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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第十二章

 ラサルは王宮の窓から空を見上げた。

 ムシュフッシュの翼の間に、ジョシュアの麦の穂色の髪が光って見える。

 きっとジョシュアは緑の瞳を煌かせ、日に焼けた頬をさらに太陽に曝し、口角の上がった唇から歓声をあげていることだろう。

 誰にも真似できぬ、その勇敢さ、その美しさ。

 ラサルにとってジョシュアは何よりも誇らしく、そして愛しかった。

 だが、「娼館にいた」とグデアは言った。

 そのような場所には行ったことはなかったが、どんなことが行われているのかくらいは、ラサルとて知っている。

(そんな場所にジョシュアが、なぜ…)

 当初はあまりのおぞましさに激しく動揺してしまったが、時間が経つにつれ、ラサルは落ち着いてきた。

(ジョシュアとて、何かやむにやまれぬ理由があったはずだ)

 グデアの言い分もおかしかった。おそらく彼こそ、やましい理由があったのだろう。だが、確かめるにもグデアはもうこの世の者ではない。

(殺してしまうとは、何と早計な。相変わらずの、考え無しだ…)

 その欠点さえも愛しい。が、一方で嫉妬が疑念を生んでしまう。ジョシュアは娼館で何をしていたのか。誰かの手で汚されていたのではないか。そう考えると、ラサルはジョシュアを今までと同じように素直に抱けるのか、自分に自信がなかった。

 その時、背後に人の気配を感じ、ラサルは弾かれたように振り返った。だが、外の眩しさに慣れた目には、暗い宮殿の中は見えない。ラサルは目を眇めた。

「シャルマラサル王」

 低い、嗄れた声。テペ神官だった。

「何だ、テペか。驚かすな」

「王たる者、そのように簡単に驚いてはなりませぬ。そう繰り返し申しておるではありませんか」

 テペは怒りを含んだ声で言う。

「すまぬな、修行が足りぬのだ」

「そのようですな。…ああ、ムシュフッシュを見ておられたのですか」

 テペも窓から顔を出した。

 ムシュフッシュはもう既に空の遥か彼方へと小さくなっている。

「…ムシュフッシュのことで何か言いたいのだろう?」

 眉間に皺を寄せたままのテペに、ラサルが問う。先ほどの御前会議でムシュフッシュがグデアを焼き殺した件で、老神官は駆けつけたに違いない。

「左様。古代の獣とは、まこと恐ろしいものにございます。その力はあまりにも強大」

「だが、我々はその大きな力を手にしている。ムシュフッシュがいる限り、我が国も安泰とも言えるだろう」

 テペは首を横に振った。

「いいえ、ムシュフッシュが我らの手にあるというのは、吉祥よりもむしろ災いを呼ぶかと」

「今さら何を言う。お前が命じたのだぞ。竜を捕らえてこい、と。実際、あの竜がいる我が国に攻め込むような愚か者はいまい」

「人間とは愚かなもの。あまりにも強大な力は畏怖とともに猜疑心をも呼び起こします。さらに困ったことは、あのイシュタルの子。ムシュフッシュは彼の命に忠実であり、あやつは調子に乗って、ムシュフッシュをけしかけて将軍を焼き殺したとか。また、竜を飛ばせ過ぎです。周囲の国々はあの黒い翼を見せ付けられ、恐れを募らせております。不安と疑いに苛まれた者たちはやがてこう考えるでしょう。あの竜の炎の舌で焼き殺される前に、バビロンを攻めよ、と」

