騎士の砦 第三章
翌朝、ファビアンは管区長代理のフィリップの執務室に呼ばれた。そこには同じく修道騎士のジャンも待っていた。
その部屋は砦の中で最も日当たりがよく、高い楼閣を持つ頑丈な通称「鉄の門」を経て遠くアンサリーヤ山脈まで見渡せる。
鉄の門は、厚い鉄で補強された強固な門だ。だが、ファビアンはこの門が好きではなかった。かつて、異教徒たちの侵入に抗するため、門の上から石の代わりに捕虜の首を投げて防いだと言われ、楼閣では捕虜の火あぶりも行われたと聞く。夕陽に照らされる時などは、門の鉄が血塗られたように赤黒く光り、いくら異教徒の血とはいえ、ゾッとするのを抑えられない。
ファビアンは視界に鉄の門が入らないように、真っ直ぐにフィリップを見詰めた。フィリップは椅子にかけたまま、癖なのか顎の辺りをしきりに触っている。
「兄弟ファビアン、あの男の名前が分かったそうだな」
「はい。トグルルと言います。鷹、という意味です」
答えながらファビアンは思った。あの従士が報告したのだろう。牢での会話は、すべてフィリップの耳に入っていると考えた方がいいということか。「通称かもしれませんが」
「何かの手がかりにはなろう。でかしたぞ、兄弟ファビアン。そして、そのトグルルとやらが口ずさんでいた歌は、どんな意味なのだ?」
「分かりません、管区長代理殿。女神イシュタルが冥界に下る、という内容でした。最初の門で王冠が奪われ、第二の門で太陽と月の耳飾りが奪われると…」
「何かの暗号なのか?」
「皆目分かりません。少なくとも、私は今までそのような歌を耳にしたことはありません」
「兄弟ジャン、その歌とやらを調べてくれ」
フィリップは傍らのジャンに声をかけた。「それ以外は何か口走っていなかったか?『鷹の爪』の拠点とか、首領の『山の老人』についてとか」
「いえ、意味をなすことはまるで…」
「…たとえば、そうだな、秘宝のありかとか」
「秘宝…ですか?」
「そ、そうだ。彼らの活動を支えているような財宝だ、要するに」
フィリップの口調が、妙に焦った言い訳がましいものになった。ファビアンは眉をひそめる。
「さあ、そのようなものは…。院長様らの尋問の方はいかがなのでしょうか」
「うむ、院長も頑張ってはいるが、おそらくは駄目だろう。あの男、トグルルとやらは痛みに慣れている。いくら苦痛を与えても、昼の奴からは何も聞き出せまい。兄弟ファビアン、この件は君の肩にかかっている。君があの野蛮な男の傷を癒やすことで、我らが神の寛大さと慈悲を示すが良い。さすれば、あの男も悔い改め、心を許すだろう」
「…その通りでございます」
「それができるのは、兄弟ファビアン、君だけだ」
フィリップは大げさにファビアンの肩を叩いた。
「…はい」
複雑な表情でファビアンは頷いた。
その夜も、ファビアンはトグルルの背中と肩の傷に聖油を塗っていた。
痛みに慣れている、それはその通りかもしれない、とファビアンは思った。傷が癒えぬうちに、その場所をえぐられ、盛り上がったばかりの柔らかな薄紅色の肉を切り裂かれる。それでも、トグルルは表情一つ変えなかった。
『いっそ殺してくれ、とは言わぬのか?』
意地悪く問うファビアンの言葉を、トグルルは無視した。
『正気なのだろう?今は』
トグルルは答えない。
それでも、冴え渡る黒い瞳がチラ、とファビアンを見た。その軽蔑したような表情だけで、十分彼の意図は理解できた。
トグルルの牢に通うようになって三晩目。当初は意識が混濁していたトグルルだったが、体の傷が癒えていくのにともない、正気でいる時間が増えてきた。ファビアンの問いにトグルルが答えることはほとんど無かったが、彼が聞いているのは感じ取れた。
ファビアンは包帯を巻き終えると、テーブルに置いた椀を持ち、横たわるトグルルの側に近づけた。椀の中には黒い液体があり、干した草を一晩煎じたような臭いがした。
『飲め』
ファビアンはこの地の言葉で促す。トグルルはその椀の臭いを嗅ぐや、顔をしかめ、そっぽを向いた。両手首と両足を鎖で繋がれているため、払いのけることはできない。
『毒ではない。薬だ』
