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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第二章

 日も差し込まぬ地下牢は、時間は漂ったまま行き先さえも見失ったようだ。

「囚人を連れて行きます」

 突然の呼びかけに、ファビアンは顔を上げた。二人の修道僧が扉の穴からこちらを見ていた。

「もう、朝ですか」

「はい、兄弟ファビアン。これから囚人を院長の元へ連れていきます。兄弟ファビアンは少し自室で休まれているようにと」

「ありがたい、そうさせていただきます」

 ファビアンはゆっくりと体を起こす。一睡もできなかったのは、固い椅子の上だからではない。獣じみた囚人の気配が、彼の神経を尖らせていた。そして夜の間、ずっと唸り続けていた獣のような男。唸り声は時折、歌のようにもなり、それが一層、ファビアンを苛立たせた。

 重い扉が開き、修道僧たちが入ってくる。

「大丈夫ですか?」

 修道僧の一人がファビアンに声をかけた。

「はい。ただ、いささか疲れました」

「そうでしょうとも。おお、これは見事に手当てされた。さすが兄弟ファビアン。傷もこれなら塞がることでしょう。この獣が、神の慈悲を感じて悔い改めてくれると良いのですが」

 修道僧たちは二人がかりで男の鎖を外すと、担架に乗せ、縄で幾重にも縛り上げた。男はまだ唸り続けている。

「兄弟、お願いがあるのですが」

「何でしょう」

「この牢を少し清潔にしてもらえませんか。このままでは囚人だけでなく私まで病気になってしまいます」

「ああ、その通りですね。この臭いはひどい」

 修道僧たちは顔をしかめた。「従士に何とかするよう伝えておきます。それでは、私たちはこれで。夜にまた、連れて参ります」

 修道僧たちは、ファビアンに向かって気の毒そうにペコリと頭を下げると、担架を運び出した。

 ファビアンは首をコキリと鳴らした。

「夜にまた…か」

 また、今夜もあの獣と過ごさなければならないのか。ファビアンはため息をついた。が、すぐに頭を振った。「いや、あの男から『鷹の爪』のことを聞き出さなければ。それが私の使命なのだから」

 口に出したが、心は奮い立たない。

 祈りたい、とファビアンは思った。

 あの男に少しでも慈悲をかけられるように。神の力で、八つ裂きにしたくなる憎しみが溢れてくる心を押さえ込めるように。


 夜はすぐにやって来た。

 ファビアンが牢にやって来ると、既に男は鎖に繋がれ、壁にくくられていた。

「あ」

 近付いたファビアンは訝しげに蝋燭を掲げ、傍らで番をしている従士に聞いた。「これは、どういうことだ?」

「何がですか、兄弟ファビアン」

「この男の髪が…」

「ああ、不潔だから剃れとの院長の命令でして」

 伸びていた髪はすっかり剃り上げられ、顔を覆っていた髭もない。

「…確かに、これで虱がわくのを防ぐことができるな」

「そうでしょう。少しは清潔になりますよ、兄弟ファビアンの望みどおりに」

「…ああ」

「牢も綺麗にしました」

「ああ。ありがたい」

「これだけしてやっているのだから、この獣には神の愛を感じてもらいたいものですな」

「…そんなことを考えないからこそ、こいつは獣なのだろう」

「残念ながらそうですね、兄弟ファビアン。それでは、よろしくお願いします」

 そう言うと、従士は重い扉を閉めた。

 ファビアンは大きな息をつくと、さらに男に近付いた。

『起きているか?治療するぞ』

 男は眠っているのか、こちらを見ない。

 ファビアンは蝋燭を近づける。丸坊主にされ、髭のない男の顔は、思いのほか若かった。

 逞しくはあるけれど、どこか幼さの残る顔。口元があどけないのだ。ほんの少し前まで、少年と呼ばれていてもおかしくはなかったほどに。髪があった時には気付かなかったが、左耳だけに月を模したような銀の耳飾りをしていた。