「テペ、お前の言葉は、まるで我が国にムシュフッシュはいない方が良い、と聞こえるぞ」

「仰せの通り」

 老人は白い眉毛をピクリとも動かさずに言った。「それも追放ではいけません。他国に渡ることこそ危険でございます。密かに始末してしまうしかないかと」

「殺せ、というのか?」

 ラサルは老人を睨みつけた。「あの子は命を賭けて私のために…」

 ラサルは老人に背を向けると、再び大空へと目をやった。もはやムシュフッシュたちは砂丘の彼方へ飛び去り、今や遠くの点にしか見えない。

 テペは王の背後でそっと囁いた。

「もちろん、ムシュフッシュをただ殺すのではありません。王よ、古代の書記が書き残した粘土板によりますと、ムシュフッシュの生き血は永遠の命を与えるとあります。…王よ、永遠ですぞ」

「そのような根も葉もない話を」

「昔人の言い伝えを軽んじてはなりませぬ。ムシュフッシュの首を切り落とし、その生き血を飲む。さすれば王よ、御身は永遠の命を手に入れることができるのですぞ」

「くだらぬ」

 ラサルは鼻で笑った。「あいにく永遠の命なぞ、私は欲しいとは思わぬ。ムシュフッシュと空の王は、これからも我が国の空を自由に駆け巡らせる。これは王命だ」

「王よ」

 なおもテペは食い下がる。

「下がれ。いくらお前の言でも聞き入れることはできぬ」

「いいえ、お聞きください。メディアに放っている『遠目』からの報告にございます。バビロンから逃げられたナボニドス様が、動き始めている由にございます」

「兄上が?」

 ラサルは驚きで振り返った。その目をテペの異様に小さな黒目が、しかと見詰める。

「はい。ナボニドス様は潜伏先のメディアにて臣下と兵を密かに集め、王位簒奪のための蜂起を企てているとのこと。メディア王とも密かに接近を図っているやに」

「待て。メディア王は、我が王位を認めたはずではなかったか?」

「これまではそうでした。が、ムシュフッシュがいる以上、メディア王も我が国に警戒心を抱き始めております。まして、あの竜で永遠の命を得られるとならば、手に入れたいと思うも当然かと。ナボニドス様はこの機に乗じようとされているご様子」

「それは、まずいな。メディアは強大だ。すぐにメディア王に使いを送り、我らに敵意はないことを伝えねば…」

「いいえ、それだけでは信じてもらえますまい。幸い、メディア王には年頃の姫君がおられる。その姫を妃として迎え、友好の象徴とするのです。さすれば、メディアが我が国に攻め込むことはありますまい」

「妃だと?」

 ラサルは忌々しげに眉をひそめた。「断る」

「なりませぬ。ナボニドス様に先を越されたら、何とします?」

「だが、私は結婚など…」

「シャルマラサル王、今回の事態が起きずとも、王はそろそろ奥方を娶らねばなりませぬ。高貴なる血を残すこともまた、王の大事な務め。いつまでもイシュタルの汚れた子に溺れていては、民の心は離れていきますぞ」

「テペ!」

 端正なラサルの顔が怒りで歪み、赤く染まる。「…黙れ」

「黙りませぬ。王宮の、いえ、都中の者が噂しております。バビロンの王は昼も夜も少年の足にすがり、愛欲の限りを尽くしている。男娼あがりの少年は、王の寵愛を良いことに忠実なる将軍を焼き殺すほど驕り高ぶっていると」

「…黙れ」

 ラサルの顔は、今度は青ざめた。腰の刀の柄に手をかけるが、老人は臆さない。

「王よ、よくお考えなさい。ナボニドス様が王位につけなかったのは、バビロンの守り神マルドゥク神を侮辱したため。されど、ナボニドス様が一言、その過ちを悔いたなら、民は愛欲に溺れる貴方様を見限り、ナボニドス様の元に走りましょうぞ」

「…黙れ、と申しておる」

 刀の柄を握るラサルの手が震える。が、テペはさらに語気を強めて言い募る。

「御身から空の覇を騙し取ったイシュタルの汚れた子と悪魔ムシュフッシュをこそ、その刀にかけなされ!この天空も地上も、すべて王お一人の物にございます。不遜なる奴隷から、その覇権を取り返しなされ!そして都の守り神マルドゥク神に捧げるのです!」

