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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第十四章

 時は少し溯る。

 ラサルがエ・サギラの神殿を訪れた夜のこと。

 マルドゥク神の像の前で祈っていたラサルは、傍らの神官テペに尋ねた。

「テペ、お前に聞きたいことがある」

「何なりと。王の中の王よ」

 テペは大げさに手を胸の前で合わせ、わざとらしく恭順を誓った。

「ムシュフッシュのことだ。お前はあの竜の生き血を飲むと不死が授かると言ったが、それは真であろうな。あの神獣について、我々は知らぬことが多すぎる。早急に書記を集め、神殿に眠る古代の文献を調べさせろ」

「御意」

「それが分かるまではムシュフッシュにも、ジョシュアにも指一本触れてはならぬ」

「…御意」

 テペはあからさまに渋々という表情で頷いた。「それでは明日の朝にでも早速…」

「いや、今だ。今すぐに取り掛かれ。テペ、お前が言うように兄上とメディアが組むようなことがあれば、一刻を争う。テペ、お前もここにおるのだ。お前の助言が必要だ」

 ラサルは譲らなかった。テペに時間を与えてはならないと思った。その間に、彼はさまざまな企みをめぐらすだろう。ジョシュアにどんな危険が及ぶか分からない。

 急な王命に、書記たちは戸惑いながらも、神殿の宝物蔵からいにしえより伝わる山のような粘土板を広間へと次々に持ち運んできた。

 篝火の下、ラサルとテペは苦虫を潰したような顔で向かい合って座り、十人近い書記たちがムシュフッシュに関する記述を探し、二人の前で朗読する。

「『ムシュフッシュの血を飲みし者、永遠の命を神より授かる』。そう、年代記には書かれております」

 書記の言葉に、テペがニヤリとする。

「王よ、私が申し上げた通りでございましょう」

「待て。その前には何が書かれてあるのだ。実際に永遠の命を授かった者はいるのか?」

 年老いた書記は困った顔で言った。

「…実はこの前後の粘土板が欠けておりまして…」

「仕方ないな。では、さらにムシュフッシュにかかわる記述を探せ」

 書記たちは入れ代わり立ち代わり、古い粘土板に書かれた一節をラサルに語った。が、あまりにもそれらは断片で、結局は「神の使い」であること以外には分からなかった。

 そんなことが五日続いた。六日目の夜、一人の若い書記がうろうろとしているのにラサルは気付いた。

「そこの者、何かあったのか?」

「は、はい…。ですが、これは…、その、あまり関係ないかと」

「だが、ムシュフッシュのことが書かれているのであろう?」

「は、はあ…。ですが、これは…」

「よい。読め」

 ラサルの言葉に、仕方なく若い書記は読み上げ始める。

「『時はついに来たれり 麗しの豊穣の女神 冥界へくだりぬ』」

 ラサルは眉を寄せた。

「それは、『イシュタルの冥界下り』ではないか」

 誰もが知っている古い歌。そしてラサルがジョシュアにたびたび歌って聞かせた歌だ。なぜ、そんなものが年代記などとともに残っているのか。

「は、はい。その通りです。まさに『イシュタルの冥界下り』。七つ門で女神イシュタルは七つの宝を奪われ、冥界へと下った、とあります」

「…最初の門は王の冠」

 ラサルは呟いた。「女神は門をくぐるごとに宝物を奪われていくのであったな。第二の門は太陽と月の耳飾り、第三門は海の真珠の首飾り、第四門は輝く星の胸飾り、第五門では地上を統べる金の帯、第六門は麦穂の腕輪と足飾り、最後の門で夜の衣を剥ぎ取られ…かくて女神は冥界へ」

「そ、その通りでございます」

「だが、その歌にはどこにもムシュフッシュは出て来ぬぞ。夫を身代わりに冥府へ差し出し、女神は失ったものすべてを取り戻すのであろう?」

 ラサルはかすかに笑った。そう言えば、そんな終わりは嫌だとジョシュアが言っていた。女神は夫を助けないのか、と。幸せな歌の結末を作ってくれ、と。麦の穂色の巻き毛を揺らして。

