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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第十五章

 「離せ!ラサル…、シャルマラサル様に会わせろ!」

 神殿に押しかけたジョシュアを、門の前で衛兵たちが取り押さえた。

「下がれ!神殿に足を踏み入れることができるのは、王と神官のみ!奴隷の分際で、この無礼者が!」

 屈強な衛兵がジョシュアの体を抱えると、軽々と投げ飛ばした。ジョシュアは弾みで神殿の柱に頭をぶつけた。唇が切れ、鉄のような血の味が口の中に広がった。ジョシュアとて分かってはいた。が、いても立ってもいられなかった。ラサルの婚礼の話を聞いてしまっては。

 ジョシュアはペッと血を吐き捨てると、衛兵たちを睨みつけた。

「無礼者はどっちだ!私を誰だと思っている!私は、私はバビロンの天上を支配する、空の王、竜の勇者ジョシュアだ!そう、ラサル…シャルマラサル様がお決めになったのだ!空の王が、シャルマラサル様に会わせろと言っているのだぞ!我が命に従わねば、私のしもべ、ムシュフッシュの炎の舌で、お前たちを黒焦げにしてやる!」

 衛兵たちが一瞬、怯む。

 その時、神官テペが神殿の扉から現れた。

「思い上がるな、イシュタルの汚れた子よ」

「テペ!シャルマラサル様に会わせろ!分かってるぞ、お前がラサルを閉じ込めてるんだ!」

 老神官は哀れむように鼻で笑い、長く白い髭を手で梳いた。

「愚かな。シャルマラサル王は御自らのご意志で、身を浄めるために籠もっておられるのだ。イシュタルの神の罠を逃れ、清らかな魂でメディアの姫君を娶るために」

「…何を馬鹿な…」

「お前は知らぬかもしれぬが、先日使いが来てな。メディアの姫君のお輿入れが内定した」

「そんなの、嘘だ!ラサルがそんなこと…」

 ジョシュアがテペに掴みかかろうとした時、再び神殿の扉が開いた。

「何を騒いでおる」

 懐かしい声が響いた。よく通る艶やかな、低い声。

「ラサル、僕は…」

 だが、ジョシュアはそれ以上言葉を続けられなかった。ラサルの目が冷たく蔑むように自分を睨む。一週間前の、穏やかでやさしい眼差しとは別人のような目で。

「ジョシュア、なぜ、お前がここにいる?」

 ラサルは吐き捨てるように言った。今まで聞いたことがない、冷酷な声だった。ジョシュアは混乱して立ち尽くした。

「奴隷の分際で、考え違いをするな」

「ラ、ラサル、僕は…」

「聞いただろう。私は妻を娶る。メディアの姫君だ。ジョシュア、お前の功は大きいが、身分をわきまえず、増長したその態度、決して許されるものではない。このバビロンを、今すぐに去れ。金銀宝石、王宮にあるものは、好きなものを好きなだけ持っていくが良い。だがムシュフッシュは置いていけ。そして二度とこのバビロンに現れるな」

 呆然としていたジョシュアは、ハッとして慌てて跪いた。

「も、申し訳ございませぬ!このジョシュア、た、確かに身のほども知らず自惚れておりました。悔い改めますので、せめてお側に…」

 ジョシュアはラサルの足に接吻しようとした。だが、ラサルは乱暴にその顔を蹴った。

「さっさと去らぬか!シュルギに頼み、即刻旅立つが良い!」

 そう言うと、ラサルは頭にしていたターバンを取った。かつてのように長くはないが、もう既に髪は伸び、王冠のように結えるまでになっていた。「おぬしが万難を排してわが髪を持って来ようとしてくれたことは、ありがたかったと思う。が、そんな余計な助力などなくとも、私はもう王としての力を十分に備えておる」

 ジョシュアの顔が引き攣る。命を懸けてラサルの髪を届けようとした。けれど、もしかしたら、それをラサルは侮辱だと思っていたのだろうか。そんなものに頼らなくとも自分は神に選ばれた王なのだと思っていたのだろうか。

「…私は、私は、余計なことをしたのでしょうか…?」

 砂で汚れた頬を拭いもせず、ジョシュアは緑の瞳を震わせてラサルを見た。だが、ラサルの黒い瞳は冷たいままだった。

「何度も言わせるな。即刻去れ!」

 ラサルは踵を返し、神殿の扉の中に消えた。

 振り返る一瞬、ラサルは苦いものを飲み込むような顔をした。けれど、その奥に秘められた想いに気付くには、ジョシュアはあまりに若過ぎ、そして性急過ぎた。ジョシュア自身のためを思ってラサルが冷たく振舞っていたなどとは、気付くよしもなかった。

