古代の獣 第十七章
空には、覆った宝石箱のように星が瞬いていた。
地上は狂気の宴を終え、今は静かに星の子守唄に身を任せていた。
何も聞こえなかった。砂漠からの砂嵐も今宵は静まり、世界の最後の夜のように何もかもが沈黙していた。ただ一つ、巨大な竜の翼が風を打つ音以外は。
ムシュフッシュ、いやイシュタルは炎のような赤い目で廃墟を見下ろしながら飛んでいた。嘲りとも哀れみともつかぬ色が、その瞳に浮かぶ。その背にはぼろ布のようになった人間がいた。だが、それが「イシュタルの子」と称された美しい少年だったことに気付く者はいないだろう。
「ジョシュア、生きているか?」
イシュタルは淡々と問う。ジョシュアは竜の背で力なく顔を上げた。ただ一つ残された左の目がゆっくりと開き、血走った白目の中に浮かぶ緑色の瞳が、何かを言いたげに震えた。
「…」
「バビロンの王のことか?」
イシュタルはジョシュアの言葉を汲み取った。「あの愚かな王ならば無事だ。ただ一人、エ・サギラの神殿にいる。最期の時を迎えるために」
「…」
ジョシュアの呻きに答え、竜は言葉を継ぐ。
「バビロンの抵抗ならば、もう終わった。すべてが終わった。エ・サギラの神殿内は巧みに造られた迷宮だが、それも最後の要塞とはなりえない。軍勢が神殿に攻め込むのも、時間の問題だろう」
「…ムシュフッシュ!」
ジョシュアが最後の力を振り絞って、叫んだ。「…僕を、ラサルの元へ!」
エ・サギラの神殿の最上部、マルドゥク神の彫像の前でラサルは跪いていた。
懸命な闘いも祈りも空しく、彼を待つ運命はただ一つしかなかった。
ラサルは腰に差していた黄金の短剣を抜いた。聖獣ムシュフッシュの透かし彫りが入ったその短剣は、灯火の淡い光をきらきらと星のように反射させていた。ラサルは、その輝きをじっと見詰めた。
ラサルの顔は穏やかだった。この結末は既に遠い昔から知っていた。ただ、ジョシュアの身だけが気がかりだった。無事、逃げおおせただろうか。
黄金の短剣を喉に突き立てようとしたその瞬間、翼の羽ばたく音を耳にした気がした。
ラサルは手を止め、周囲を窺った。羽ばたきはどんどん近付いてくる。
やがて古代の獣はゆっくりと神殿の窓に舞い降りた。闇から生まれたような黒い翼は、ぼろぼろになっているが、炎の目は今まで以上に燃え盛っている。
ラサルの目が大きく見開かれた。その背に倒れ込んでいる一人の男。その姿は。
「…ジョシュア?」
ジョシュアは弱々しく頭を上げた。
「…ラサル」
「ジョシュア!」
ラサルは短剣を落として駆け寄り、ジョシュアの体を竜の背から奪い取った。
「ジョシュア!私が分かるか?」
ラサルの腕の中で、ジョシュアはたった一つ残された目を開けた。その時、初めてラサルはジョシュアの身に起きた災いを知った。ラサルの腕は、ジョシュアの乾き切らない血ですぐに染まった。その体に一体どれだけの刀傷があるのか、ラサルには見当もつかなかった。右目はえぐられ、右腕の先は切り落とされ、肘の辺りで乱暴に結ばれた布が赤黒く染まっている。両脚は不自然な方向に捻じ曲がり、曝け出された太ももにこびり付く生々しい血と体液の汚れ。生きているのが不思議なくらいだった。
「…ジョシュア、ああ、ジョシュア」
ラサルはジョシュアの頭をかき抱いた。ジョシュアは返事の代わりに、片方だけ残った左目で瞬きをした。ラサルはその目を覗き込む。その瞳だけが、いつものジョシュアだった。大河のような、吸い込まれそうな深い緑。どんな暴力も汚すことのできない、神の瞳。たった一つしか残されていなくても、それは地上のどんな宝石よりも輝き、どんな炎よりも熱を発していた。
