騎士の砦 第五章
夢を見ているのだ、とファビアンは分かっていた。
午後の日差しを受け、自室でまどろんでいる。この感覚はよく知っている。夢を見ていると知りながら、目覚めることはなぜかできない。そんな昼下がり。
起きて、薬部屋に行かなければ。そうだ。トグルルに吸わせる、あの特別な麻の葉を探すのだ。確か、現地の言葉で「冥府の女王」というはずだ。忘れがたい、甘美な匂いがするという…。早く行かなければ。トグルルが地下牢に戻って来る前に、準備をしなければ。
ファビアンは手を伸ばした。その指が何かに触れた。温かい。誰かの腕だ。しっかりと筋肉のついた鋼のような腕。
(…ギイか?)
言葉はなぜか声にならない。だが、太い腕の主が、ファビアンの指を握り返す。ガサガサとして関節の大きな、でも温かな手の感触。
(…ギイなのだな…)
ファビアンはその腕を抱き締めた。
(…ギイ、やっと帰ってきたのか)
ファビアンの意識は、今度は遠い北フランスの田舎の城へと飛んだ。十七の年までいた、あの古い石の城へ。
荒野に風が吹いていた。もう秋も終わろうとしていて、冬が刻一刻と近付いていた。
おずおずと、部屋へと入ってくる影。
「ファビアン様、やはりお行きになるのですか?」
乳兄弟のギイだった。大柄な体を申し訳なさそうに縮こませ、心配そうにファビアンを見下ろす。
「ギイ、何度も言っているだろう。決めたのだ。私は異教徒から平和の都を守る修道騎士になるのだ」
「お気持ちは分かりますが、危険でございます。何もファビアン様が行かなくても。ファビアン様はまだ十七歳。今一度お考え直していただけませんか」
「何も聞こえぬ。お前こそ十七ではないか」
ファビアンはつっけんどんに答えた。城主の正式な息子ではあるが、実際には庶子であり、頼みの綱の母親も早くに亡くしたファビアンがこの城にいつまでもいられるはずもない。それを知っていながら十字軍入りを止めるギイに、ファビアンは苛立った。
ギイは困ったように、下を向いた。そんなギイのすべてがファビアンを苛立たせた。同い年なのに、自分とは比較にならないほど屈強で堂々とした体躯も、神の祝福を集めたようなブロンドの髪も、いつも微笑み、誰にでも温かな眼差しを向ける青い瞳も。そんな優しいギイを困らせている自分自身も。
ギイは困ったように顔を赤くして、ファビアンの次の言葉を待っている。彼の右耳には赤くて丸い痣があって、彼が困ったり、思い詰めた時には顔以上にその部分が真っ赤になる。彼の母のアンヌ、つまりファビアンの乳母にあたるのだが、彼女なぞは「太陽さん」とギイのことを呼んでいた。
「用が済んだら、さっさと出ていけ」
「…はい」
ギイは小さな声で返事をすると、すごすごと引き上げた。その様子もファビアンを苛立たせた。
(どうして、引き留めないんだ)
ファビアンはギイが去った後のドアに枕を投げつけた。
父も、義理の母も、異母兄たちも、誰も彼を愛してなぞくれなかった。だから、この城には何の未練もない。引き留めてほしいなんぞも思わない。ただ一人を除いては。
(でも、ギイも同じなのだ)
唇を尖らせ、蝋燭を見詰めた。荒野を渡る風の音が、女の泣き声のように聞こえ、ファビアンの心も寂しく、ささくれ立った。
(いいんだ。そんな風が私の旅立ちには似合いだ)
あくる朝、風はやんでいた。代わりに、冷たい霧が真っ白に地面を這っていた。まるで雲の中にいるようだった。
早朝、ファビアンは誰の見送りもなく城の門を出た。
だが、歩き出して間もなく、霧の中に一人の旅姿の若者が立っているのが見えた。
ギイだった。馬を引いている。霧に隠れて、その表情はよく見えない。けれど、ファビアンには分かっていた。ギイの青い目は、まっすぐにファビアンを見詰め、邪気のない笑みを浮かべていることを。彼の右耳の痣が、興奮のために朝日のように赤くなっていることを。