 ファビアンは戸惑った。

 「鷹の爪」が少年たちを暗殺者に仕立てるとは聞いていた。が、実際に壁に磔のようにくくられている男が、実はまだ若いのだと分かると、さすがに穏やかではいられなかった。

 が、すぐに思い直した。

 この男は、悪魔の手先なのだ。幼かろうが、年老いていようが、それは関係ない。まずは神の教えを叩き込まねばならぬ。

 ファビアンは傷の治療をするため、蝋燭をさらに近づけた。そして小さく溜息をついた。

 肩の傷を覆っていた包帯は破れ、その下から再び血が滲んでいる。それだけではない。ファビアンは背中に触れた。手がぬるり、と濡れる。血だ。

 恐らく鞭だろう。この獣の口を割らせるために。

「…まるでプロメテウスだな」

 ファビアンは溜息をついた。岩にくくりつけられ、昼は鷲に肝臓を食われたというギリシャ神話のプロメテウス。けれど夜になれば肝臓は再生し、朝、再び鷲にえぐられる。

 この男を治療して、尋問という名の拷問を加え、また傷を癒やし、そしてまた…。

「だが、それが神が与えた私の仕事なのだ」

 ファビアンは独りごちた。そして、大きく手を叩いた。

「従士!」

「何かありましたか?兄弟ファビアン」

 従士が扉の窓を開けて覗き込む。

「このままでは治療ができぬ。壁にくくりつけた手錠を外せ」

「ですが、兄弟ファビアンが危険です」

「大丈夫だ。両足と両手を鎖で繋いでいるのだから」

「ですが…」

「このままでは十分な治療ができない」

「はあ。…仕方ありませんが。でも気をつけてください」

 入ってきた従士とともにファビアンは男を壁にくくりつけていた手錠を外し、床の上に敷いた布に男を横たえた。男は気を失っているのか、大人しくされるがままになっている。

「大丈夫だ、動くこともできないようだ」

「はあ…、くれぐれもお気をつけて」

 従士はそそくさと牢を出ていった。やはり、この獣を嫌い、恐れているらしい。一緒の空気も吸いたくはないのだろう。それは当然だ。

(一番憎んでいるのは、私だろうがな)

 ファビアンは苦笑した。まだ、神の御心には届かない。それでも、自分の責務を果たさなければ。努めて冷静に、ファビアンは男を観察した。

 やはり背中の皮膚が破けている。そして手錠が食い込んでいた腕の傷も膿んでいる。

 ファビアンは清潔な布を湯でひたして傷を洗い、固まった血を剥ぎ取った。恐ろしく痛むだろうに、男は動く気配もない。もはや痛みすら感じなくなったのだろうか。

 ファビアンはきれいにした傷口に薬草を練りこんだ油を塗った。そして傷口が乾かないように油紙で覆った。明日にはまた引き裂かれるであろうことを承知の上で。

 包帯を巻きながら、改めてファビアンは感服した。男の背中、腕、腹、すべてが鋼のように鍛え上げられた筋肉で覆われている。幼さの残る顔に不似合いな、鎧のような筋肉。昨夜は壁にくくりつけたままだったので気付かなかったが、これほどの体格の男はそうはいるまい。大剣を振り回す騎士といえども、こんなに引き締まり、盛り上がった背中や腕の持ち主はいないだろう。そう、たった一人を除いては…。

「ギイ…」

 その名を口にした途端に、ファビアンの全身に烈火のごとき憎しみ、怒りが走った。

 包帯を巻いていたファビアンの手が止まる。震える。

 ファビアンは叫ぼうとした。だが、開いた口からは何の言葉も出てこなかった。喉の奥で、空気が歪むだけだ。

 かわりに床を思い切り叩いた。その拍子に、傷を洗っていた洗面器の湯が揺れる。ファビアンはその湯を、思わず男の頭に浴びせかけた。

 まだ熱いその湯に、男が小さな悲鳴を上げた。

 ファビアンは笑った。引き攣ったように笑った。

「それで少しはきれいになるがいい!お前のような罪人には、それで十分だ!汚れた、悪魔の犬めが!」

「どうかしましたか、兄弟ファビアン!」

 突然のファビアンの叫び声に、従士が見張りの穴から覗き込んだ。

 ファビアンはハッと我に返った。

「だ、大丈夫だ。湯を、そう、湯を零してしまっただけだ」

「そうですか、お気をつけてください」

 従士がパタンと穴を閉じる。

 ファビアンは大きく息をつくと、顔を覆った。

(何ということだ。神に身を捧げた修道騎士のすべきことでは、ないだろうに)