「…ジョシュア、どうして分かってくれなかったのだ!お前が生きていてさえくれれば、それで良かったのだ!」
「…ごめん、なさい…」
「お前があやまるな!これは、私の罪だ。私を許してくれ。すべて私が招いた罪だ。すまぬ…」
ラサルはジョシュアの頬に頬を寄せた。その温もりに、ジョシュアの唇からため息が漏れた。たった一つ残された緑の目から涙が零れ落ち、泥と血で覆われた顔に一筋の運河を刻んだ。
「…僕を、こんな僕でも、まだ…愛して…いてくれる?」
ジョシュアは最後の力を込めて呟いた。だが、その声はあまりにも微かで、ラサルの耳に届かない。
「何だ?何と言った?ジョシュア」
ジョシュアは答えようとした。だが、喉はもう力を失い、声は空気を揺らすだけだ。答える代わりに、ジョシュアは長い睫を微かに上下させた。
もはや命の消える時は迫っていた。ジョシュアの目は霞み、ただラサルの紫がかった黒い瞳だけが見えた。
「ジョシュア!ジョシュア!」
ラサルの叫び声も遠くなっていく。ジョシュアの耳に代わりに聞こえてくるのは、幻の砂嵐の音。ジョシュアにしか聞こえぬ、死への序曲。
だが、それはラサルの奏でる竪琴の響きにも似ていた。迷宮へ下るイシュタル、救い出すのは身代わりの恋人…。
ジョシュアの瞳が虚空を睨む。
(ラサル、貴方の歌を聴かせて。あの、古い歌の続きを、僕に歌って)
けれど、ジョシュアの言葉は声にならない。
ラサルが何かを叫びながら、自分をかき抱くのをジョシュアは感じた。いつも穏やかなラサルの黒い瞳が、怒りと哀しみで錯乱している。
(お願いだから、ラサル、歌って。あの歌の最後を…。幸せな最後を…)
ジョシュアの頭が力なく垂れた。
「ジョシュア!死ぬな!私を置いて死ぬなど許さぬ!」
だがラサルの叫びに、もうジョシュアは答えられない。だらり、と腕も垂れた。
「ジョシュアー!ジョシュア、ジョシュア!」
ラサルはジョシュアの頭を強く抱いた。だが、もう何の応えもない。睫一つ、動かない。
「イシュタルの子は死んだ」
その時、竜が口を開いた。「我が同志は昇天した。その者には、永遠の命を授けようと誘ったのだがな。惜しいことだ」
ラサルはジョシュアを抱いたまま、燃える目で竜を睨んだ。
「…お前のせいだ、古代の獣よ。呪われたイシュタルよ。お前さえいなければ、ジョシュアは大罪を犯すことも、この若さで命を終えることもなかった」
竜は鼻で笑った。
「元凶をつくったのはお前だ。偽りの王の冠に縛られた愚か者よ。一番大事なものをゴミのように投げ捨てた。その結果が、これだ」
「…お前に言われるまでもない。その通りだ」
ラサルは苦々しげに笑った。「だが、私はそなたを許さぬ!」
閃光が走った。ラサルは黄金の短剣を拾い上げると、目にも止まらぬ速さで竜の首に深々と突き刺した。
竜は逃げなかった。彫像のようになってラサルの剣を受け入れた。
ラサルは渾身の力で剣を横に引き抜いた。竜の首が切り離される。と同時に、天井へと吹き出す黒い血。古代の獣は、そのまま、どうと倒れた。
ラサルは竜の血を両手ですくうと、それを口に含んだ。そして床に倒れているジョシュアの顔を引き寄せ、唇に吸い付いた。ジョシュアの半開きの唇に、口に含んでいた黒い竜の血を一気に流し込む。
(竜の血は不死をもたらす)
神官のテペの言葉がラサルの頭を巡っていた。テペ自身は竜の血のために生きながら泥のように崩れたが、ジョシュアなら大丈夫かもしれない。何よりもそれ以外、道は無い。
(頼む!生き返ってくれ!)