「…ギイ、何のつもりだ」
ファビアンは泣くたくなるのを堪えて、わざと冷たく言った。
けれど、ギイはそんなファビアンの様子など一向に構わずに、笑みを湛えたままだ。
「お供いたします、ファビアン様。ルミエール号も、ファビアン様と一緒に行きたいそうです」
「遊びに行くんじゃないんだ。アンヌを悲しませることになるぞ」
「母は賛成してくれました。『お前は坊ちゃんよりは力があるから』と。さあ、ファビアン様」
そう言って、ギイは腕を差し伸べた。
しばらく、ファビアンは唇を尖らせ、腕を組んだまま、上目遣いでギイを睨んでいた。けれど、やはりギイの笑顔は崩れない。
「太陽さん、に任せるか…」
やがてファビアンは諦めたように、その手をギイの手に重ねた。ガサガサとした、けれど力強く、熱い掌、長い指。
ギイはファビアンを抱えて馬に乗せると、手綱を取り、引いて歩こうとした。
「ギイ!」
「何ですか?ファビアン様」
「乗れ」
「え?」
「大丈夫だ。ルミエール号は力持ちだ。私たち二人くらい、どこまでも連れていってくれる。道は遠いのだ」
「ですが…」
「さっさと乗れ。私たちが入ろうとしているテンプル騎士団の印章は、一頭の馬に二人の騎士が跨っている図だ」
「そんな…恐れ多い」
ギイの顔が赤くなる。右耳の痣も燃える太陽のように赤くなる。
「早くしろ!」
「…それでは、お言葉に甘えます」
ひらりとギイはファビアンの後ろに乗ると、手綱を握った。「ファビアン様が赴く場所ならば、私は世界の果てまでもお供いたします」
「当然だ。どんな世であろうとも、太陽が私を見捨てることはない」
ファビアンはそっぽを向いて言った。
ギイは満足そうな笑みを浮かべ、馬の腹を軽く蹴った。
馬は合図を待っていたかのように、軽やかに歩を進め始めた。街道を進むうちに、朝日が昇り始め、白い霧が晴れていく。
「朝日が昇る場所を目指していくのですね」
ギイが楽しげに言う。「素晴らしいな。冒険の始まりだ」
石もて追われるように、生まれ育った故郷を後にし、遠い異教徒の地を目指す。確かに先刻までファビアンは、そんな暗鬱とした投げやりな気持ちでいた。なのに今、心が弾むのを抑えられなかった。
(そうだ。冒険だ。これから、冒険が始まるんだ。大丈夫だ。ギイがいる。どんな敵がいても、ギイが守ってくれる。自分もギイを守るんだ。木枯らしの吹きすさぶ、湿気に満ちた冷たい石の城なんぞ、もう二度と思い出すまい)
そう、ファビアンは思った。背中にギイの体温を感じながら。手綱を握る手を重ねながら。
地上をすべて薔薇色に染め、太陽が昇っていく。まるでギイの力のように。
その時確かに、ファビアンの目には朝日と未来しか映っていなかった。
(どうして、あの時言わなかったのか。ありがとう、と。お前がいてくれて嬉しい、と)
夢なのだと、分かっていた。遠い昔の夢なのだと。
ファビアンは朦朧とした意識の中で、ギイの腕を掴んだ。「ギイ」のはずだと思っていた。
その時、低く掠れた声が耳元で聞こえた。
「…ララ…」
その声で、ファビアンは夢から醒めた。
そこにいるのは、あの黒い獣-トグルルだった。
そして今、ファビアンがいるのは、日も差さぬ地下牢。
ファビアンは頭を振って、体を起こした。
先ほどまで自室でまどろんでいたはずだ。いつ、この地下牢に来たのだろう。記憶があやふやだ。よほど疲れていたのだろうか。
(ああ、麻の葉の薬を…「冥府の女王」を持って来なければいけなかったのに…。すっかり忘れていた)
ファビアンは大きな溜め息をつき、トグルルを見下ろした。トグルルも眠っているようだ。ぐったりとしたまま動かない。
