古代の獣 第十六章
ムシュフッシュがメディアの街を焼き滅ぼした。輿入れするはずだった姫君さえも。
ムシュフッシュに跨っていたのは、麦穂の色をした髪の、ジョシュア。
その恐ろしい一報がラサルの元にもたらされたのは、彼らがイシュタル門を出てしばらくしてのことだった。ラサルは静かに伝令たちの話を聞いた後、至急バビロンに引き返すよう指示した。
どんな言い訳をしようとも、メディアから見ると、あの竜の悪行はバビロンの王である自分の命令と取られるだろう。ならば、メディアはバビロンに攻め入る。そして、分は彼らにある。戦は避けられぬ。
王宮に戻ると、蒼白な顔のシュルギが駆け寄ってきた。
「シャルマラサル様!あ…、あの子が、まさか…」
「シュルギ、ジョシュアの行方は?」
「皆目分かりませぬ…」
「…そうか」
ラサルは兜をシュルギに預けると、窓辺から空を見上げた。そしてその彼方にいるであろう、愚かで愛しい人を思った。目を閉じると浮かぶのは、深く深く傷つけてしまった想い人の緑の瞳。
「シュルギ、すまぬが水を一杯くれぬか」
ラサルは玉座に倒れこむように座ると、シュルギが差し出す杯を一気に干した。
良かれ、と思ってジョシュアを拒絶した。このままではジョシュアはテペに消される。邪悪な竜はジョシュアにとってあまりに危険だ。
ジョシュアが生きているだけでいい。生きてさえいてくれれば、それだけで自分は生きていける。どんなに意に染まぬ道を歩もうとも。そう思って、メディアの姫との結婚にも同意し、ジョシュアに心無い言葉も叩き付けた。
なのにその結果、愛する者に大罪を犯させてしまうとは。
「シャルマラサル様!」
次々と押し寄せる伝令たち。
「ム、ムシュフッシュはメディアのまちの大半を焼き尽くしたとのこと!」
「姫君のみならず、生まれたばかりの王子も業火に焼かれた由!」
ラサルは唇を噛み、恐ろしい報告を聞いていた。救いとなるような知らせはなく、翌朝もたらされた報は、さらに事態が深刻になったことを告げた。
「国境におります『遠目』の報告によりますと、凄まじい数の軍勢がこちらに向かっております!メディアだけでなく周辺の国々が結託したものと思われます!先頭に立つのは、シャルマラサル様の兄君ナボニドス様!」
王は答えず、じっと目を閉じて聞いている。
「メディアの王自らも、焼き殺された王子、王女の復讐のために剣を取ってこちらに向かっているやに!」
ラサルは立ち上がると、窓辺から地平線の彼方を見やった。メディアに続く道が見えた。その道と地平線とが接する辺りに、入道雲のように巻き起こっている砂埃。青い空についた茶色い染みのようなその砂埃は、刻一刻と近付いている。
それがメディアとその連合軍のものであることは明らかだった。一体、何万いるのだろうか。
そうとなれば、自分とバビロンの運命もまた、火を見るよりも明らかだった。
それでも、ラサルの心にジョシュアへの憎しみは微塵も生まれてはこなかった。湧きあがるのは、ただひたすらに、愛しさと申し訳なさ。愚かな恋人ではあった。が、それ以上に愚かなのは自分だったのだ。
ラサルは再び黄金の兜をかぶった。そして王の印である聖獣の透かし彫りの入った黄金の短剣を腰に差した。その聖剣を染めることが許されているのは、王その人の血のみ。つまり自害用の短剣だった。
「シュルギ、お前には世話になった。ここにいては危ない。どこかへ去るが良い。私のことはもう良い」
「シャルマラサル王…」
「だが、できれば…」
「…できれば?」
「できれば、ジョシュアを探し、彼を連れて逃げてくれないか。砂嵐の届かない、神に愛された場所へ」