古代の獣の血が、命が絶えたはずのジョシュアの喉を通り過ぎた。
その時、ラサルは少年の唇が微かに、ゆっくりと動く気配を感じた。ラサルはジョシュアを強く抱き締めたまま、さらに竜の血をその体内へと注ぎ込んでいく。
唇を離した時、ジョシュアの残された左の瞼が再び揺れた。
「ジョシュア…?」
瞼の間から現れたのは、燃え立つような緑の瞳。
「ジョシュア!」
ラサルは歓喜の叫びとともに、その体をきつく抱き締めた。「ジョシュア、ジョシュア…!神よ、感謝いたします!」
再び蘇ったジョシュアも、ラサルの名を呼ぼうとした。だが竜の血が通った後の喉は熱く焼け、声が出ない。
「ああ…、ジョシュア、私のジョシュア…」
ラサルは涙で顔をくしゃくしゃにしながら、ジョシュアの頭を、頬を撫でた。ラサルの溢れる涙が汚れたジョシュアの顔を再び清めていく。
「ジョシュア、お前は死なせぬ。王の命令だ。永遠に、お前は私の傍らで生きるのだ」
ラサルはもう一度、ジョシュアの唇に口付けた。その睫に、緑の瞳に、額に、頬に、かつて瞳があった場所に、降り注ぐ花びらのように口付けを繰り返した。
(…ラサル…)
再び地上へと蘇ったジョシュアの唇からため息が漏れた。今やジョシュアの体からはすべての苦痛が嘘のように消え、代わりに震えるような甘美な喜びが満たしていた。初めての夜のように。
ジョシュアはラサルの瞳を見詰めた。優しく穏やかな、夜のような瞳が、愛しげに自分を見ている。王冠のように結い上げられていた髪は今は乱れ、月のように端正な顔に垂れかかっていた。
(こんなラサル、初めて見た)
ジョシュアは微かに笑った。
(また、ラサルの腕に戻れたんだ。…ラサルの歌が、聴けるんだ。また、あの晩のように、幸せな結末の歌が聴きたい。歌って。…ラサル)
けれど、ジョシュアの喜びは次第に違和感に変わった。ラサルの顔に一本、また一本と黒い髪が次々と垂れてくる。だが、それは髪ではなかったし、実際の出来事でもなかった。ジョシュアの視界が、墨で塗り潰されるように少しずつ欠けていったのだ。
やがてジョシュアの目には、ラサルの姿はすっかり見えなくなった。
(ラサル!)
ジョシュアは慌てて、ラサルの方へと手を伸ばした。だが、ジョシュアの腕がラサルに触れることはなかった。永遠に。
「ジョシュア!こ、これは一体、…どういうことなのだ!」
ラサルが絶叫した。
彼の目の前で、ジョシュアの腕が、足が、ゆっくりと消えていく。まるで砂に書かれた文字が風に消されるように。ジョシュアのしなやかな胴も、波打つ麦の穂色の巻き毛も、唇も、柔らかな頬も、長い睫も、空気に飲み込まれるように消えていった。
残ったのは、ただ緑の瞳のみ。ユーフラテス河の輝きを形にしたような左の瞳だけが、深い緑色の石となって、ラサルの手の中に残った。
「ジョシュアー!」
ラサルは石に向かって叫んだ。だが、何の答えもあるはずはない。ラサルは震える手で、その石を覗き込んだ。緑の石の中には、イシュタルの血が結晶となったような、どす黒い塊があった。かつてジョシュアだった石は、まるで瞳そのもののようになって、こちらを見ているようだ。
その時、竜の低い笑い声がした。首を切り落とされた竜が、再び赤い目を開けてラサルたちを笑っていた。
「…ジョシュアを戻せ!」
「何を言う。お前の望み通り、ジョシュアは永遠の命を得たのだ」
首だけとなった竜は嘲笑い続ける。
「…こ、この、悪魔!」
ラサルはジョシュアだった石を握り締めたまま、竜に向かって剣を向けた。
「…『イシュタルの冥界下り』の結末を知っているか?」
「それが何だというのだ」
「歌の結末を、お前に教えてやろう。イシュタルは身代わりに夫を冥界に送った。だがそれでも女神は解放されなかった。すでに還るべき肉体が朽ち果てていたためだ。蘇るには、冥界の門で奪われた七つの宝が必要だ。それが適うまでは、イシュタルは冥界の門の番人として彷徨わねばならぬ」