ファビアンはいつものようにカミツレ草を煮出した水を布に含ませ、トグルルの顔を拭いた。汗と血と涎で汚れている。その爽やかな香りに、トグルルはうっすらと目を開けた。だが、また目の焦点は定まらない。
トグルルは再び目を閉じると、気を失うように眠りに落ちた。
蝋燭の明かりをゆっくりと彼に近づける。ファビアンはトグルルの顔を、まじまじと見た。削り取ったように彫りの深い目元と鷲鼻、意志の強そうなキリリとした一本線の眉。口元こそあどけないが、意外なほど整った理知的な顔だった。高貴にさえ、見えた。
「…ララ…」
トグルルの口が、再びその言葉を呟く。甘えるような口調で。が、彼は深い眠りから覚める気配はない。
この男はいくつくらいなのだろう、とファビアンは考えた。
体躯は立派だが、寝顔は幼い。「ララ」と呼ぶ声も子供っぽい。一人前の男だと思っていたが、もしかしたら、自分が十字軍を志して故郷を去った時と、同じくらいの年かもしれない。
ファビアンは複雑な顔でトグルルを見た。そして、その腕に触れた。
この腕、だった。夢の中でギイだと思った、太く鋼鉄のような腕。
翌朝、尋問のために連れ出されるトグルルを目で見送った後、ファビアンは固くなった体を伸ばした。
「今日こそは、『冥府の女王』を持って来なければ」
独りごちたその時、机の上の皿に乾燥させた葉の燃えかすが残っているのを見つけた。鼻を近づけると、饐えたような甘ったるい匂いが残っていた。幻覚を見せるという、特殊な麻の葉。「冥府の女王」だった。
ファビアンは体の血が引いていくのを感じた。
(誰かが、「冥府の女王」を焚いたのか?いや、そんなはずはない。誰も地下牢には来ていない。それでは昨夜、私が、私自身が「冥府の女王」を焚いたのだろうか?)
だがファビアンの記憶は、ブツリと切断されたように、無い。
(これが、「冥府の女王」の力なのか…!)
ファビアンは思わず両腕で自分を抱いた。
恐ろしい、と思った。
(あの薬の前では、記憶も正気も奪われる。どんな風に錯乱していくか、自分が分からない)
そして、トグルルの腕がギイのそれに似ていることに、ファビアンは気付いてしまった。
隠し通してきたものが、白日の下に曝されるのをファビアンは恐れた。
休憩のために自室に戻ったファビアンだったが、まどろむこともできなかった。
こめかみをギリギリと締め付けられるような頭痛と、周期的に起きる吐き気に襲われたからだ。頭の芯がフラフラとして立っていることもできない。かと言って眠ることもできない。「冥府の女王」の副作用だ。
(何と恐ろしい薬だ。だが、この薬を使って、トグルルの口を割らねば)
夕刻になると、少し体調も戻った。ファビアンは歯を食いしばって顔を上げ、再びトグルルのいる地下牢へと向かった。修道騎士らしく凛とした態度で、この試練に臨まねばならぬ。トグルルの傷を洗う布や湯、傷薬、そしてあの「冥府の女王」を持って。
トグルルとまた、あの煙を吸うのかと思うと、ファビアンは恐ろしさに背中が凍りつく。だが仕方がないことだと思い直した。
(ただ、もう今夜は夕べのように前後不覚に陥ったりはしない。しっかりと目を開け、自分を手離すまい。さっさとトグルルに「鷹の爪」の居場所を吐かせて、それでこの忌々しい仕事を終わりにしよう)
ファビアンは机の上の蝋燭の炎を見詰め、両の手を強く握り締めた。
だが、今宵はなかなかトグルルは尋問から戻って来ない。
もう深夜のはずだ。
「いつまで待たせる気だ。先に寝るぞ」
つい、口に出してしまった。が、自分の言葉に、ファビアン自身がギクリとした。
(いつまで待たせる気だ。先に寝るぞ)
そう言った。あの夜も。あの、夜も!