「…王よ、それは出来ません」
シュルギは困惑して言った。「私もジョシュアが愛しい。本当に素直な、真っ直ぐな子ですから。ですが、あの子が犯した罪はあまりにも大き過ぎます。メディアの民は、…これから殺されるであろうバビロンの民もまた、あの子を八つ裂きにしたところで許しますまい。あの子はもはや、大人しく罰を受け入れるしかないのです」
「それは重々分かっている。分かった上で、お前に頼んでいるのだ。我が…父よ」
「…ラサル様」
シュルギは目を伏せた。「…分かりました。ただし、ご期待はされますな。あの子を見つける自信すら、今の私にはありませぬ」
「分かっている。頼んだぞ」
この数日で数十年も老け込んだように見えるシュルギの肩を、ラサルはそっと叩いた。
ラサルの黒い瞳はもう穏やかになっていた。自分の命が尽きることなど恐れはしない。ただジョシュアが生きながらえることのみを願っていた。
くいっと顎を持ち上げると、ラサルは威風堂々たる様子で部屋を出ていった。黄金の甲当ての具合を入念に確かめながら、回廊を歩き続ける。
次第に王宮の正面の眩しい光が近付き、砂を含んだ熱風が頬を打ち始める。
もはや、風に含まれる戦火の気配は隠しようもない。
行列道路には、すでに武装した兵士たちが整列している。ラサルは小走りに階段を駆け下りると、朗々とした声で呼びかけた。
「バビロンの勇ましき戦士たちよ、皆、我に続け!イシュタル門を、マルドゥク神の聖なる都を守ろうぞ!王は常に、そなたたちとともにある!」
ウォーッ、と地鳴りような鬨の声が応えた。
歓声が途切れるのを待たずに、ラサルは鋼の長剣を振り上げ、先頭に立って馬を走らせた。獣のような雄たけびを上げながら、たった一人でイシュタル門の彼方に見える、敵陣へと突進していった。すでにメディア軍たちは、すぐ側まで迫っていたのだ。
勇敢なる王の行動に、兵士たちも奮い立った。
「シャルマラサル王、万歳!」
「王に続け!王をお守りせよ!」
兵士たちは口々に叫びながら、敵が巻き起こす砂埃の中へと突進していった。
剣と剣が打ち合う、重い金属の音。
肉が断たれる、鈍い音
断末魔の叫び。
青いイシュタル門は、人々の血の雨で赤黒く染められ、メディアをはじめとする周辺の連合軍が放った火は、美しく爛れた都を焼き払った。
そうして叫び声と血と炎の饗宴は、イシュタル門を挟んで四日間、続いた。
「イシュタルの子よ、お前の成したことを見るが良い」
バビロンから遠く離れたオアシスの一角、棗椰子の木の下でまどろんでいたジョシュアに、ムシュフッシュが楽しげに囁いた。「見事だ」
「どういうことだ?」
ジョシュアの問いに、ムシュフッシュは大声で笑うだけだ。その声に狂気が宿っているようで、ジョシュアはふと恐ろしくなった。
「連れていってくれ、ムシュフッシュ」
慌ててムシュフッシュの背に飛び乗り、バビロンへと急がせた。
その目に映ったのは、焼け爛れた都市の残骸だった。
青きイシュタル門は形もなく崩れ、黒く焼け焦げていた。行列通りにはおびただしい死体が倒れたままで、腐臭が漂っている。見たこともない装いの異国の戦士たちが戦利品を求め、略奪を繰り広げ、さらに新たな炎を放っている。
「一体、何が…」
ジョシュアはガタガタと震えだした。
「お前の望みどおりになったろう?」
ムシュフッシュが空を舞いながら、楽しげに問いかける。
愚かな少年は、初めて自分の犯した罪を悟った。
確かに、この地上を焼き払ってしまえと願い、ムシュフッシュに命じもした。心の底からの欲求だった。けれど。
「ラサル…」
愛しい人は、あの時、誰よりも憎んだ愛しい人は無事なのか?
