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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第六章

 「鷹の爪」は予告通りにやってきた。

 それも白昼、城下の街で。

 ミサを行うため、ギイが扮する「管区長」ら騎士団の二十数人が現れたところを、行商人の装いの刺客四人が襲った。彼らは小さな毒の吹き矢で馬を狙い、馬上の騎士たちが倒れたところに剣を振り下ろしてきた。

 だが、「管区長」は勇猛果敢だった。刺客たちは、彼が予想よりも腕が立つと知るや、剣を諦め、再び毒矢で背後から「管区長」の首を射た。動けなくなったギイを刺客が二人がかりで抱え、あっと言う間に馬に乗せてどこかへ連れ去った。

 「騎士の砦」に戻ってきた騎士たちは、本物の管区長にこう報告した。追いかけようとしたが、毒矢のために使える馬は無く、敵を取り逃がしてしまった、と。

 ファビアンは、管区長の部屋でその報告を石のように硬直したまま聞いていた。彼には分かっていた。騎士たちには本気でギイを守る気など無かったことを。そして、危険を承知で敵を追うつもりも無かったことを。身分の低い「従士」風情のギイのために、命を賭ける気は彼らにはなかったのだ。

 目の前では、命拾いをした「本物の」管区長が椅子に深く体を預け、表情をまったく変えずに聞いている。言い訳と神への賛辞に彩られた騎士たちの報告が終わると、管区長は立ち上がった。

「セルジャン(従士)ギイに神の祝福があらんことを。皆も祈るが良い」

 そう言って、管区長は礼拝堂へ行こうとした。思わずファビアンがその衣を掴んだ。

「それだけですか?」

「なんだ、兄弟ファビアン」

「ギイを助けには行かぬのですか?」

「『鷹の爪』の隠れ家は分からぬ」

「アンサリーヤ山脈を山狩りすればいい!あの山を虱潰しに当たれば、何か分かるはずです!早急にご命令を」

「そのようなことに騎士団を投入するわけにはいかぬ」

「…そのような、こと?」

「そうだ。エルサレムへの要路に位置する我が砦には、街道と城下町の守護という重大な責務がある。その戦力を削ぐわけにはいかぬ」

「…ですが、このままでは、ギイは…」

「だから、セルジャン・ギイのために祈るのだ」

「ですが、ギイは貴方様の身代わりとして…」

 管区長の眉がピクリ、と動いた。

「口を慎め。兄弟ファビアン。まるで私に非があるかのように聞こえるぞ」

「…お許しを」

 ファビアンは唇を噛んだ。だが、居ても立ってもいられない。この瞬間にも、ギイは刃を突き立てられているのかもしれないのだから。「でも、どうかギイを助けてください。彼は私の大切な従士であり、乳兄弟なのです。私は…」

「兄弟ファビアン。騎士団の掟は絶対服従だ。君の言葉も態度も規律から逸脱している。これから懺悔の部屋で祈り、悔い改めるように」

「管区長!私だけでも構いません。ギイを助けに行かせてください!」

「絶対服従だ。悔い改めるように」

 管区長は、衣にすがりついたファビアンを強引に払いのけると、部屋を立ち去った。

 取り付く島もなかった。

 そしてファビアンは一夜、懺悔室でギイを思い、祈り続けた。

 だが騎士団はやはり動かなかった。「管区長」を取り戻そうとはしなかった。


 ギイが消えてから三日目の夜明けのことだった。

 ファビアンは朝課を終え、渡り廊下を歩いていた。じき夜が明ける。

 今日こそはギイを探しに行く。ファビアンは心に決めた。「鷹の爪」を探しに行く。修道騎士の身分は捨てる。それなら管区長とて文句は無いだろう。

 ファビアンはぐっと手を握り締めた。もっと早くこうすべきだったのだ。

 その時、彼はふと顔を上げた。朝日が昇り始めていた。見やった真正面に、「鉄の門」が見えた。今朝もまた、朝日を浴びて門は錆びた朱色に、血の色に染まっている。あの日と同じように。

 ファビアンは顔をしかめた。

 門の外に一瞬、人影が見えた。軽やかに馬を操り、ターバンを巻いた装束。異教徒に違いない。

(「鷹の爪」か!)

