古代の獣 第十三章
ジョシュアがラサルの私室に現れたのは、既に夜半も過ぎたころだった。
大臣のアダドはジョシュアをなかなか解放しようとはしなかった。彼の目的はジョシュアの冒険譚を拝聴することなどではなく、ジョシュアに気に入ってもらうこと。勿論、彼の背後にあるシャルマラサル王の寵愛と、ムシュフッシュという強大な力が目当てだった。そのために、かつては奴隷と蔑んでいた若者に歯が浮くような最大限の賛辞を惜しみなく注いだのだ。
そうと分かっていて、それでもジョシュアは拒まなかった。「空の王」「竜の勇者」という自らを称える美しく勇ましい言葉は麻薬のように心地よかったのだ。宴の麦酒がいつも以上に気持ちよく喉を滑っていった。
全知の王、愛される為政者と讃えられるラサルに、対等になれたような気が、ジョシュアはしていた。
「ラサル!」
だが、ラサルの部屋に飛び込んだジョシュアを待っていたのは、シュルギだった。
シュルギは哀れむような目をジョシュアに向ける。あえて感情を押し殺し、淡々とラサルの言葉を伝えた。
「シャルマラサル王は、エ・サギラの神殿に籠もられました」
「え…?どういうこと?」
ジョシュアは驚きで目を丸くする。今夜も自分が来ることはラサルも承知していたはずなのに。
「王のお考えは、我々のような下々の者には分かりませぬ。ジョシュア様、シャルマラサル王からご伝言です。ムシュフッシュを良きことのみに使うように、と。決して神の使いに人を殺めさせるようなことはしてはならぬ、と」
「そんな…」
ジョシュアは眉を寄せた。「ラサルは、今日のことを怒ってるんだね。でも、僕は、僕は悪くないのに」
「ジョシュア様、いかに『空の王』とはいえ、王を呼び捨てにするのはお慎みなされ」
シュルギがピシャリと言う。
「…す、すみません。そう、そうだよね」
ジョシュアはうろたえた。酔いが一気に醒めた気がした。「ねえ、シュルギ、ラサル…シャルマラサル様は、もしかしたら、私が思い上がっていると考えて、疎ましく思われて、怒って神殿に行ってしまわれたのですか?」
ジョシュアは縋るようにシュルギを見詰めた。
シュルギは途方に暮れた。老人にとってラサルが大事な主君であると同時に、ジョシュアもまた、長く息子として育ててきた愛しい存在だ。
「ジョシュア」
シュルギは「息子」を諭す口調に戻り、ジョシュアの麦の穂色の髪を撫でた。「シャルマラサル様は怒ってなどおられぬよ。だが、バビロンの王として祈る必要を感じ、神殿に籠もられたのだ。神の使いの手を、血で汚してしまったことに許しを請うのだろう」
「だから、僕は悪くないんだ!あいつが…」
「よしんばそうであっても、殺めて良い理由にはならぬ」
「シャルマラサル様がいるのは、あの高い塔の上の神殿だよね?僕、行ってくる。ラサルは、…シャルマラサル様は、誤解してるんだ」
「それはできぬ。エ・サギラの神殿は王と神官以外は足を踏み入れることはできぬ神聖な場所。シャルマラサル様も、来てはならぬ、と強くおっしゃっていた」
シュルギの毅然とした言葉に、ジョシュアは肩を落とした。唇を尖らせ、じっと自分の足元を見た。途端にシュルギは哀れになった。
「ジョシュア、シャルマラサル様はお前のことを思って…」
「もう、いい!もう、分かりました!」
ジョシュアは幼い子供のような捨て台詞とともにラサルの部屋を飛び出した。
シュルギは大きなため息をついた。大人しく自室に戻って休んでくれれば良いのだが、と思いながら。
だが、ジョシュアが向かったのは、ムシュフッシュの元だった。
さらに強固にされたムシュフッシュの足環と鎖を外し、その背にヒラリと飛び乗った。
夜の闇を、ジョシュアはムシュフッシュの翼に乗って旅していた。星座が宝石の粉のようにさんざめく中、眼前を赤い流れ星が長い尾を引きながら通り過ぎていく。
「夜の空は気に入らぬのか?イシュタルの子よ」
