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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第一章

 君の声がする。

 君が、歌っている。柔らかな、掠れた声で。花の香りがする。

 また、あの歌だ。

 君が歌うのは、遠い昔、冥界に下った美しき女神の物語。

 俺は何も見ない。何も聞かない。ララ、君以外は。

 


 「『鷹の爪』を捕まえたぞ!」

 その声が響き渡ると、どよめきが起きた。

「ついに神の裁きが下ったのだ!」

「偉大なる主に栄光あれ!」

 「騎士の砦」と呼ばれる巨大な白い城塞は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。それも無理はない。城塞に詰める十字軍の騎士たちを昼夜恐れさせていた、暗殺教団「鷹の爪」の刺客を捕らえたのだから。

 騎士の砦は、アンサリーヤ山脈東斜面に位置する。かつてはイスラム勢力の城だったが、十一世紀末に十字軍が奪い取り、今や巨大な石の城は騎士たちの拠点となっていた。

 強固な要塞に守られているはずの彼らを恐れさせるもの。それが暗殺教団「鷹の爪」だった。彼らは近隣の少年たちをさらっては、独特の麻薬で恐怖心を持たない命知らずの刺客に育て上げ、敵の懐へ放ってきた。

 同様の暗殺教団「アサシン教団」は、騎士たちにとってはまだ都合が良かった。カスピ海に近いエルブルズ山脈に潜む彼らが敵とするのは、主にセルジューク帝国であり、イスラム世界の内部分裂に終始してくれていた。

 だが、アンサリーヤ山脈のどこかに潜む「鷹の爪」教団は違う。彼らは異教徒の十字軍を目の敵にし、騎士たちを情け容赦なく血祭りにあげてきた。騎士の砦でも、すでに要塞の責任者である管区長や兵役長ら重要人物を含む二十六人が刺客の手で天に召されていた。

 悪魔のごとき教団の手先。だが捕らえられた男は、二十歳をやっと越えたくらいの青年だった。

 神の名の下に、管区長代理と修道院長らによる尋問(それは拷問に見えたが)が行われたが、麻薬に侵された青年の言葉は意味を成さなかった。

 殺すのはわけがない。だが、彼は「鷹の爪」につながる重要な糸口だ。

 管区長代理のフィリップ・ド・ポワティエらは、思案に暮れた。

 このけだものを正気に戻し、何としても「鷹の爪」の拠点を聞き出さなければ。

 刺客を捕らえて三日目、フィリップは作戦を変え、一人の修道騎士を呼び出した。

 騎士の名は、ファビアン。二十三歳になったばかりの若者だが、医学薬学の知識は誰よりも広く、深く、現地の言葉にも詳しい。狂った獣の脳を元に戻すことができるかもしれぬ。

 それだけではない、とフィリップは細い目をさらに細めて思った。

 ファビアンの、赤い巻き毛に緑の瞳、透き通る白い肌。その横顔は、キリストを抱く聖母像のように清楚だ。可憐、という言葉が似合うほどに。

 刺客とて心を許さずにはおれない、格好の餌ではないか。フィリップはニヤリと笑った。


 先輩の修道騎士ジャンに連れられ、ファビアンが辿り着いたのは、砦の最奥にある石の地下牢だった。

 重い扉を開けると、じめじめとした湿気とともに、獣の檻に入り込んだようなツンとする腐敗した臭いが押し寄せ、ファビアンは思わず顔をしかめた。

 ジャンの持つ蝋燭がゆっくりと、牢の中を照らす。

 そこには両手両足を鎖で繋がれ、壁にくくりつけられた男が一人いた。

 醜悪な臭いはこの男から漂っているらしい。かなり大柄だが、黒い髪はボサボサに乱れて汚れ、口からは涎が垂れ、何か訳の分からない言葉をブツブツと喋っている。

 ファビアンは悪臭を遮るため、布で鼻を押さえて言った。

「これが、『鷹の爪』ですか?兄弟ジャン」

「そうだ。我らの兄弟たちを手にかけた、恐ろしい暗殺者だ」

 普段は温厚なジャンだが、顔を歪めて吐き捨てる。

「獣そのものですね」

 ファビアンも眉をひそめて頷く。「このような輩と会話ができるとは思えません」

「その通りだ。だが、死なせるわけにはいかん。こやつは我らの大事な切り札なのだ、兄弟ファビアン。君の使命は、この獣を尋問に耐えられるよう生き永らえさせること、そしてあらゆる情報を聞き出すことだ。寝言でも構わん。どんな小さなことでも『鷹の爪』の情報を集めてくれ。それができるのは、この地の言葉が分かり、あらゆる医学に詳しい君しかおらん」

