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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第十章

 王宮の中はひんやりと静まり返っていた。

 ところどころに灯された篝火のかすかな爆ぜる音だけが、空気を揺らす。

 シュルギはジョシュアの手を引きながら、その冷たい空間の中を足早に進んでいった。迷路のような廊下を幾つも渡り、数多くの部屋を通り過ぎた後、壮麗な扉の前に着いた。

 寝ずの番の兵士が無言で剣を構えるが、シュルギと気付くと、すぐに剣を収め、頭を垂れた。

 シュルギはご苦労、と小声で言って会釈し、扉を開けた。その中へとジョシュアをそっと押し入れる。

 一瞬、ジョシュアはあの懐かしい家に帰ってきたのかと思った。

 カミツレ草の香りがしたから。そして、ゆらゆらと揺れる灯火の下、あの小さな白い花が咲き乱れているのが見えた。

 が、目が慣れてくるに従い、ジョシュアは気付いた。それはカミツレ草を模したタイルが床に敷き詰められているだけで、あの家ではない。部屋の中央にあるのは、翼を広げたムシュフッシュの巨大な彫像だ。

 けれど、この香りは。懐かしい、この香りは。

 その時、竪琴の音がした。星の煌きのような、夜の空気に染み入る音。胸をかきむしる切ない弦の音色。

 ジョシュアは何度も瞬きをした。言葉が出ない。

 部屋の奥の長椅子に腰を掛け、船の帆を思わせる竪琴を膝に置き、爪弾いている影。ラサル、その人だった。

「ラサル…!」

 叫びかけたジョシュアの口を、シュルギが指をあてて制した。

「王の御前です。下々の者が気安く話しかけてはなりません」

「でも、シュルギ…」

 ラサルは人の気配に気付くと、竪琴を脇に置いた。

「シュルギか?」

「ジョシュアを連れて参りました。シャルマラサル王」

 シュルギがうやうやしく頭を垂れる。

 ラサルはジョシュアたちを手招き、長椅子の足元にある絨毯の上に座るように手で示した。シュルギが跪き、慌ててジョシュアも続く。

「ジョシュア、今回のこと、まことに大儀であった。少しは疲れはとれたか?」

 ラサルは王らしく堂々と問う。ジョシュアもまた、緊張気味に畏まって答えた。

「は、はい。大丈夫です。ご心配には及びませぬ」

「ムシュフッシュはどうした?」

「王宮の東棟の屋上で休んでおります」

「竜の背に乗って戻ってきたのだったな。空の旅はどうであった?」

「はい。素晴らしいものでした。空はどこまでも青く、青く、青でした。まるで底の知れぬ水の中を泳ぐようでした」

「美しかったか?」

「はい、とても」

「イシュタル門よりも青く美しいのか?」

「はい。その何倍も。何十倍、何百倍も。ラサル…様、明日、一緒に飛びましょう。ぜひあなた様にあの青をお見せしたい」

「こ、これ、ジョシュア」

 シュルギが慌てて口を挟んだ。「王に対して馴れ馴れし過ぎますよ」

 ラサルは困ったように笑った。

「よい、シュルギ。ジョシュアは竜を捕らえた勇者にして空の王。その程度のことは許されようぞ。イシュタルの子ジョシュアよ。どのようにして竜を捕らえたのだ?」

「はい。それは…」

 口を開きながら、ジョシュアはだんだん悲しくなってきた。

 ラサルは王であろうとする。せっかく会えたのに。周りにはシュルギしかいないのに。以前の兄の姿には戻ろうとはしない。やはりそれは、自分が取るに足らない虫けらに過ぎないからだろうか。竜を捕らえてさえも、それは変わらないのだろうか。

 あれほどに会いたかったラサルなのに、会えばその距離を思い知らされた。

 ジョシュアは弱々しい声で続けた。

「…なぜ、竜が私の前に膝を折ったのか、今もよく分かりません。けれど、ラサル様、あなたの…あなた様の髪が私を守ってくれました。時には命綱となり、時には鎧となり、何度も、何度も、何度も、私の命を救ってくれたのです」