 ラサルは神殿の中に入ると、きつく目を閉じ、両手を合わせた。

(ジョシュア、早く、シュルギとともにこの腐った街を去ってくれ!テペがお前に手を下す前に)

 けれど、その想いは空虚に漂うだけで、ジョシュアには届かなかった。


 「…ラサル」

 どれだけの時間が過ぎただろう。ジョシュアはふらふらと立ち上がり、神殿を去ると、バビロンの最も華やかな通り・行列道路へと向かった。

 日差しが、眩しかった。いつもと同じ太陽、いつもと同じ賑わい。ジョシュアは何が起きたのか、よく分からなかった。

 ほんの七日ほど前まで、甘い歌声と口付けを降り注いでくれたラサル。言い争い一つしたことはなかった恋人。今もまだ、唇の感触が額に眉に、耳に、そして唇に残っている。ただひたすら、お互いの存在だけをいとおしんできたはずだった。

 なのになぜ、突然に現実は変わるのか。

(奴隷の分際で)

 愛しい人の口から漏れた、信じられない侮辱。

(ラサルは、ずっとそう思っていたのだろうか?)

 ジョシュアは空を見上げた。中空に太陽が輝いている。抜けるように青い空。人々が自分の脇を通り過ぎていく。皆楽しげに、華やいで見えた。

「王様の結婚が決まったそうだよ」

 背後で、誰かが言った。

「おや、それはめでたいことで。メディアと手を結ぶんだね。何にせよ、戦いがないのはいいことだ」

「祝宴があるよ。また、おこぼれに預かれる」

 さんざめくように笑う人の波。

 ジョシュアは目の前がぐるぐると回るのを感じた。そのまま、ガックリと膝をつく。

 突然、何かが体の奥から湧き立ってきた。

 マグマのような怒り。

(なぜ、僕だけが傷付くんだ)

 ジョシュアの濃い緑の目がカッと見開かれた。

(なぜ、なぜ、僕だけが。僕だけが侮辱され、傷付かなきゃいけないんだ。皆、笑ってる。愛をかわしてる。なのに僕が、僕だけが敗残兵のように惨めに傷付いている)

 吐き気が押し寄せてきた。何かが口から飛び出そうだ。ジョシュアは慌てて手を当てた。が、何も噴き出しはしない。叫びも、炎も。涙すらも出てこなかった。


 「鎧を持て!今すぐに出陣だ!メディアを救いにいくぞ」

 王宮に戻ったラサルは、家臣たちに次々と命じた。

 黄金の鎧を身にまとい、真紅のマントをつける。

 編みこんだ黒い髪を飾るのは、黄金の髪止め。それは闇に浮かぶ冠のように光り輝いた。

「シャルマラサル王、ようございました」

 家臣たちがため息とともに讃える。「出陣までにおぐしを結えるようになられるとは、何よりでございます。これで神も、シャルマラサル様を正統なる王とお認めになり、大いなる祝福を与えてくださることでしょう」

「…そうだな」

 ラサルは引き攣った笑いを見せた。それほどに今までは威厳のない姿だったと言いたいのだろうか。

 その時、年老いた忠臣シュルギが遠巻きに心配そうに見ているのに気付いた。

「おお、シュルギ、いたのか。ここへ」

「王の仰せのままに」

 シュルギが近付くと、ラサルはそっと耳元に囁いた。

「ジョシュアはもう出発したか?お前に相談し、ここから逃げるように言ったのだが」

「それが…あの子は神殿に行ったきり、戻っておりませぬ」

「何だと!」

 ラサルの厳しい声に、家臣たちが一斉に振り向く。ラサルは慌てて手を振った。「大事ない。皆、そのまま戦の準備を」

「探したのですが、どこにもおりませぬ…」

 シュルギが申し訳なさそうに小さくなって言う。

「…まさか、あの怪物のところか」

「分かりませぬ…」

「…私はムシュフッシュのところに行く。シュルギ、お前はジョシュアを見つけたら、すぐに馬でどこかへ逃がすのだ。どこでも良い。ここではない場所なら」

「ははっ!」

 シュルギが急ぎ立ち去る姿を横目で見送ると、ラサルは立ち上がり、ずんずんと廊下を歩んでいった。慌てて家来たちがその後を追う。ラサルは彼らに構わず、中庭を突き抜け、王宮のはずれの東棟の楼閣にあるムシュフッシュを囲った場所まで急ぐ。

