古代の獣 第十一章
イシュタル門よりも青い空を、ジョシュアがムシュフッシュにまたがり、自由に飛んでいる。
砂漠を駆けてくる熱風にも臆することなく、それどころか風を翼に従えて、なおも高く飛び上がる。
地上では民が歓声を上げて、その様を見上げていた。
夜には月が出るように、ジョシュアは当然のようにラサルの寝所にいた。
王と同じ麦酒を飲み、一つのナツメヤシを二人で口にした。王の歌う、切ない恋歌はすべてジョシュアに捧げられた。
「ラサル、初めて会った時のこと、覚えてる?」
恋人の腕の中で、ジョシュアは甘えるように問う。
「ああ、お前はイシュタル門にいた。まだ幼なかったが、緑の瞳は何か不思議な力に溢れ、真っ直ぐに私を見詰めていた」
「僕も覚えてる。驚いたんだ。何てきらきらした人なんだろうって。満天の星がそのまま形になったのかと思った」
「私はお前をイシュタル神の化身かと思った。すべてを失い、危険な世界へと飛び立たねばならぬ私に、イシュタル神が憐れんでくれたのだと」
ラサルは目を細めて、ジョシュアの波打つ髪を撫でた。麦の穂色の髪は子供の頃と変わらない。だが、愛を覚えたジョシュアのまなざしは潤み、熱いものに変わっていた。「今なら分かる。ジョシュア、本当にお前はイシュタルの化身だったのだと」
ジョシュアの日に灼けた細く長い腕が、ラサルの頭を捕らえ、柔らかな唇が口付けを求める。
「…ラサル、ラサル」
呪文のように繰り返すジョシュアの声。その声の大部分は、ラサルの唇に甘く飲み込まれた。
平凡な恋人たちならば、それはほほ笑ましい睦言だろう。だが、ラサルは王であった。
二人の睦言は耳をそばだてて聞く側近たちから一言残らず洩れていた。その会話に、淫らな笑いを浮かべる者もいれば、眉を寄せ、王の権威が揺らぐのを嘆く者もいた。
「シャルマラサル王は、奴隷の奴隷に成り果てた」
「イシュタルは愛の守護神。その秘儀には、王とても跪く」
「そもそもシャルマラサル様は、正統な王と言えるかどうか」
そんな声が、王宮内でさわさわと囁かれ始めた。
けれど、若い恋人たちの耳には何も入らない。ただお互いを貪ることに夢中になって。
その日、王宮の広間に軍の重鎮たちが集められていた。
定例のシャルマラサル王の御前会議だった。並み居る重臣たち数十人が席を連ねる中、隣国の情勢について報告が行われた。
ラサルはその場に、久しぶりに見る顔があるのに気付いた。確かグデアとかいう名の将軍だったはずだ。
屈強な岩のような体をしているが、一カ月ほど前から「不慮の事故」のために出仕していなかった。
「久しいな、グデア。もう体は良いのか?」
ラサルが声を掛けると、グデアは跪き、深く頭を下げた。
「ははっ。恐れ入ります。私めの不注意で怪我をしてしまい、しばらく王のお役に立てず、まったくもって恥ずかしい限りで…」
なるほど、グデアは右腕に包帯を巻き、首から吊っている。利き腕のはずだ。
「おぬしほどの歴戦の勇者にも、そのようなことがあるのだな。養生に努めるが良い」
「はっ!もったいないお言葉、痛み入ります」
一通りの報告が終わり、麦酒が配られた時、ラサルは思い切って口を開いた。
「皆の者、『空の王』ジョシュアをこの軍議に呼ぼうと思うのだが」
「『空の王』をですか?」
驚いて傍らの大臣が問い、眉を寄せた。何の身分もないジョシュアを、貴族たちが集まるこの御前会議に呼ぼうとは。重臣たちの間に当惑がざわざわと広がる。
が、ラサルは意を決して言葉を継いだ。
「左様。ジョシュアには空からこの都を守ってもらおうと思っておる」
先ほどの報告によると、他国が攻め入ることは今のところなさそうだが、それもジョシュアがムシュフッシュを御してこの都にいるからこそだ。ジョシュアの存在を重臣たちに認めさせる良い機会だとラサルは踏んだ。
「異存はないな。誰ぞ、ジョシュアを呼んで参れ」
しばし後、ジョシュアが現れた。ラサルが与えた黄金の鎧に身を固め、緋色のマントを巻き、気後れすることもなく堂々とラサルに向かって歩み寄ってくる。さっとラサルの前に跪くその凛々しい姿は少年神のようだ。
誰も抗えないほどに美しい勇姿。ジョシュアのことを良く思ってはいない重臣たちの間からも、ほうっと息を呑む声がした。
「よくぞ参った。空の王ジョシュアよ」
ラサルが声をかけたその時だった。
ガタン、と大きな音が部屋に響いた。誰かが床に杯を落としたのだ。一斉に視線がそちらに向く。
落としたのは、グデアだった。大男が真っ赤になって震えている。
声を掛けようとしたラサルは、さらにギョッとした。
ジョシュアもまた、張り裂けそうなほど目を見開いてグデアを見詰めている。
(あの男だ)
ジョシュアの脳裏に、あの娼館での光景が蘇る。自分を組み敷き、虫けらのように扱ったあの大男。あの卑劣な、残虐な男。腕を切り落としてやった、あの…。
(まだ生きていたのか)
「ジョシュア、どうし…」
ラサルがジョシュアの肩に手を掛けた瞬間、グデアは立ち上がった。
「シャルマラサル王!」
グデアが割れるような大声で叫ぶ。慌てて、周囲の者がなだめた。
「グ、グデア殿、王の御前ですぞ。落ち着かれませ…」
しかし、グデアは取り合わない。
