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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第二章


 カミツレ草の香りが、夕暮れに涼やかに漂っていた。

 白い小さな花たちが、小さな家を覆うように咲いている。

 夕暮れの静けさをかき消すように、木刀がぶつかり合う音が響いてきた。

「ハアーッ!」

 変声期を迎えたばかりの、少し掠れた声。

 木刀を構えていたのは少年と、彼より少し年かさの青年だった。少年は細身だが、手足は若木のように健やかに伸びている。麦の穂の色をした短い巻き毛が、少年の荒い呼吸と一緒に揺れる。 

「脇が甘い!」

 少年と向かい合っていた青年が厳しく言い放ち、素早く少年の腕や肩を木刀で叩いた。長身で堂々とした体格の男だ。麻布をターバンのように頭に巻き、長大な木刀を苦もなく振り回す。「これが剣だったら、お前はもう死んでいたぞ。振りかぶった時、木刀の重さに引きずられて体勢が崩れるからだ」

「そんなの、分かってるよ」

 少年は荒い息で答え、額の汗を拭った。

「ジョシュア、分かっているなら考えろ。力では劣るお前が、どうしたら勝てるのか」

 青年はそう言うと、木刀を再び構えた。

「考えてるよ!」

 ジョシュアはいきなり木刀を青年の背後に放り投げると、気を取られた青年の足元に飛びかかり、カミツレ草の上に倒した。そして青年を組み伏して木刀を奪おうとした時、青年の麻布が少年の指に引っかかってほどけた。

 布の間から、長い黒髪が滝のように溢れ出る。

 青年は目を丸くして驚き、次の瞬間笑った。

「参った!ジョシュア、お前の勝ちだ」

「ほんと?」

「ああ」

「僕、やっとラサルに勝てたんだね」

「ああ、そうだ」

 ラサルは、カミツレ草の上に座ったまま、顔にかかる長い黒髪をかきあげた。「あまり褒められた勝ち方ではないが、どんな手を使ってでも勝とうとする気持ちは大事だ」

 そう言うと、ラサルはジョシュアの巻き毛の頭を撫でた。

 イシュタル門での出会いから、七年の月日が経っていた。

 十四歳となったジョシュアは、愛と戦いの女神イシュタルの化身のごとく、美しく勇敢な少年に成長していた。気が強そうな一直線の眉の下には、深い水底を思わせる緑の瞳がきらきらと輝いている。

 そしてラサルも立派な青年になっていた。長い手足はしっかりとした筋肉に覆われ、軍神のように頼もしい。にもかかわらず、紫を帯びた黒い瞳は穏やかで、怜悧な光をたたえていた。

「これ、ジョシュア!何てことを!」

 老人が家から飛び出してきた。ラサルの忠臣であり、今は「父」となったシュルギだった。「ラサル、怪我は、怪我はなかったか?ああ、大事な髪がこんなになって…。ジョシュア、お前ときたら、兄上になんてことを!」

「でも父上、僕は強くなりたくて…」

「ジョシュア、口答えは許さんよ」

「父上、良いのです」

 ラサルがとりなすが、シュルギは聞かない。

「ジョシュア、お前はラサルを…兄上を命に代えても守らねばならぬ。それが務めだと何度も教えておろう。それなのに…」

「ですから父上、ジョシュアは私を守るために強くなろうとしているのです。ジョシュアは正しく、褒められこそすれ、何も非難されることはありません」

「だが…」

「もう良いではありませんか。家に入りましょう。日も暮れてきました」

 シュルギはやれやれ、とため息をついた。

「…その通りだ。ラサル、その髪を整えねばならぬ」

「僕、汗かいたから、川で体を洗ってくる」

 ジョシュアはふてくされたように言うと、ぷいと一人川に向かった。

 

 ジョシュアが小さな家に戻ると、ラサルは椅子に腰掛け、竪琴を抱えていた。その黒い髪をシュルギが丁寧に梳っている。


  時はついに来たれり

  麗しの豊穣の女神 冥界へくだりぬ


 ラサルが、呟くように歌っていた。低く、穏やかな声で。

 ジョシュアはうっとりと目を閉じた。

「ジョシュア、戻ったのか」

 ラサルが手を止め、ジョシュアの方を見た。

「何で分かったの?」

「お前からは、いつも花の香りがする」

「花なんか摘んでないよ」

「ならば、お前自身が香るのだろう」

 ラサルは紫がかった闇の色の瞳を細め、穏やかな笑みを浮かべた。その顔を縁取る、足元にまで届くつややかな黒髪。

 普段、ラサルの髪は麻布に包んで隠されている。だが夕べになると、シュルギはラサルの頭の布を解き、その髪を貴重な水で洗い、香油を塗って恭しく梳るのだ。そして丁寧に編みこみ、宝冠のように結い上げてまた布で覆う。