「ラサルー!」
ジョシュアは叫んだ。「ムシュフッシュ、降ろせ!僕を降ろしてくれ!」
「愚かなことを言うな」
ムシュフッシュが苛立って言う。
「愚かでもいい!ラサルに会いに行く!」
今にも自分の背から飛び降りかねないジョシュアに根負けし、ムシュフッシュはバビロンから少し離れた街道にジョシュアを降ろした。
「本当にバビロンに戻る気なのか?」
「ああ、ラサルを助けなくては」
「バビロンに行けば、お前は殺される」
「分かってる」
緑の目は、揺らぎもしない。
「イシュタルの子よ、我とともに生きてはみぬか?お前が望むなら、我が生き血をお前に与えよう。さすれば、永遠の命を得られるぞ」
「ムシュフッシュ」
ジョシュアはきっぱりと言った。「僕はバビロンに行く。ラサルがいない永遠なんぞ欲しくはない」
そういうと、ジョシュアはバビロンへ向かって歩き出した。青かったイシュタル門を目指して。彼を待っている、運命も恐れずに。
炎で崩れたイシュタル門の残骸をジョシュアはくぐった。すぐに異国の兵士がひた、と剣を向けた。慌ててジョシュアも剣を抜く。
「何者だ。どこに行く?」
「お前なぞに言うことではない」
全身血と泥にまみれた兵士は、じろじろとジョシュアを上から下まで見た。
「そのなりは、平民ではないな」
「当たり前だ!私は…空の王者にして竜使いのジョシュア!」
その時、兵士の顔色がさっと変わった。
「お前が悪魔の竜使いか!」
兵士は、ジョシュアの知らない異国の言葉で叫んだ。「竜使いがいたぞ!」
その声に、兵士があちこちから、わらわらと湧いてきた。その数はどんどん増え、事の次第が飲み込めていないジョシュアをぐるりと取り囲んだ。
ジョシュアはじりじりと追い詰められていく。
「よくも我らの王子と姫を殺した!」
「俺の親も、幼い子も、お前に焼き殺された!」
「妻を、返してくれ!」
兵士たちが口々に叫ぶ。
「ぼ、僕は…、そんなつもりは…」
ジョシュアの声など、誰も聞いてはいない。
兵士たちの一人が、剣を振りかざした。ジョシュアは辛うじてその一撃を避けたが、すぐに別の人間が剣を振り下ろす。数十人の兵士たちが次々と襲い掛かってきた。ジョシュアは懸命に剣で受けとめようとしたが、次第にジョシュアの服は裂け、あちこちから血が拭き出始めた。
一人の剣が、ジョシュアの右目を突いた。
「うああっ!」
思わず膝を折ったその時、屈強な男がジョシュアの体を羽交い絞めにした。
「呪われた竜使いを捕らえたぞ!」
その声に、さらに人垣は増していく。一人の男がジョシュアの髪を持ち上げた。男は怒りに燃える目で言った。
「悪魔の使いよ、お前を簡単に殺しはせぬ。地獄を思い知るがいい」
「そいつが、愛と戦いの女神イシュタルの汚れた子か!」
「どんな愛の秘技を持っているか、試してみるがいいぞ!」
野次が次々と飛ぶ。
「正義の鉄槌を!」
ジョシュアは、男たちに殺意とは違う狂気が噴き出し始めたのを感じた。それは、あの娼館で襲ってきた男と同じ種類の、残虐な情熱。
恐怖と吐き気でもがくジョシュアに、男たちは棍棒を振り下ろした。ジョシュアの長い両腕を折り、両脚も砕き、そのまま地面に押さえつけた。
哄笑と血に満ちた陵辱が始まった。ジョシュアの叫びは、血で汚れた男たちの手によって封じられた。