 ジョシュアの髪の匂いが、神殿に漂う香油の匂いにまじって蘇った気がした。咲き初める花のような匂いが。

(遠い谷の思い出だ)

 ラサルは目を細めた。頭の中をさまざまな思いがよぎる。

(あのまま、生きていけたなら、どんなに幸せだったことか。できるなら、慈しみ合うただの兄弟として。胸の底から沸きあがる情念に惑わされずに。もう一度そんな風に生きていけたなら…)

(まだ、約束を果たせていない。幸せな結末とは、どのようなものなのか。今は考えられない)

「…あの、シャルマラサル王」

 書記が当惑して、もじもじと言った。「それが…違うのです」

「何が違うのだ?」

「…は、はい。今ちまたに伝えられている歌と、違うのでございます」

 テペがあからさまに大きなため息をついた。

「どうでも良いではありませぬか、そのような戯れ歌のことなど」

 さすがに疲労の色が濃くなってきたテペは、苛立って言った。「そんなものが何の役に立ちます?無駄なことでございます。王は一体、ムシュフッシュの何を知りたいのでございます?」

 ラサルは首を振った。

「私が知りたいのは、あの神の獣のすべてだ。それにテペ、エ・サギラの神殿に保管されていた粘土板だぞ。どんな戯れ歌でも、何か意味があるはずだ。書記よ、そのまま続けるが良い」

「は、はい。それでは…。つまり、こう書かれております。イシュタルは夫を身代わりとして冥府に置き去るが、自分は魂以外地上に帰れなかった。七つ門で奪われた七つの宝がないためだ、と。だが宝は既に冥府の番人たちが持ち去ってしまった。女神は宝を取り戻し、魂の『入れ物』を得るまでは地上に戻れない、と。…そして」

「そして、何だ?」

「そして、…女神の魂は、ムシュフッシュと同じ姿で地上を彷徨っている、と」

「ムシュフッシュと同じ姿、だと…?」

「は、はい…。マルドゥク神の化身たる真のムシュフッシュは神々しき黄金に輝く。ですが、イシュタルの魂が化けた偽りのムシュフッシュは、闇の翼を持っている、と。その翼は表は黄金色だが、裏は闇のような漆黒で、眼は血の色。失った宝と自らの『入れ物』を必死で探しているのだ、と。そして魂の『入れ物』と宝を取り戻した時、イシュタルは地上のすべてを手に入れる、と…」

「偽りの…ムシュフッシュだと?」

 その場にいる者たちは皆、凍りついた。

 表は黄金だが、裏は闇のように真っ黒な翼。血のように赤い眼。それはまさに自分たちがムシュフッシュと崇め奉った、あの獣ではないか。

「…あれが、マルドゥク神の化身ではない、と…?」

 ラサルが呻く。

「わ、分かりませぬ!」

 読み上げた当人の書記が慌てた。「こ、これは、ただの粘土板の記述にございます!それも遠い昔に刻まれた…」

「シャルマラサル王よ」

 テペが重々しく言った。「この記述が事実ならば、あの竜は、マルドゥク神の使いではなかったということになるかと。確かにあの竜からは神の使いとは思えぬ、不穏な気配がしておりました」