「お任せを」

 ファビアンは頭を下げた。「そのように仰っていただき、光栄に存じます」

「それまでは、この無知蒙昧な獣と一緒にこの牢で過ごすことになるが、良いか?」

「構いません。戦場で血を流している兄弟たちの痛みに比べれば」

「頼もしいぞ、兄弟ファビアン。成功を祈る」

 ジャンはファビアンの薄い肩をポンと叩いた。地下牢の蝋燭に炎を灯すと、彼を残して牢を去り、重い扉の鍵を外から掛けた。

 ジャンの立ち去る足音がする。

 ファビアンは身震いをした。急に不安になった。暗い地下牢で、狂った教団の刺客と二人きりだ。が、番兵の従士二人が扉の向こうに控えているはずだ。何よりも、この男は両手足を頑丈な鎖で繋がれているではないか。恐れるに足りぬ。

『お前、名は何という』

 不安を隠し、わざと尊大な口調でファビアンは現地の言葉で問いかけた。

 だが、男は何の反応も示さない。ただ唸っているだけだ。

『正気ではないようだな』

 そう言いつつ、ファビアンは少し安堵した。今度は男に分からぬようフランス語で独りごちた。「お前ごとき汚らわしき悪魔は、このまま打ち捨てても良いのだが。管区長代理御自らのご命令だ。主の慈悲を施せ、とな」

 ファビアンは布と湯を持って男に近付いた。捕らえられてから一度も体を洗っていないだろう。男の肌からは、汗と垢と血が混じったような悪臭がにじみ出ていた。特に捕らえられた時の闘いで負ったらしき肩の刀傷は、蛆がわき始めていた。

「主のお慈悲を!」

 ファビアンは顔をしかめたまま、吐き捨てるように言うと、湯にひたした布を絞り、男の傷に触れた。

 途端に男は悲鳴をあげ、何か呪いのような言葉を吐き、暴れ出した。ファビアンは慌てて飛びのく。

『大人しくしろ!私は、お前のためにしているんだぞ!』

 ファビアンが叫んだその瞬間、男は突然暴れるのをやめた。

 ファビアンは固唾を飲んで、男を見詰める。男は再び、訳の分からない言葉で唸り出したが、動きはしなかった。

『面倒をかけるな』

 虚勢を張って言うと、ファビアンは再び傷に触れた。今度は男は痛みで顔をしかめたが、大人しくされるがままでいた。

『痛むだろうが、傷口はきれいにしなければならぬ』

 男の傷を布と柔らかな毛のブラシでゴシゴシと洗い、聖油を塗って油紙で覆った。その後は湯と布を換えて男の体全体を拭いた。垢と泥で、すぐに布は真っ黒になる。ファビアンは鼻の辺りに皺を寄せながら、いかにも嫌そうに男の体を拭いた。

 最後に、顔を拭いた。闘いのためか、尋問のためか分からぬが、赤く腫れ上がっている。涎で汚れた口元を拭い、こびりついた目やにを取り払う。

 一瞬、男の目がファビアンを射抜いた。

 焦点の合っていなかったはずの男の目が、ひたとファビアンに吸い付く。

 真っ黒な、闇のような目だった。大きな、冴え冴えとした。

『な、何だ…。何か言いたいことが…』

 ファビアンは慌てて現地の言葉で語った。

 だが、男はすぐに目を閉じ、再びよく分からない言葉を口ずさみ始めた。

「何なんだ…。やはり狂ってるんじゃないか」

 再びフランス語で言うと、ファビアンは少し離れた壁際の木の長椅子に体を横たえた。

 このような獣と同じ部屋では、とても眠れはしないだろうが、せめて体を休めなければ。

 ファビアンはフランス語で呟いた。

「なぜ、私がこんな獣の世話を。この私が…」

 だが言った後で、ファビアンは頭を振り、手を組んで目を閉じた。

「主よ、お許しください。未熟な私を、どうか…」

 この恐ろしい敵に慈悲を施す。そんなことはできるのか。この男は多くの我らの兄弟たちの命を奪ってきたのだ。おそらくは、ギイの命も。

 冷たい地下牢の中で、男の唸り声を聞きながら、ファビアンは必死で祈り続けた。



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