「黙れ!黙れ!」

 ラサルは刀の鞘を抜き払うと、テペの喉にピタリとつけた。「…これ以上言うと、お前の首はそこにあるとは限らぬぞ」

「それも良いでしょう」

 テペは臆することなく言い放つと、忠誠の証として両手を胸の前で組んで見せた。そのまま続ける。「王もご存知の通り、メディア軍は勇猛にして果敢。まともに戦ったなら、我が国にどれほどの損害が出るか分かりませぬ。まして昨年の旱魃で民は疲弊しております。今年も砂嵐が来るのがいつもより早く、十分な収穫は期待できませぬ。そんな中で戦ってよいかどうか。王よ、よくよくお考えくださいませ」

 ラサルはしばらく無言でテペと睨みあっていた。

 が、大きなため息をつくと、刀を再び鞘へ納めた。

「…下がれ」

「御意」

 テペは頭を深々と下げた。「王ご自身が一番ご存知のはず。イシュタルの汚れた子とムシュフッシュを、このままにしておいて良いかどうか…」

「…お前が消えぬのなら、私が去る」

 ラサルはくるりと踵を返し、老神官を置いて私室へと向かった。だが、刀を持つ手がしきりに震えていた。

 テペに言われるまでもなく、ラサルには分かっていた。ジョシュアをこのままにしておいて良いのかどうかなど。

 あまりにもジョシュアは美しく、無謀で、ムシュフッシュは強いのだ。

 ラサルはあの、初めてジョシュアを抱いた夜のことを思い出していた。

 窓から見た赤い流れ星と、神獣と呼ぶにはあまりにも禍々しいムシュフッシュの影。

 それは、災いの予感としか言いようがないものだった。


 「ジョシュアはまだ来ぬのか?」

 夕闇が迫る中、寝所を整えていた老いた忠臣シュルギにラサルは尋ねた。

「ジョシュアは、大臣のアダドと会食をしているやに聞いております。竜を捕らえた冒険譚をどうしても聞きたいと大臣がせがむので、さすがに断り切れなかったようでございます」

「…そうか。あのようなことがあったから、誰もがジョシュアを避けるかと思っていたが」

「グデア将軍のことですね」

 シュルギは眉を寄せた。「だからこそ、ジョシュアにすり寄ろうとする輩が出てくるのでしょう。今や竜はあの子次第だと聞きます」

「そう、だな」

 ラサルは苦々しげに頷いた。「今回のこと、お前はどう思う?」

「…はい。軍功あまりあるグデア将軍とはいえ、私は、ジョシュアにはよほどのことがあったのではないかと思っております。あの子は曲がったことだけはできない子ですから」

「そうだな」

「ですが、その真っ直ぐさが恐ろしくもございます。何よりも、人の子が古代の神獣を自分の意のままにするというのは、あまりにも身に過ぎる驕りではないか、と。何か恐ろしい神罰があの子に下らなければ良いが、とも思います。あの子は昔から、向こう見ずなところがありましたから」

 シュルギの言葉を聞きながら。ラサルは冷たい汗が流れるのを感じた。

(ジョシュアに、神罰が?いや、誰もそれは否定できない。自らの命令で神の獣の手を血で汚したのだから)

「…シュルギ、いや、我らの『父』よ、どうしたら、いいと思う?」

「…あの子は、この都に来るべきではありませんでした」

「だが、今さらあの谷に帰すわけにもいくまい。シュルギ、お前だけに言おう。テペがジョシュアの命を狙っている」

「…何と!ですが、ジョシュアを匿う場所はございませぬ。もうあの谷をテペ神官は知っております」

 ラサルは思い切って口を開いた。

「…ジョシュアが来たら、伝えてくれ。私は神殿に籠もる。ジョシュアは来てはならぬ、と」

「え?これから、ですか?」

「テペを見張るためだ。だが、それはジョシュアに言うな」

「ですが、シャルマラサル様…」

「頼んだぞ。そしてジョシュアに強く念押ししてくれ。以後、決してムシュフッシュに人を殺めさせてはならぬ、と。ムシュフッシュの力は、良きことにのみ使わせるのだ。そして、シュルギ、あの子を守ってやってくれ。私利私欲に目の眩んだ者たちは近づけるな」