「ムシュフッシュ!」

 ラサルは叫んだ。

 ムシュフッシュは目を閉じたまま、彫像のように動かない。

「ムシュフッシュ!ジョシュアは、…お前の主は来てはおらぬか!」

 だが、ムシュフッシュはラサルの言葉など聞こえぬかのように、微動だにしない。

「ムシュフッシュ!」

 やはり死んだように動かない。ラサルが見た限りでは、ジョシュアの姿は見えないようだ。だが、隠しているのかもしれない。ラサルは唇を噛み、その一言を発した。

「…イシュタル…と呼んだ方がいいのか?」

 その時、ムシュフッシュと呼ばれていた巨大な竜は、ゆっくりと目を開けた。火山のような真っ赤な目がひた、とラサルに向かう。

「…やはり、そうだったか。イシュタルよ」

 竜は無言のまま、ラサルを睨みつけた。口元が開き、喉の奥から赤い火が、ちろちろと見える。

「お、王様…!危のうございます!焼かれます!お逃げくだされ!」

 後ろにつき従っていた家来たちが腰を抜かし、急いで後ずさる。が、ラサルは竜から目を逸らさない。

「イシュタル、まさか女神の化身とは思ってもみなかったぞ。改めて聞く。ジョシュアは今、どこにいる?」

 だが竜は答えない。

 しばらくの沈黙の後、ラサルはため息をついた。

「分かった。ここには来ておらぬのだな」

 ラサルは竜の目を見た。何も答えぬが、それでも言葉が通じている気配はする。竜からは勝ち誇った様子は感じられない。やはりジョシュアはいないのだろう。

「ならば、イシュタルよ、私はお前と取引がしたい。さすれば、お前の望むものを与えよう」

 そこまで言って、ラサルはハッと気付き、膝を折った。竜の「気」が不機嫌になった気がした。

「いや、大変なご無礼を。どうかお許しあれ。イシュタル神よ、私は女神の望まれるものを捧げたく存じます」

 神はどんな種類であっても、信じられぬほど誇り高い。そう、ラサルは聞いている。ましてそれが女神とあれば。

「女神が望まれる七つの宝。それらを、この地上より探し出し、御前に捧げましょう。そして未来永劫、その名を尊び、崇め奉りましょう。それだけではございませぬ。今日よりイシュタル様は再び、自由の身でございます」

 ラサルは竜の足をくくっていた輪を鍵で外した。

「ですが、女神よ、頼みが二つございます。まずは、メディアに迫る蛮族どもをその御力で追い払っていただきたい。そしてあと一つは…」

 ラサルは唾を飲み込み、小さな声で言った。「ジョシュアをもう、お構いくださいますな。あの子は、ただの愚かな幼い子に過ぎませぬ。そのまま捨て置いてくだされ」

 その時、空気をビリビリと震わせて雷鳴が轟いた。いや、雷鳴ではなかった。イシュタルの化身の竜が発した、笑い声だった。

(まるで地底からの嘲笑りのような…)

 竜はひとしきり雷のごとき声を発したのち、悠々と歩き始めた。

 ラサルたちを顧みることもなく、大きな羽を広げると、助走もなく空へと舞い上がり、楽々と風に乗った。黒い翼が空を覆う。

「イシュタル神よ、くれぐれも!」

 ラサルは忠誠の誓いとして両手を胸の前で組んだ。どこまでイシュタルが自分の言うことを聞いてくれるかなどは分からない。だが、とりあえずジョシュアに危険をもたらす存在は去った。

 もし、竜が約束を守ってメディアに現れたなら、それはそれでいい。メディアへの面目も立つし、テペの配下の者が毒矢で竜を成敗してくれるだろう。それで、いい。いいはずだ。

 ラサルは自分を納得させるように二度手を叩くと、大きな声で叫んだ

「皆の者、出陣だ!我らの守り神ムシュフッシュがメディアへと向かった!我らも遅れるな!」


 意外なことに、ムシュフッシュ…いや、イシュタルはラサルとの約束を守り、メディアの国境へと現れた。

 そこでは一本の川を挟んで、メディアと彼らが「蛮族」と呼ぶ隣国の敵が対峙していた。

 巨大な竜の姿を見て、「敵」は恐れおののく。竜はじっとその場にいただけだったが、彼らは蜘蛛の子を散らしたように退散していった。

「さすが神の竜!」

「バビロンの守り神、万歳!」

 メディアの人々は歓声を上げ、ムシュフッシュを讃えた。

 