「…やはりお前がイシュタル…」
「七つの宝を炎と天に捧げた暁に、わらわは真に蘇ることができる」
「七つの宝なぞ、お前ならばすぐに集められよう」
ラサルは皮肉な口調で言い捨てた。
「そうもいかぬ。愛と戦いの神イシュタルが持つ宝は、無私の愛と清らかなる血が捧げられたものでなければならぬからな。この間は宝欲しさにお前の甘言に乗せられたが、よく考えれば人間ごときがわが宝を集めるのは不可能」
「そうかもしれぬな」
「一つ一つ、わらわが時間をかけて集めねばならぬ。とはいえ、既に第一の宝・王の冠はいただいた。ジョシュアが持ってきた、お前の髪だがな」
「…私の髪…」
ラサルは青ざめ、自らの髪に触れた。
「そう。あれこそが王の冠。あの冠が炎に捧げられた今、最初の門は開かれたのだ」
「…すべての宝が揃った時には、…どうなるのだ」
「その時は、わらわがこの世を支配する。そして完膚なきまで焼き尽くす」
竜の首がいかにも楽しげに笑う。
「なぜ、そんな恐ろしいことを…」
「わらわは冥界に縛られた」
かつてイシュタルという女神だった竜は言う。「なのに、わらわの犠牲を知りながら、人間どもは笑って過ごしていた。彼らが相応の報いを受けるのは、当然のことだ。お前は、恐ろしいというが、今は石となったイシュタルの子もまた、そう思っていたぞ。その憤怒が、わらわを引き寄せたのだ。あの子はわらわの憑坐だ」
「違う!ジョシュアは、素直ないい子だった。そんな、そんなことは思わない!」
「お前が気付こうとしなかっただけだ。あの子の怒りの元は、お前であるのにな」
首だけの竜は地鳴りのような声で笑った。
「私が?どういうことだ?」
「ジョシュアを奴隷だと言い続けたろう?」
「それは、当然だからだ」
「果たしてそうかな」
竜はねずみをいたぶる猫のように楽しげに言う。「お前は、あの子を下等な人間だと見下し続けていた。それが、あの子を追い立てたのだ」
「…そんな…。私は、あの子を誰よりも大切に思っていたのに…」
竜は嘲笑った。
「奴隷として大切に、であろう?」
「やめろー!」
ラサルは剣を再び手に取ると、竜の頭に突き立てた。何度も、何度も、何度も。
どれほどの時間が流れたのだろうか。ラサルはただ呆然と座り込んでいた。
だが愛しい人は戻らない。そして切り刻まれた竜はもうしゃべらない。
「ジョシュア…」
ラサルは両の掌で緑の石を握り締め、そっと口付けた。
緑の石は、その口付けに応えるように、カタカタと微かに震えた。
ラサルは静かに微笑んだ。
「許してくれるか?ジョシュア。愚かな私を」
カタカタカタ。石が震える。
「ジョシュア、そうか。お前はそこにいるのだな」
その石をラサルはマルドゥク神の足元に捧げた。「ずっと一緒だ、ジョシュア」
ラサルは再び石に恭しく口付けた。
鳥の鳴き声がした。夜明けが近い。もうじき、敵国の兵士たちが神殿に踏み込むだろう。徐々に外はざわめきを増してきた。大勢の人が集まって来ているのだ。夜明けとともに、最後の戦いが始まるのだろう。
ついに、薔薇色の朝日が神殿にさっと、差し込んだ。太陽の矢は、一直線に緑の石を照らした。
「ジョシュア…」
ラサルは呟いた。朝日に照らされた石は、かつてのジョシュアの瞳そのままに、燃えるように輝いていた。
「ジョシュア、お前はここにいるのだな。お前は…」
その呟きが終わらぬうちに、ドスンと音がして、ラサルの背に矢が刺さった。強弓から放たれた矢はラサルの黄金の鎧を軽々と突き破った。
崩れ落ちる背に矢が雨あられのように次々と命中する。
同時に、兵士たちが獣のように現れた。彼らは雄たけびを上げながら、王だった青年の背に、あまたの剣を振り下ろした。
石は、ただそれを見ていた。王の血を全身に浴びて、一層強く輝きながら。
最初の門で失うは 王の冠なりにけり