 それはジョシュアが二人と出会ってから、毎日続いていた。まるで神々への儀式のように。

 だが、そんな二人を見るのが、ジョシュアは嫌いだった。

「切っちゃえばいいんだよ、そんな髪。そうしたら川で洗うだけでいい」

 ジョシュアは自分の短い巻き毛を引っ張った。「父上にだって髪、ないだろ」

「確かにな」

 ラサルは笑う。

 が、シュルギは「黙りなさい!」と真っ赤になって怒鳴った。「ジョシュア、お前はラサルの髪がどれほど大切なものか分かっておらぬ。この髪こそ、神の生まれ変わりであることを示す宝冠であり…」

「ラサルと僕と、何が違うんだよ。息をして、食べて、寝て、皆、同じじゃないか」

 ジョシュアが口を尖らせる。

「な、なんと恐れ多いことを…!」

「『父上』」

 ラサルは、あえてその言葉を強調して言った。有無を言わさぬ強さで。「父上、ジョシュアの言う通りです。私とジョシュアは何も変わらない。このような髪にこだわる必要もありますまい」

「何てことを!」

 シュルギがブルブル震えて目をむいた。「ジョシュア、お前が妙なことを言うから、ラサル様までおかしくなってしまう…」

「様、ではありませんよ。『父上』」

「え…ああ」

「分かったよ!僕がみんな悪いんだ」

 ジョシュアは言い捨てると、回れ右をして戸口へ向かった。

「ジョシュア、どこへ行く。もう暗いぞ」

 ラサルがとがめる。

 ジョシュアは口を尖らせたまま、ラサルを見ずに答える。

「素振りをしてくる」

「そうか。遠くには行くなよ」

 ラサルの心配そうな声に、ジョシュアは答えなかった。

 ジョシュアが出ていくと、シュルギは大きなため息をついた。

「ちょっと前まで素直な良い子だったのに…。反抗したがる年なのか」

「そうおっしゃいますな、父上。今でもジョシュアは素直で良い子ですよ」

「ですがラサル様、貴方さまも貴方さまです」

 シュルギはあえて敬語のままで言い、恭しくラサルの髪を捧げ持った。「この長く美しい髪こそ、マルドゥク神の化身であることを示す証、高貴の象徴。いわば宝冠でございます。この髪があるからこそ、神のご意志を知ることができるのであり…」

「私にそんな霊力なぞはない」

 ラサルも、「臣下」シュルギに対する口調に戻り、微かに笑った。「ジョシュアの言うことが正しいのだ。ジョシュアと私は…何も違うところなぞはない」

「何を仰います、ラサル様。いつか必ず貴方さまにふさわしい地位と場所が…」

「だがもう七年だ。そろそろ、私はここで生きていく決意をすべきだと思う」

 そう言うと、ラサルはまた一つ、竪琴の弦を鳴らした。物悲しい、不安げな旋律が長い指から零れた。


 ひとしきり木刀を振るった後、ジョシュアが家に戻ると、竪琴の音色がまだ流れていた。

 窓から覗くと、ラサルの後ろ姿が見えた。髪は再び麻布に覆われていた。

 シュルギはその場にはいなかった。おそらく薬草を作りに竈のある部屋へ行ったのだろう。カミツレ草を燻す匂いがしていた。

 ラサルは琴の音色に合わせ、低い声で呪文のように歌っていた。もの悲しい旋律の、先ほど途中で終えてしまった歌だ。


  現われたるは 七つ門

  立ちはだかりし 門番は

  女神の宝 奪いたり

  最初の門で失うは 王の冠なりにけり

  第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り

  第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り

  第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り

  第五の門で盗られたり 地上を統べる金の帯

  第六門で消え失せる 麦穂の腕輪 足飾り

  最後の門で 夜の衣をはぎとられ

  かくて女神は 冥界へ

  地に光消え 花は枯れ

  民ら嘆きて 女神呼ぶ

  女神も叫び抗わん

  わらわを戻せ 日の元へ

  わらわに返せ わが宝

  死霊 笑って申すには

  門をくぐりし者は皆

  戻るは決して能わずと

  冥府の掟 破るなら

  よこし給え 身代わりを

  かくて女神は 死霊とともに

  贄を求めて 地に戻る

  嘆きの民のその中で

  笑い歌う男あり

  怒りし女神 炎吹き

  死霊に男を指し示す

  我が身代わりは この男

  死霊とらえしその男

  女神の愛しき夫なり

  夫は闇へ 引き込まれ

  冥府の色に 染められる

  かくて女神は 取り戻す

  失いしもの そのすべて

 