「王!なぜ、そのような下賎な者が、この場にいるのですか!」
「グデア!」
ラサルは目を吊り上げて一喝した。「無礼ぞ」
「ですが、王!その者は奴隷ですぞ!このような場にはふさわしからぬ…」
「お前は知らぬかもしれぬが、ジョシュアは今や空の王。そのような口をたたくことは、この私が許さぬ」
ラサルはジョシュアの肩に置いた手に力を込めた。
だがグデアは引き下がらない。
「王!王は騙されておいでです!その者が、どれほど汚らわしく、どれほど残酷か…!」
ジョシュアの目が、カッと怒りで大きく見開かれた。
「将軍!」
ジョシュアの声が低く響いた。ジョシュアはさっと立ち上がると、マントを翻してグデアに対峙し、彼を睨みつけた。一分も怯むことなく。「確か将軍…、と名乗っていたな、お前は。何か文句があるようだが、私がシャルマラサル王の隣にいることに不満があるのならば、剣で私に挑むが良い。いつでも受けて立とう。私はお前なぞには負けぬ!」
「何だと、この小童が!」
グデアが忌々しげに右腕を押さえた。利き腕がない今は、勇猛な彼とてもジョシュアにかなうべくもない。
「やめぬか、二人とも!」
ラサルが仲裁に入った。仕方なくジョシュアはグデアから視線を外した。が、グデアは納まってはいなかった。
「王よ、こやつは汚らわしい男娼ですぞ!」
グデアの声が席上に響いた。「私は知っております!この男は娼館にいた。金のために何でもする性悪で卑劣な…」
「違う!卑劣なのはお前の方だ!」
ジョシュアも叫ぶ。「将軍の名を盾に、好き放題のことをやってきやがったくせに!ラサル、こいつは…」
だが振り返ったジョシュアはギョッとした。ラサルの目が凍り付いている。
「…娼館だと?ジョシュア、お前はそんなところにいたのか」
「…ラサル、僕は…」
「いたのだな?」
「でも、僕は…」
「シャルマラサル王。真実をお話ししましょう」
グデアがしゃしゃり出る。「私は風紀取り締まりのためにとある娼館に立ち寄りました。そんな私にこの者は突然切りかかり、なんとこの腕を切り落としたのでございます!」
おおっ、というざわめきが起きる。
「違う!こいつは取り締まりなんかじゃない!汚らわしいことをしようと…」
「このグデア、腐っても将軍。王の都バビロンの治安を守る者。このような法を乱す者は、即刻バビロンから追放すべきと存じます」
「嘘だ!」
ジョシュアは抵抗した。だが、その場にいる者たちの視線は針のように冷たく、鋭くなっていた。
ざわざわと彼らは言い始める。
「グデア殿がそこまで言うのなら…」
「娼館にいたのなら、王を篭絡できたのも当然の所業」と。
(助けて、ラサル)
ジョシュアはラサルをすがる思いで見た。
ラサルもまた硬直したままジョシュアを見ている。だが、その目には今までの愛情とは違う、疑いと当惑が交差していた。
(違うのに!あいつが悪いのに!どうしたら、どうしたら、ラサルは分かってくれる?)
「王よ、その者を追放してくだされ!」
グデアの声にジョシュアは顔を上げた。
(消えるべきなのは、僕じゃない!)
ジョシュアは大きく唾を飲み込むと、力の限りに叫んだ。
「ムーシュフーッシュ!!」
その声が消えないうちに、周囲が一瞬暗闇に変わった。
巨大な翼を広げ、ムシュフッシュが露台に現れたのだ。黄金の翼の裏は闇のような黒。足に繋がれていたはずの鎖は簡単に引きちぎられ、残骸が足元に転がっている。真っ赤な目が王の御前に集まった人々を冷酷に見下ろす。
「ムシュフッシュ…」
ジョシュアは安堵のため息をついた。今、この都で味方となるのは、皮肉にも自分が捕らえた竜しかいないのだ。
「ムシュフッシュ、この中に過った言葉で王を欺き、私を貶めようとした人間がいる。神の獣のお前ならば分かるだろう。神の鉄槌を!」
「何だと!」
グデアが呻いた。「何を申すか、この奴隷が!」
ムシュフッシュの赤い目がひた、とグデアを捕らえた。そして赤い口を開ける。
「まさか火を…」
グデアは真っ青になって動けなくなった。周囲の重臣たちは叫び声を上げ、我先に出口へと向かった。
「やめろ、ジョシュア!」
ラサルが叫んだ。
が、ジョシュアはやめない。それどころか、こう叫んだ。
「ムシュフッシュ!神の鉄槌を!」
その声と同時に、ムシュフッシュの口から炎が噴き出し、真っ直ぐにグデアを襲った。炎を浴びたグデアは引き裂くような叫び声を発しながら、そのまま火の柱となり、呆気なく炭へと変わった。
「グデア殿が…」
「な、何と恐ろしい…」
動けなくなっていた重臣たちが、這いながら外へと逃げ出した。が、ムシュフッシュは彼らを追いはしなかった。
広間に残ったのは、ムシュフッシュとジョシュア、ラサルのみだった。
「ラサル、僕は…本当のことを知ってほしくて…」
ジョシュアはラサルの元に駆け寄った。跪き、ラサルの足に接吻しながら、必死で哀願する。
「仕方なかったんだ。僕は何も恥ずかしいことはしてないんだ。本当に…」
だがラサルは強張った表情のまま何も言わない。ジョシュアとムシュフッシュを見、そして黒い柱となったグデアを見、大きなため息をついた。
「ジョシュア、しばらく私を一人にしてくれ」