「犬、ではない」

 その時、声がした。

 慌ててファビアンは顔を上げた。

 男が、目を開けてこちらを見ていた。床にうつぶせになったまま、顔だけをファビアンに向けて睨みつけていた。真っ黒な、鷹のように鋭い瞳。朦朧とした今までとは違う、鋼の意志を宿す戦士の瞳だ。

 一瞬、ファビアンは気圧された。が、すぐに平静を装い、顎を上げて男を見詰め返す。

 睨み合いはしばらく続いた。

 先に口を開いたのは、男の方だった。

「犬、ではない」

 もう一度、繰り返した。

 ファビアンは耳を疑った。男が口にしたのは、訛りは強いがフランス語だった。掠れているが、若々しさの残る声で言う。「俺は、犬などではない。お前たちには理解できないかもしれぬが、俺たちにも名はある」

『…そうか』

 ファビアンは片頬を引き攣らせて言った。ファビアンは敢えて、現地の言葉を使った。『それは知らなかった。私は修道騎士ファビアン。お前の名とやらは何というのだ』

 しばし、男は黙っていた。が、意を決したように口を開いた。

「トグルル」

『トグルル?鷹、という意味だな』

「よく知っているな、ファビアン」

『敵を知るには、まず言葉からだ』

「その意見には、異論はない」

 二人は睨み合いながら、互いの言葉を使い合った。

『トグルル、お前の仲間は…』

「何を聞いても無駄だ」

 トグルルは、不敵な笑みを浮かべた。「だが、とりあえず、お前には礼を言う。ファビアン。お前のおかげで今宵は体を横たえることができる」

『それは治療のためであって…』

 だが、ファビアンの答えを無視してトグルルは再び目を閉じた。

 トグルルはその後は何を言っても答えず、やがて死んだように眠り始めた。仕方なくファビアンも長椅子に体を横たえた。


 ファビアンが少しまどろんだころ、突然呻き声がした。

「何だ?」

 ファビアンの問いに、答える者はいない。短くなった蝋燭を頼りに目を凝らすと、トグルルが目を開けていた。

「何か言ったか?」

 トグルルは答えない。目は開いているが、焦点は合わず、どこか遠くを見ているようだ。また、何か呻いた。いや、呻き声ではなかった。

 トグルルは歌っていた。掠れた声で、途切れ途切れの歌を。繰り返し、繰り返し。それは、なぜか不安になるような、寂しい旋律の歌だ。


  時は来たれり

  女神イシュタル くだり給うや冥界へ


  現れたるは 七つ門

  立ちはだかりし 門番は

  女神の宝 奪いたり

  最初の門で失うは 王の冠なりにけり

  第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り

  第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り

  第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り

  第五の門で盗られたり 地上を統べる金の帯

  第六門で消え失せる 麦穂の腕輪 足飾り

  最後の門で 薔薇の衣をはぎとられ

  かくて女神は 冥界へ

  地に光消え 花は枯れ

  民ら嘆きて 女神呼ぶ

  女神も叫び抗わん

  わらわを戻せ 日の元へ

  わらわに戻せ わが宝

  死霊 笑って申すには

  門をくぐりし者は皆

  戻るは決して能わずと

  冥府の掟 破るなら

  よこし給え 身代わりを

  かくて女神は 死霊とともに

  贄を求めて 地に戻る

  嘆きの民のその中で

  笑い歌う男あり

  怒りし女神 炎吹き

  死霊に男を指し示す

  我が身代わりは この男

  死霊とらえし その男

  女神の愛しき夫なり

  夫は闇へ 引き込まれ

  冥府の色に 染められる

  かくて女神は 取り戻す

  失いしもの そのすべて


 『何の歌だ、それは』

 ファビアンの問いに、トグルルは答えなかった。何も聞こえていないようだ。けれど、目を開けている。トグルルは、ただ歌い続けた。繰り返し、繰り返し。祈りの言葉のように。



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