 ファビアンの目が見開かれる。

 人影は何も言わずに門前に何か壺のような物を置くと、再び馬に乗り、風のように去っていった。砂埃が朝日に光る。

 慌ててファビアンは駆け出した。が、既に異教徒の姿はなく、残されているのは陶器の壺だけだ。

それは、人の頭くらいの大きさの壺…。

 全身の毛が逆立つような、おぞましい予感が一瞬、ファビアンの体を駆け巡る。その中に入っているものが何であるのか、ファビアンはもう知っていた。

 震える手で、壺の蓋を取った。果たして、そこにあるものは予感通りのものだった。

 ファビアンは一度目を閉じ、天を仰いだ。ゆっくりと壺の中に手を入れ、血に汚れたブロンドの髪を撫でた。

「…よく、帰ってきた」

 それだけの言葉を搾り出すと、腕を入れてそっと取り出した。

 それは、紛れもなくギイの頭部だった。目は固く閉じ、肌は蒼白。右の耳にある丸い痣は、今は黒い染みのように見える。

 ファビアンは血に汚れるのも厭わず、ギイの頬に頬を寄せた。まるで見知らぬ彫像のように冷たく、他人行儀な頬。

 ファビアンはギイの頭を抱き締めながら、「鉄の門」を見上げた。朝日を浴びた門の塔は、再び竜のようにファビアンを睨んでいるように見えた。本当に竜だったのかもしれない、とファビアンは思った。地獄から来た禍々しい古代の竜だったのだ、と。


 ギイは丁重に弔ってもらうことさえ、許されなかった。

 彼が管区長の身代わりになっていたことは、騎士団内でもごく一部しか知らぬ極秘事項だったから。誰にも気付かれぬよう、ギイの頭は砦の一角で燃やされ、墓すら作られることなく遺骨は土に埋められた。

 後にファビアンは修道騎士のジャンから聞いた。「鷹の爪」から身代金の要求が来ていたことを。

 そして、それを管区長らは無視したことを。

「『異教徒に屈してはならない。命を懸けても』と管区長殿はおっしゃった」

 そう、兄弟ジャンは告げた。

 従士が一人消えたところで、誰も気にはしなかったのだ。

 だが、ファビアンは誰も責めることができなかった。

(私もまたギイを見捨てたのだ。なぜ、あの時助けに行かなかったのか。何を恐れていたのか。修道騎士の身分を失うことか?そんなつまらないことでギイは…)

 ひんやりとした礼拝堂で、ファビアンは祈ることも、泣くことすらできずに、ただ呆然と虚空を見ていた。

 

 ギイが命がけで守った管区長だったが、その命は長くはなかった。

 一カ月後のある日、エルサレムを訪れた諸侯に会うため管区長は騎士たちに囲まれて、砦を後にした。が、山道ですぐに刺客たちは現れた。あっという間に管区長と騎士二十人は「鷹の爪」の餌食となった。今回はさすがに身代金の要求に応えたが、誰一人として生きては帰ってこなかった。



 ファビアンは、床に突っ伏すように眠っていた。

 夢を見ている、と自分でも分かっていた。だから、こんなにギイのことを鮮明に思い出すのだと。

(ギイはいないのだ。だから考えないようにしていたのに)

(ギイ、なぜ呼んでも来ないのだ。ずっと呼んでいるのに、なぜお前は!)

 ここはいつもの地下牢であり、先刻、彼はトグルルの口を割らせるために薬「冥府の女王」を焚いた。

 だが、「冥府の女王」の幻覚に引きずり込まれたのは、他ならぬファビアン自身だったのだ。

 懐かしく、けれど悔恨に彩られたギイとの思い出に、ファビアンは沈んでいった。




 

 

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