ファビアンの体が震え出した。必死で自分の両の腕を抱えたが、震えは止まらない。次第に歯の根も合わないほど体が震え始めた。
(いつまで待たせる気だ)
そう言ったのは、そう、三カ月前だった。
三カ月前の、あの日。
ギイが管区長に呼び出されたまま、帰って来ない。
ファビアンはそれだけでイライラしていた。就寝の時間は過ぎている。だが、ギイがいないのに眠ることなど出来るわけがない。
聖地を目指す苦しい旅も、騎士団に入ってからも、片時も離れることなどなかった。貴族ではないギイは「従士」の身分にしかなれなかったが、常にファビアンの傍らに寄り添い、戦場では主君であるファビアンを身を挺して守り続けた。平時は身づくろいを手伝い、時には体の弱い主君の看病をし、同じ部屋で休んだ。二人はテンプル騎士団の印章そのままに、馬を分け合い、常に互いの側にいた。
その夜、ギイがファビアンの部屋に帰ってきたのは、月がもう沈もうとし、暁の明星が昇り始めるころだった。
「ギイ、いつまで待たせる気だ!もうあとわずかで朝課の時間だぞ」
「すみません、ファビアン様。ああ、先にお休みくださって構いませんでしたのに」
穏やかに微笑んでいるが、月の光のせいか、ギイの顔は青ざめて見えた。
「で?管区長はなぜ、お前をこんなに引き留めたのだ?」
「…あの…」
ギイはなぜか、口ごもった。
「私に秘密を持つつもりか?」
「…」
「口止めされたのだな?だが、お前の主君は誰だ?」
ギイは一つ溜め息をつくと、穏やかな顔で苦笑した。
「…ファビアン様にはかないません。管区長様が、『鷹の爪』に狙われているのは、ご存知でございますね?」
「ああ、この間、予告の手紙が投げ込まれたらしいな。恐れ多くも『死をもって神への罪を償え』とあったとか…。…おい、まさか…」
ギイは、人好きのする笑顔のまま頷いた。だが、憂いは隠しようもない。
「管区長様から極秘の任務でございます。明日から管区長の身代わりをせよ、と。私のような卑しい者には、そのような大役は務まりませんと申し上げたのですが、甲冑を着けていれば分かるまい、とおっしゃられて…。確かに、恐れながら、私と管区長様は体格が似ておりますから、鎧や冑を着けていれば、彼らは分からないでしょう」
「…それを、お前は受けたのか?」
「はい」
「…主君の私に黙ってか?」
「ですが、管区長様は我々の…」
「そんなことを言っているのではない!」
では、何を言っているのか。それはファビアン自身も分からなかった。だから苛立ち、壁を手で叩き付けた。泣き出しそうな自分の顔を見られたくなくて、ファビアンはギイに背を向けた。
嫌な予感はしていた。「鷹の爪」から名指しの犯行予告が来た以上、管区長たちが考える手はただ一つ。影武者を立てることだ。管区長は人並み外れた長身で、長い手足と逞しい体躯を持つ。その身代わりになれる人物。それは騎士団の中でもギイ以外にはいないのではないか-。まして、ギイは騎士ではない。補佐役の従士だ。彼の命一つ消えたくらい、騎士団にとっては痛くも痒くもないのだ。
「お前、分かっているのか?お前は捨て石にされるのだぞ」
「ですが、騎士団にいる以上、絶対服従が…」
「お前は私だけに服従していればいい!お前は私の従士なのだ。管区長の従士ではない!」
ギイはプッと吹き出した。
「何をおっしゃるかと思ったら」
ファビアンの背後で、ギイが跪いた気配がした。そしてファビアンの左手をとり、掌に接吻をした。「私のすべては、ファビアン様、貴方様だけのものです」
「…そんなことは分かっている!」
ファビアンはギイの手を振り払うと、踵を返して部屋を出た。
「どちらへ行かれます?」
「知らん!」
ギイが慌ててついてくる。
ファビアンは当てもなく歩き回り、やがて中庭へと出た。
まだ朝課には時間があり、砦は世界の終わりのような静寂に包まれている。
「ファビアン様、何をお怒りになっておられるのです?」
「怒らないお前がおかしい!どうせ、奴らはお前が命令に従うのは、至極当然という顔をして言ったのだろう?自分のためなら、お前を犠牲にしても構わないとな」
「この身が管区長様のお役に立つのであれば、それは神のお役に立つのと同じこと…」
「お前は私だけの役に立てば良い!」
振り返らず、歩きながらファビアンは吐き捨てる。ギイは困った顔でついてくる。
「ファビアン様、修道騎士たる者が、そのようなことを言うものではありません。私は神の御許に行けるのですよ」
「お前は、私より先に神の御許へ行くというのか?そんな無礼が許されるとでも思っているのか?」
「すみません、おっしゃる通りです」