「自白薬ならば、無駄だ。我らは毒に慣れている」
トグルルはあえてフランス語でそう言い、ファビアンを睨みつけた。だがファビアンも動じない。
『そんな無駄なことはしない。ただ、これ以外の液体はお前にやるつもりはない。喉が渇いているだろう。諦めて飲むことだ』
トグルルは黙った。了承だった。
ファビアンはトグルルの上体を抱き起こし、牢の床に座らせると、椀の液体をスプーンで口に運んだ。一口飲むと、トグルルはむせて咳き込む。
『我慢するんだな。この辺りでしか生えない特別なカミツレ草を煎じたものだ。胃薬としても使えるが、解毒の力がある』
ファビアンはそう言うと、再び椀の液体をトグルルの口へ運んだ。今度は大人しくトグルルも飲み込んだ。苦そうな顔をしながらも、さらにもう一口。
舌で唇を湿らせながら、トグルルは呟いた。
「苦いが、…ほのかに甘い香りがするな」
『もともとは、甘い香りの草だ。少しはましな気分になるはずだ』
「ましになど、ならなくていい。とっくにこの身は神に捧げているのだから」
それでも、トグルルはファビアンにされるがまま、真っ黒な煎じ薬を少しずつ飲み込む。
『そう簡単には、神の元へは行けないぞ』
ファビアンは意地悪く言うと、残りの椀の中の液体をトグルルの口に流し込んだ。唇の端から、黒い液体が一筋流れる。『お前が、気が狂った人殺し教団について、知っていることをすべて話すまでは』
ゴクリと飲み込むと、トグルルはファビアンを見下げるように睨んだ。
「人殺しだと?お前たちこそが、残虐な人殺しだろうに」
ファビアンも睨み返す。
『我々のどこが人殺しだというのか』
「人殺し集団ではないか。俺の村は、お前ら十字軍の連中に焼き払われた。家は焼かれ、財産は奪われ、皆、殺された。俺の親も」
『それは…』
ファビアンは口ごもった。略奪、虐殺。聖地奪回の名の下に、異教徒を放逐する。確かに、それは行われていることだ。『だが、それは、神の御わざを実現させるために、仕方のないこと…。そう、仕方のないことなのだ。お前こそ、お前たちこそ…』
(そうだ。お前たちこそ、絶対に許されぬことをしたくせに!)
ファビアンの手がわななわと震え始めた。
『お前たちは、我らの仲間たちの喉を切り裂いてきた!私は、私は絶対に忘れない。許さない。ギイは…私の友は、お前たちの手によって命を奪われたのだ。地位のある高貴な人間ならば、覚悟も出来ていよう。だが、ギイはただの従士だった。なのに、管区長の身代わりとしてお前らに連れ去られた。数日後、帰ってきたギイはもう、ギイじゃなかった。小さな壷に入っていた…。彼の、彼の頭だけが!』
ファビアンの悲痛な叫びが、牢に響く。
「恨むなら、虫けらのようにそいつを身代わりにした管区長を恨め」
『…何だと!』
ファビアンはトグルルの頬を思い切り殴った。彼の体は壁まで飛び、傷で膿んだ背中が激突した。トグルルは呻き、眉を寄せる。だがファビアンはその肩をガッシリと掴むと、壁にギリギリと押し当てた。
『いつか、いつか、お前をギイと同じ目に遭わせてやる…』
「…ギイ、というのか。お前の友とやらは」
『お前の汚い口で、ギイの名を呼ぶな!』
ファビアンの目が血走る。だが逆にトグルルの黒い目は、冴え渡ったように冷静だ。
「お前は俺たちを汚いと言う。だが俺たちは、正しい神の国をこの世につくるために生きている」
『何が、正しい神の国だ!血に飢えた、残虐な人殺しどもが!』
ファビアンは腕に力を込めた。トグルルの背中の傷が開いたのか、先ほど自分で巻いたばかりの包帯に再び血が滲む。トグルルは眉を寄せ、けれど冷静な口調で言った。
「お前たちこそ、人殺しで盗人だ」
『盗人呼ばわりまでするのか!』
「ああ、そうだ。お前たちは土地を盗み、城を盗んだ。そして、俺の指輪までも盗んだ。お前の親玉は」
トグルルが吐き捨てた。
『指輪?』
ファビアンの手が緩む。トグルルは真っ直ぐに見詰め返した。
「そうだ。お前たちが俺から奪い取った指輪だ。あれを返せ。あれは、選ばれた者しか持ってはならぬ指輪だ」
指輪?ファビアンは首を傾げた。そんな話は聞いたことがない。