 同じころ、テペは配下の若き神官サラエと、用心棒である巨大な男マームとともに国境へと馬を急がせていた。

 馬上のテペは、老人とは思えぬ軽やかな身のこなしだった。

 前方から、メディアにいた使者が駆け寄ってきた。

「テペ神官!国境にムシュフッシュが現れた由にございます」

「おや、本当に来たか」

 テペは笑った。「まさかイシュタルの子がいなくとも、我らの命令を聞くとはな。一体、あの王はどんな甘言を用いたのやら」

「シャルマラサル様はマルドゥク神の生まれ変わり。竜とて言うことを聞くでしょう」

 そんな若い神官サラエの言葉を、テペは鼻で笑って無視した。

「さあ、急ぐぞ。あの竜の生き血を手に入れねばならぬ」

「ですが、テペ様。神殿の書物には、あの竜はムシュフッシュではないとあったのでは?果たしてあの化け物の血に不老不死の力がありますかどうか…」

「サラエよ、真実は誰にも分からぬ。このテペ、そんなものに怯んで、おめおめと不老不死の機会を逃すほど愚か者ではないぞ。急げ!王よりも早く!」

 テペの小さな黒目が、ニヤリと笑った。

 

 国境での戦いは、それで終わりではなかった。

 「蛮族」と呼ばれた敵たちは、最初こそムシュフッシュに恐れをなして撤退したが、竜が動かないのを見てとると、彼らは再び国境へと押し寄せてきた。それも、今までとは比べ物にならぬほどの大人数で。その中には、周辺の国々からの軍も加勢していた。

 バビロニアは強大になりすぎた。その源、巨大な力を持つ竜を潰せ。

 それだけを合言葉に集まってきたのだ。不安というのは、人々を友と敵に二分する。

 炎を番えた矢が次々と、メディア軍や鎮座したままのムシュフッシュに注がれた。

 竜にとっては、そんな矢は蝿のようなものだ。だが、それも長々と続くとさすがの竜も苛立ち始めた。炎を一吹きしようと、攻撃のために飛び立とうとした、その瞬間だった。

 一本の太い矢が、ムシュフッシュの腹へと放たれた。それは味方であるはずのメディア陣営からのものだった。

 そこにいたのは、メディア軍に潜伏していたテペら神官と用心棒のマームだった。強弓はマームらが三人がかりで放ったもので、鏃には神殿に伝わる猛毒が塗られていた。

 竜は空気を引き裂くような叫び声を上げ、そのまま地面に倒れ込んだ。

「竜を倒したぞ!」

 その声を合図に、周囲を神官たちが取り囲み、次々と竜の体に刀を突き立てた。腹、翼、長い巨大な尾…。固い鱗の合間を彼らは狙い、そこから黒い血が、噴き出した。

「あいつらは何をしているんだ?」

 何も知らないメディアの軍隊がどよめく。頼みのムシュフッシュに手をかけるとは一体、なぜ?

「良いのだ、捨て置け!」

 朗々としたテペの声が響いた。神官たちに守られながら、馬上のテペは兵士たちに落ち着くように手で制した。

「我が友、メディアの勇者たちよ。我はバビロンの大神官テペ。安心するが良い。あの竜はムシュフッシュではなく、汚らわしき冥府からの使者。成敗せねばならぬのだ!」

 メディアの兵士たちは、狐につままれたように顔を見合わせる。

「あの竜は偽りのムシュフッシュ。メディアの人々に仇なす怪物ですぞ!」

 その間も、テペの配下の神官たちはあふれる竜の血を器に取ろうとしていた。が、竜が暴れるため、なかなかうまくすくえない。

「さっさと生き血を、竜の生き血を採らぬか!」

 テペはその様に苛立ち、器を奪い取った。

「で、ですがテペ様、まだ竜は生きております!危険です!」

「不死となる千載一遇の機会ぞ!生き血を、王が来る前に、私に寄越すのだ!」

 テペの目が血走る。

 自身の人生の終わりが見え始めたテペは、達観するどころか今まで以上に生に執着していた。周囲が戸惑うほどに。

 驚く周囲の神官たちを尻目に、テペは辛うじて器に溜まった二口ほどの血を口に含んだ。

 真っ黒い血だ。

 その血がテペの口から伝わり、白い髭がどす黒く染まる。狂気としか思えない姿を、兵士たちは言葉を失って見ている。

 老人の喉がぐぐっと竜の血を飲み下す。苦いそれを飲み干すと、テペは、歓喜の息を漏らした。

「不死じゃ…。これで、わしは、ついに不死の身となったのじゃ…」

 だが次の瞬間、テペの目が大きく見開かれた。

 老人の顔は見る見るうちにどす黒くなっていく。そして目や鼻、口、穴という穴から真っ黒な液体が流れ出してきた。

「テ、テペ様…!」

「…ぐうう…」

 テペの体は蝋燭が溶けるように爛れ、崩れ始めていく。

 神官たちは呆然と、その様を見ていた。

 テペは最後に糸のような呻き声を残し、真っ黒な泥の塊のようになった。

 もう何の声も発しない。

 誰もが言葉を失った。

 その時、地鳴りのような声が響いた。低い、周囲を揺るがすような声。

『愚かな人間どもよ』

 竜、いやイシュタルの声だった。神官たちが遠巻きに見詰める中、イシュタルは傷だらけになった体を起こした。赤い目はさらに赤く血走り、口から黒い血が垂れ、炎もちらついている。『不死など、お前たちに授けはせぬ。人間の分際で神を騙す、思い上がった愚か者にはな』