ギイがファビアンの手を掴んだ。ファビアンは振り払おうとするが、ギイは離さない。「でも、ファビアン様、どうかご安心ください。私は決して貴方より先に天国の門をくぐりはいたしません」
「…当たり前だ」
ファビアンは立ち止まると、顔を伏せたまま呟いた。「お前は、私を置いていってはならぬ」
「承知しております。それにファビアン様もご存知でしょう?私に剣で適う者なぞ、そうはおりません。野蛮な異教徒風情に私を倒せましょうか?それに管区長様は私の護衛に、二十人を超す騎士様たちをつけてくれるそうです」
誇らしげな口調でギイは言う。それは、ファビアンを安心させるためだったのだが。
「…そうだな」
ファビアンは溜め息とともに言った。「神のご加護を祈ろう。けれど、もし、もし…」
ファビアンは言いかけて止めた。口に出すと、言葉が霊力を持って悪霊を連れてきてしまうような気がしたのだ。代わりに、ギイの手を力を込めて握った。
「必ず、私の元に戻って来い」
ギイは、なぜかすぐには答えなかった。
「…ファビアン様、一つだけ、お許しいただきたいことがあるのです」
軽やかだったギイの声が突然、思い詰めたように軋んだ響きを帯びた。
「ギイ、何だ」
振り返ったファビアンを、ギイは突然抱きしめた。
そして、そっと唇を重ねた。まるで雪が触れるような、微かな感触の。
ギイの右耳の痣が、かつて見たことがないくらい真っ赤に染まっていた。
「どうか、お許しを」
一言、苦しげに呟くと、ギイはそのまま走り去った。
ファビアンは追いかけようとした。今の行為は、どういうことなのか。だが、驚きで足が動かない。言葉も出ない。
ただ、呆然とギイの後ろ姿を見送った。大きな逞しい背中、誰よりも頼りになる力強い腕。
ファビアンはそっと唇に触れてみた。蘇る、微かな温かな感触。まるで、魔法にかかったように少しずつ甘い痺れが全身に広がってゆく。
「…ギイ…」
言いかけた、その時。朝の最初の光が、矢のようにファビアンの目を射抜いた。燃えるような火の玉が、遠い険しい山脈の果てから放たれる。
その一閃で闇に浮かび上がったのは、「鉄の門」。
ファビアンは思わず小さな悲鳴を上げた。朝の光を浴びた鉄の門が一瞬、血塗られたような朱に染まったように見えたのだ。かつて、異教徒の捕虜たちの首を次々と投げ落としたという門。その歴史が蘇ったかのように、黒ずんだ朱色に染まる門。
そして、その門柱に、悪魔の使いのような竜が聳え立っているではないか。
真っ黒な竜は、蛇のような赤く光る目でこちらを見ている。鷹のような爪、蝙蝠のような真っ黒な翼。竜はひた、とこちらを見ている。
ファビアンの足がガクガクと震えた。金縛りにあったように動けない。
ギイは竜に気付かないのだろうか、どんどん鉄の門の方へと歩いていく。そして鉄の門を染めている、朝日というにはあまりにも禍々しい赤黒い光が、ギイの体も染め始める。
(駄目だ!そっちに行っては駄目だ!)
だが、声が出ない。ギイの体は、まるで焼かれるように赤黒い光で覆われる。
背筋を、ゾッとする冷気が這い上がる。ファビアンは全身の力を込めて叫んだ。
「駄目だ!」
ひっくり返った変な声が出たかと思うと、そのままファビアンは地面に倒れ込んだ。
ギイがその声に気付き、慌ててファビアンの元へと駆け戻ってきた。
「どうかなさったのですか?」
ギイがファビアンを抱き起こすと、ファビアンはギイの首に抱きついた。
「ファビアン様?」
ギイの腕がおずおずとファビアンを抱きしめる。ファビアンはギイの胸に顔を寄せて呟いた。
「門が…」
「門?鉄の門がどうかされたのですか?」
ファビアンが再び門を見上げると、そこにはいつも通りの、鉄の門がそびえていた。何も変わらない。赤黒い光はいつのまにか消え、爽やかなラベンダー色の朝に変わっている。
ファビアンはもう一度目を凝らしてみた。鉄の門の上部は、塔のようになっている。その丸い形が竜に見えたのだろう。敵に弓矢を射るための穴から差し込んだ光が、竜の目玉に見えたのだろう。ファビアンは大きく安堵の息をついた。
「…何でもない。少し、気分が悪くなっただけだ」
「大丈夫ですか?ファビアン様」
ギイは心配そうにファビアンの顔を覗き込み、熱を測るために額に触れた。
ギイの手の感触が、火照った顔に心地良かった。
「…ギイ…」
「はい」
「…何でもない」
あの接吻は何だったのか?そう言いかけて、ファビアンは口を噤んだ。どう問うていいのか、分からなかったから。
そして二人は何事も無かったかのように部屋に戻った。
だが、その躊躇いをファビアンは一生、悔やむことになる。