「わ、分かりました。ですが、シャルマラサル様」

 ラサルはおろおろとするシュルギを尻目に、自室を出た。慌ててシュルギがマントを持って追いかける。

「ですが、あの子をこの王宮で一人きりにするのですか?あの子は見捨てられたと思うでしょう。もちろん私も言葉を尽くしますが、あの子はこうと決めたら、何も耳を貸さない…」

 ラサルはその問いに答えなかった。だが、搾り出すように言った。

「ここにいれば、お前と、そしてムシュフッシュがあの子を守ってくれる。頼んだぞ。誰ぞ、馬をもて!」

 ラサルはシュルギを置いて早足で王宮の廊下を歩み去った。

(ジョシュアの来るのが遅れて良かった)

 ラサルは心の底から思った。

 あの緑の瞳を見ると、自分の決意は簡単に揺らいでしまう。あの体を再び抱き締めたいと思ってしまう。このまま夜が明けないことを願ってしまう。

 だが、ジョシュアを守るためには、それでは駄目なのだ。


 エ・サギラ神殿は、九十メートル以上の高さを誇る天空の神殿だ。

 その最上部に入ることが許されているのは、王と神官、巫女など僅かな人間だけだ。その神殿にラサルは一人、足を踏み入れた。

 突然の王の訪問にも神官たちは慌てない。神に祈り、その力を乞うのも、王の大事な務めだからだ。 

「テペを呼べ」

 王の言葉に、若い神官は恭しく頭を垂れて、暗闇へと消えた。

 一人残されたラサルは神殿内を改めて見回した。

 神殿の広間はイシュタル門同様、青く彩色された煉瓦で覆われ、中央には都の守り神マルドゥク神の使い、聖なる獣の金の像が備えられている。その前には白いカミツレ草、新しい黄金色の麦酒と焼きたてのパンが供えられ、香油の涼やかな香りが立ち込めていた。

 ラサルの不安は、神殿のおごそかな空気の中にあっても、和らぐどころかますます膨らんでいった。

 神殿の広間にも、砂漠からの風が吹き込んでくる。砂嵐の季節が近付いただけではない。風が運ぶのは、ざらざらとした砂と乾いた熱い空気。そして、その中に潜む、禍々しい何か。それは、グデアが焼かれた時の肉が焦げる匂いにも似ていた。

「随分と突然のお越しですな、シャルマラサル王」

 テペが不機嫌そうに近付いてきた。

「マルドゥク神に問いたいと思い立ってな。ムシュフッシュのことを」

「おお、私の考えをお聞き入れくださいますか」

 テペの顔がわが意を得たり、と得意げに変わる。

「まだ何も決めておらぬ。だからこそ、あの竜のことを知りたい。お前は随分と調べたと思う。教えてはくれぬか?なぜ、あれほどの強大な力を持つ獣が、ジョシュアの命令に従っているのか。その真の意図は何なのか。救世主なのか、危険な敵なのか」

「喜んで」

 テペは満面の笑顔になった。若き王は無力な自分自身を思い知り、大神官に従うことにしたのだろうと解釈してのことだった。「それではまず、マルドゥク神の使いの前で祈りを」

 ラサルは黄金の像の前に跪き、両の手を組んだ。

 頭を垂れ、瞳を閉じてひたすら祈り続けた。この、災いの予感が、ジョシュアに追いつかぬように。ジョシュアの驕りを神が見逃してくれるように。

(そのために、私ができることはすべて引き受けよう。どんな罪も、罰も)


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