




