ムシュフッシュが地鳴りに似た低い声で問いかけた。ムシュフッシュは地上では一切人語を話さないが、ジョシュアと二人きりの時だけは饒舌だった。
「いや、星は好きだ」
「それなのに何故、浮かぬ顔をしている?」
「ラサルが会ってくれない」
言った途端に、ジョシュアの目に涙が滲んだ。
「バビロンの王か」
「ラサルは、誤解してるんだ。僕は悪いことなんかしてないのに…」
ムシュフッシュは噴火のように轟く声で笑った。
「何故、バビロニアのごとき小さな国の王の機嫌などを気にする?お前は空の王。私という手駒を自由に使えて、何も恐れるものはないというのに」
「…うん」
「今日は痛快だったな。私はお前のしもべ。お前を守るためならどんなことでもするぞ」
「…うん…。僕はそう思ったけど、それじゃいけなかったのかもしれない。ムシュフッシュ、前から不思議に思ってたんだけど、なぜお前は僕にそこまで従うんだ?お前なら僕などあっという間に一飲みにできるのに」
「イシュタルの子よ、私とお前は同志なのだ。お前が欲しているもの、それは私とひどく似ている」
「似ている?」
「そうだ。お前はバビロンの王の愛を狂おしいほど欲している。それさえあれば何もいらぬ、どんな犠牲もいとわぬと思うほど。私にも欲する愛がある。そのために、お前が必要なのだ」
ジョシュアは首を傾げた。
「どういうこと?」
「今はまだ分からずとも良い。そして、もう一つお前が望んでいることがあるだろう?それも私と似ている。それは我らを馬鹿にし、踏みつけ、蔑んできた者たちを見返すこと。逆にその連中を踏み潰し、焼き尽くすこと。今日のようにな」
「僕はそんなことは望んじゃいない…。今日は…あいつが、あいつがいたから…」
ジョシュアの脳裏に炎に焼かれるグデアの姿が蘇る。
(あれは、天罰だ。あいつは、焼き殺すべき男だったんだ。だからムシュフッシュが手を下すのは正しいんだ。どうしてラサルもシュルギもそれを分かってくれないんだろう)
「イシュタルの子よ、お前は今まであらゆる屈辱に耐え、涙を、そして血も流してきた。そして私を手に入れたのだ。だがおかしいと思わぬか?それほどまでしたのに、なぜお前は尊敬されない?蔑まれる?誰にも愛されない?」
「違う!ラサルは僕を…!」
「バビロンの王は、お前を拒んだのだろう?」
ジョシュアは唇を噛み締めた。その通りだ。胸が、キリキリと痛い。
「イシュタルの子よ、お前はそのような侮辱に耐えられるのか?」
砂漠から吹く風のように、ムシュフッシュが囁いた。「だから、焼け。潰せ。この世を」
「何を言うんだ!」
ジョシュアは叫んだ。「僕は…僕はそんなこと望んじゃいない」
「ジョシュア、ならば教えてやろう。シャルマラサルはお前のものにはならぬ」
「そんなことない!どうしてそんなことを」
ジョシュアは思い切りかぶりを振り、黒く広がる天空を仰いだ。それはラサルの、吸い込まれるような紫がかった黒い瞳に似ていた。「ラサルは…僕を愛してる。僕のために祈ってるって、シュルギは言ってた」
ジョシュアの必死な言葉を、再びムシュフッシュは笑った。
「さて、それはどうかな。イシュタルの子よ」
ムシュフッシュは割れた鐘のような声で笑い、さらに天高くへと飛んでいった。
ムシュフッシュと天空から戻った後は、ジョシュアは自分の部屋に籠もって待った。ひたすら待った。再びラサルが自分の元へ来る日を。
だが、ラサルは神殿に行ったきりで、伝令さえも寄越さない。
じりじりとするジョシュアの気持ちを嘲るように、夜は平然と訪れ、何の知らせもないまま朝が来る。その繰り返しだった。
七日目の朝、ジョシュアは偶然、召使いたちの噂を耳にした。
「シャルマラサル王のご婚礼が決まったらしい」
「なんと、めでたい。メディア王の姫とか」
何を言っているのか、ジョシュアはしばらく分からなかった。理解した途端に、足元が突然崩れていくのを感じた。