 不穏な響きの和音を残し、ラサルの指が止まった。

「ジョシュア?」

 ラサルがゆっくりと振り返る。穏やかな笑みを浮かべて。

「入っておいで。もうシュルギ…父上は、部屋に籠もっているから」

 仏頂面でジョシュアが家の中へと入った。すでに日は落ち、灯火が灯されていた。

「それで、女神と夫はどうなったの?」

「え?」

「歌だよ、さっきの。女神が夫を生贄にしたんだろ?」

「ああ、この歌か?この歌は、『イシュタルの冥界下り』は、これで終わりなのだよ」

「夫は冥界に閉じ込められたままなの?」

「ああ、そうだ」

「イシュタルは夫を助けなかったの?どうして大切な人をそのまま死霊に渡してしまったの?」

「イシュタルは愛と戦いを司る女神。惜しみなく愛を与え、そして容赦なく奪い取る。理不尽なる女神の真意は、我らには図りかねる」

 ラサルが苦笑した。が、ジョシュアは真剣だ。

「きっと歌には続きがあるんだ。女神は後悔して、夫を助けるんだ」

「ジョシュア、神々の歌はもう、ここまでしか残っていないのだよ」

「なら、ラサルが最後の歌を作ってよ。ラサルはマルドゥク神の生まれ変わりなんだろ?だったら、神々の歌を神々の代わりに作っても許されるよ」

 ラサルの顔が苦しげに歪んだ。

「私は…神などにはなりたくはないのだよ。本当に」

「大丈夫だよ。僕だけに聞かせたらいい。神様だって分からないよ。だから最後の歌を作って。幸せな終わりがいいよ。絶対に」

 ジョシュアはそう言うと、ラサルの足元に座り込んだ。

 ラサルは呆れたように苦笑する。

「そうだな…。だが私は吟遊詩人ではないぞ。すぐには良い歌詞は思いつかぬ。しばし猶予をくれぬか」

「仕方ないな」

 わざと威張った調子でジョシュアが言った。「ラサル、吟遊詩人になればいいのに。とても美しい声をしているから」

「ならば、ジョシュア、お前はどうする?」

「僕?僕は王様になるんだ」

 ジョシュアは無邪気な笑顔でラサルの膝に顎を乗せた。「そうしてラサルを専属の吟遊詩人にして、僕の冒険をすべて叙事詩にして歌ってもらうんだ」

「それは楽しそうな提案だ」

 ラサルはジョシュアの巻き毛を撫でた。ジョシュアはうっとりとされるがままになっていた。

「…さっきは、ごめんなさい」

「父上を心配させるなよ。もういいお年なのだから」

「…だってラサルと父上が話すと、時々、僕はのけ者にされてる気がするんだ。何だか、いつか二人とも僕を置いていなくなっちゃう気がして」

「…そう、思うのか」

 ラサルはため息をついた。

「僕もラサルの髪に触れていい?」

「構わぬが、またシュルギがうるさいぞ。…たかが、たかが髪だというのに」

 ラサルは笑ったが、ジョシュアは真剣に見詰めていた。そしてゆっくりと麻布をほどくと、王冠のように結い上げられたつややかな黒い髪に口付けた。

「あ、花の香がする」

「先ほど香油を使ったばかりだからな」

「それだけじゃないよ。ラサルの匂い。ああ、僕の方が、父上よりもずっと、ラサルの髪が好きなのに」

 ジョシュアは宝冠のようなラサルの頭を胸に抱きしめた。

「私にはお前の髪の方がよほど美しく思えるよ。収穫間近の麦の穂のようだ」

 ラサルはジョシュアの頭をポンポンと叩き、その髪を指ですく。

「僕は、王様になってラサルを守るんだ。どんなに強い敵が来ても、僕が守るんだ」

 ジョシュアの言葉に、ラサルは満足そうに微笑んだ。

「頼んだぞ。イシュタルの申し子よ」



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