 ラサルは無言で大きく息を吐いた。確かに自分も感じていた。あの竜の体から、災いの予感を。

 テペは続ける。

「今すぐにでも、…始末いたしましょう。イシュタルは愛とともに不和と戦いをもたらす女神、このままでは地上に戦いが満ち、恐ろしいことが起きるやもしれませぬ」

「イシュタル神に対して、そのようなことが許されようか」

「マルドゥク神の化身を騙る所業は、神とても許されるものではありませぬ。ましてマルドゥク神はバビロンの守り神」

「そのマルドゥク神を侮辱したとあっては、イシュタルの竜を生かしておくわけにはいかぬ、か…」

 ラサルが呻く。テペは大きく頷いた。

「その通りでございます」

「だが、どうしたら良いのだ?お前も、あの強大な力を知っておろう」

「神殿に伝わる毒で始末するしかありませぬな」

「…そのような恐ろしいものがあるのか?」

「は。どんな巨大な牛も、たちどころにこの世から去ってしまいます」

「しかし、あの竜が毒を大人しく口にするかどうか…」

「矢に塗って射るのです。あの竜に限らず、空飛ぶ者たちの弱点は腹。一番無防備な飛び立ったところを下から狙い討ちいたしましょう。強弓ならば届きます」

「そのような機会はあるのか?」

「あの思い上がったイシュタルの子を使うのです。あの若造の命令ならば、汚れた竜も信じるでしょう。あの若造を乗せて空へ向かおうとしている時に、」

「何だと!」

 ラサルは叫んだ。「駄目だ、テペ!ジョシュアにそのような危ないことはさせぬ!」

「ならば、他の手段を教えていただきたいものですな!」

 ラサルがぐっと詰まった時、若い神官が息せき切って現れた。

「シャルマラサル王!王宮より使者が参っております」

「捨て置け。今はそれどころではない」

「ですが、火急の用だと…」

 ラサルはため息をついた。

「仕方がない。通せ」

 その使者はずっと走ってきたのであろう、荒い息と汗まみれの真っ赤な顔で王に向かった。

「…ご、ご無礼をお許しくださいませ。メディアの王より火急の連絡にございます」

「火急?何用だ?」

「蛮族が国境侵犯を繰り返し、ついにメディアの神殿の宝物まで略奪していったとのことにございます。もはや、メディアは一国では蛮族に太刀打ちできず、我が国のムシュフッシュの力を借り、蛮族を即刻焼き払ってもらいたい、とのことにございます」

「…ムシュフッシュの力、だと?」

「は。メディアは正式に我が国との同盟を要望しております。いえ、我が国の属国になっても良い、ともかく今、助けてほしい、と。ひいてはメディア王の姫君をシャルマラサル王の妃にと…」

「それほどに皆、ムシュフッシュを恐れるのか…」

 ラサルは大きなため息をついた。

「やはり来ましたな」

 テペがニヤリと頷いた。「これであなた様が婚礼を断れば、メディア王の面子は丸つぶれ。蛮族に滅ぼされるよりも前に、メディア王はシャルマラサル王への憎しみとムシュフッシュへの恐れから、この都に攻め込みましょう」

「私は、婚礼などなくとも…」

「メディア王は疑り深いお方。それでは納得はいたしませぬ」

「…だが」

「良い機会ではございませぬか。偽りのムシュフッシュを蛮族討伐に差し向け、その際に毒を塗った矢で、あの竜を仕留めれば良いのです。強弓の使い手たちに命じましょう。そして国民には、神の竜の死は、蛮族どもの仕業だと触れ回ればよろしい。民たちも納得し、神の怒りも我々には届きませぬでしょう」

「…」

「この方法以外、考えられないかと」

「…分かった」

 ラサルは低く唸った。それしか今はジョシュアを救う方策がないかもしれない。「…メディアの王女との婚礼は、承知した。ムシュフッシュも始末しよう。だが、だが…絶対にジョシュアにだけは指一本触れるな」

「ですが、イシュタルの子以外の命令に竜が従いますかどうか。ここは、あの若造には尊い礎となっていただき…」

「駄目だ!それは、それだけは。そうだ。私が、竜と話をつけよう」

「…分かりました。その部分は王命に従いましょう。賢明なる王よ」

 テペがニヤリと笑って答えた。「それでは使者よ、急ぎメディアへ使いを!」

 ラサルはがっくりと椅子に倒れ込んだ。連日の文献探しの疲れからでは、無論ない。

(許してくれ)

 ラサルは心の中で祈った。

(許してくれ。分かってくれ。お前が生きていることだけが、望みなのだ)

「…これが、あの歌の結末なのか」

 ラサルは小さな声で呟いた。ジョシュアが望むような、幸せな結末とはほど遠い。




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