『それなら、…そうだ、<鷹の爪>の拠点を言うんだな。そうしたら返してやる』
「ふざけるな。お前たちのためを思って、俺は言っている。あの指輪は災いを呼ぶ。あの指輪の声に抗う力のない者が持っていてはならぬ。そう聞いている」
『…わけの分からないことを…』
「分からなければ、分からなくてもいい。だが、俺は忠告はしたぞ。後はどうなっても知らぬ」
『ああ、私も聞いた。頭がおかしくなった男の戯言をな』
ファビアンは短く言い捨てると、トグルルに背を向け、牢の隅にある長椅子に体を横たえ、目を閉じた。
どうして、ギイの名を言ってしまったのだろう。あのような悪魔の仲間に。
ファビアンの胸の奥からは、こんこんと熱い怒りが湧いてくる。憎々しげな、トグルルの黒い瞳。ギイを弄ぶように殺した連中は、きっとあのような闇のような目の男たちだったのだろう。いや、あいつその人かもしれない。
怒りと憎しみで火照る頬を冷ますために、ファビアンは冷たい石の壁に顔を押し当てた。体に染みてくる固く冷たい感触。まるで、あの壷の中のギイの頬のように。
「ぐっ」
吐き気がこみ上げてきた。が、トグルルに気付かれたくなくて、ファビアンは手を噛んだ。
(ギイ)
(ギイ、いつも呼べば答えてくれたのに。どうしてお前は今、ここにいないのか。神はどうして、あんな試練をお前に与えたのか)
神のご意志は、我々子羊には分かるはずもないのだけれど…。
ファビアンは、さらに強く手を噛んだ。
夜も更けてしばらくした後、傍らで何か呻く声がした。
呻いているのはトグルルだった。
(また今夜も、この呻き声を聞くのか)
ファビアンは大きな溜息をついた。昨夜もそうだった。一晩中。今夜もまた、始まったのだ。そう考え、ファビアンは敢えて無視した。
だが、呻き声は続く。今までなら、いつの間にか消えるのに、今夜はどんどんと声が大きくなっていく。
「ぐうあああああああ!」
突然、トグルルは雷に似た悲鳴を上げた。
さすがに、ファビアンは飛び起きた。蝋燭の炎が照らし出すのは、獣のように暴れているトグルルだった。正気ではない。どこかへ行こうとしている。両手首と両足首を拘束している鎖が、暴れるたびに皮膚に食い込み、血が滲んでいる。
「ぐあ、ぐああああ!」
さらにトグルルは叫ぶ。白目をむいて。先ほどまでの、ファビアンに冷徹な言葉を投げつけていた男の姿は、今どこにもいない。涎を垂らしながら、何か訳の分からないことを口走っている。
目の前にいるのは、凄惨な狂った獣。
ファビアンは息を呑んだ。
(間違いない。禁断症状だ)
暗殺教団は、若者を刺客に仕立てるために麻薬を使うと言う。薬で朦朧とさせ、楽園を見せて常習化させる。若ければ若いほど、重症の中毒となり、薬欲しさにどんなことでも平気で行う、と。
「何が神の正義だ!結局は薬欲しさじゃないか」
「ぐぅぅぅううああああああ」
さらにトグルルは暴れ始めた。鎖を嵌めた手首から血が噴き出す。手首が千切れそうだ。思わず、ファビアンは駆け寄り、その手を押さえた。
『トグルル、落ち着け!落ち着くんだ!』
一瞬、トグルルの目が見開かれた。ファビアンをひた、と見詰める。だが焦点が合っていない。
その後、突然にトグルルの体から力が抜けた。どさり、とファビアンの体に倒れ込む。
『トグルル?』
トグルルは、力なく頭を摺り寄せてきた。
『…ララ…』
『何だ、トグルル?』
『…ララ、ララ、俺が助けに行くから』
トグルルは、子供に返ったような声で言った。その息が微かにファビアンの鼻に触れる。
『ララ?ララとは誰だ?トグルル』
『…ララ、待ってて、ララ』
トグルルは、子供のようにファビアンに体を寄せてきた。仕方なく、ファビアンはその刈られた頭に手をやった。すると、朦朧としたトグルルは安心したように大きく息をついた。
トグルルは体を二度三度激しく震わせると、そのままぐったりとファビアンにもたれかかり、眠りについた。
ファビアンは困惑したまま、トグルルを抱えていた。
獣のような男は、悪魔のような男は、しなやかで熱い体をしていた。
かつてのギイと同じように。