 竜は、既に黒い液体と化したテペだったものを、蔑んだ目で見、その足で踏み付けた。

「…テ、テペ様の仇!」

 神官たちやマームが再び刀を構えたが、無駄だった。イシュタルの翼のはためき一つで、神官たちは遠くへと吹き飛ばされた。そのまま竜は空中高く飛び上がる。

 カッと赤いものが口から見えた気がした。途端に、真っ赤な炎が地上を襲う。

「熱い!熱い!」

「逃げろ!」

 テペの配下の者やメディアの兵士たちは大混乱になった。手負いのイシュタルは敵も味方もなく、地上すべてを焼き尽くすように炎を吐き出し続ける。

「退却、皆の者、退却だ!」

 メディアの将軍が叫ぶ。それでも竜の炎は衰えない。

 もう駄目だ、地上にいた誰もがそう思った時、イシュタルは突然、炎を吐くのをやめた。そして、何かに気付いたかのように周囲を二、三度見渡したかと思うと、あっと言う間にその場を飛び去った。

「竜は、バビロンの方向に向かったぞ!」

 兵士の声が、夕陽の中で響いた。


 「ムシュフーッシュ!」

 夕焼けに染まるバビロンの行列道路でジョシュアは叫んだ。周囲の人が驚き、立ち止まる。が、ジョシュアは叫び続けた。

「ムシュフーッシュ!」

 ラサルに拒絶された後、ジョシュアは炎天下をただ、ぐるぐると歩いた。二日の間、バビロンの街を歩き続けた。答えを求めて。

 それでも、何の啓示も得られない。

(誰が僕を助けてくれる?誰が僕の味方になってくれる?)

 ジョシュアの頭に思い浮かんだのは、一つの名だった。ジョシュアを助けてくれる、恐ろしいほどの力の主。

「ムシュフーッシュ!」

 七度目の叫びの直後、空は黒く変わった。黒い翼の竜が稲妻のように天空に現れたのだ。

 竜はジョシュア以外の人間など存在しないかのように、悠然と行列道路に降りてきた。不運な何人かが竜の太い尾に潰されたが、竜も、勿論ジョシュアも構わない。

 竜の傷だらけの姿に、ジョシュアは目を剥いた。

「ムシュフッシュ、一体何があったんだ?」

 竜の腹には太い矢が刺さり、あちこちから黒い血が滲んでいる。「待ってろ、今抜くから」

 ジョシュアは全身の力を込めて矢を引き抜いた。ジョシュアの腕ほどもある、太い矢だ。ドロリとした血が、そこから溢れてくる。

「すぐに手当てしなくっちゃ…」

『放っておけ、大事ない。私としたことが騙されたのだ』

 竜が低い声で唸る。『だが感謝するぞ、イシュタルの子。礼としてお前の望むことを叶えよう』

「ムシュフッシュ…それでは私を連れていけ」

『もちろんだ』

 竜の赤い目は、すべてを承知しているかのように瞬き、ジョシュアが背に乗るのを待った。彼が飛び乗るや否や、力強い翼の一打ちで空へと舞い上がる。

『メディアへ行くのだな』

 ふいに竜が言った。ジョシュアは驚く。

「僕は、そんなこと…」

『お前の心など簡単に読める』

 竜は地が割れるような声で笑った。『さあ、命ずるがよい、お前の望むことを。イシュタルの子よ』

 ジョシュアは目を閉じた。が、再びその瞼を開いた時には、緑の瞳は狂気を帯びて爛々と輝いていた。

「メディアへ。ムシュフッシュよ、メディアへ行って、かの地を焼き尽くせ」

『それは良いことだ。私も、丁度無礼な人間どもに鉄槌を下してやりたいと思っていた。メディアだけでなくバビロンの者ども焼いてしまおう』

 竜は楽しそうに言う。

 そしてメディアの街は、竜の吐き出す炎に焼かれた。王宮も、姫も、子供も。美しきものも、いとけないものも。



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