「私の髪がか?」

「はい」

「…そうか。そのようなことがあったか。あれが少しは役に立ったのか…」

 ラサルが安堵の声を洩らした。

「さすが神々の力が宿る王の髪」

 シュルギが感心したように口を挟んだ。「ジョシュア、それは当然のことです。王の髪は王冠も同じなのですから。だからこそムシュフッシュも従ったのでしょう。して、その大切な髪はいずこに?」

 ジョシュアは深く頭を下げた。

「申し訳ありません。本来ならば今、この場でラサル様にお返ししなければいけませんのに、髪はムシュフッシュに焼かれてしまいました」

「何と!」

 シュルギが叫ぶ。

「申し訳ありません!」

 ジョシュアが頭をさらに低くした。

「焼かれた…とは、何も残ってはいないのか?」

 シュルギが憮然として言う。

「申し訳ありません、ムシュフッシュの吐き出した炎で、もう何も…」

「その髪さえあれば、シャルマラサル様が正統の王である証になったものを…」

「よいではないか、シュルギ」

 残念そうに呟くシュルギを、ラサルが制した。「ジョシュアが竜を連れて戻ってきたのだ。あの髪も本望であろう。ところで、ジョシュア、竜狩りに行った他の者たちはどうしたのだ?」

 ジョシュアは唇を噛んだ。

「…砂漠に足を踏み入れてから、すぐに…私の馬は駄目になりました。他の者たちは私を置いて、皆我先に竜を探しに行ってしまいました」

 馬、の一言に、ラサルの体がピクリと揺れた。

「…そうか、馬はすぐに駄目になったのか。そこからは徒歩で?」

「はい」

「だが竜の討伐に出た者たちは、誰一人戻ってはおらぬぞ」

 ジョシュアは感情を込めずに答えた。

「私を置いて先に行っ者たちは皆、ムシュフッシュに焼かれて炭の柱になりました」

「炭の柱だと?」

「はい。皮肉にも私は命拾いしたわけです。その後は何日も何日も一人で歩き続けました。食料も水も私には与えられませんでした。私は馬の死肉を食らいながら…」

 その時、ラサルの膝から竪琴が滑り落ちた。ガラガラとさまざまな響きの音が鳴る。

「シャルマラサル王、ご気分でも?」

 シュルギが駆け寄るが、ラサルは手で制した。

「大事ない。少しめまいがしただけだ」

「これ、ジョシュア。お前が死肉などと言うから…」

「良いのだ、シュルギ。それより、すまぬがおぬしは席を外してくれぬか。ジョシュアと二人で話がしたい」

「ですが…」

「頼む。先に休んでおれ」

 ラサルは搾り出すように忠臣に言った。シュルギは何か言いたげに眉をひそめて王を見たが、結局無言で頭を下げ、部屋を出ていった。

 ゆっくりと扉が閉まる音がした。

 重苦しい沈黙が部屋に立ち込める。

 先に口を開いたのは、ラサルだった。

「私の髪は…本当に役に立ったのか?」

「はい!私の命を何度救ってくれたことか。それをあなた様にお返ししたかったのに…。そうしたら、ラサル様を悪く言う人など、いなくなるのに…」

 ラサルは眉を寄せて苦笑した。

「よいのだ、ジョシュア。私のような卑怯者に王を名乗る資格はない」

「何をおっしゃるのです?」

「ジョシュア、正直に言おう。私は知っていた。テペがお前に何をしたのか」

「知っていた…?」

 ラサルは苦しげに頷く。

「あんな瀕死の馬では、砂漠越えはできぬ。それを承知で、テペはお前にあの馬をあてがった。私は…私はそれを知っていながら、お前を助けに行かなかった」

 ジョシュアの心臓が一瞬引き攣る。

「知っていた…。ラサル様は知っていた…」

「…許してくれ。私には、なすべきことをする勇気がなかった」

「ラサル様…」

「様なぞ、つけるな。こんな卑怯者に!」

 吐き捨てるように言うと、ラサルはジョシュアの両手を握った。過酷な旅を終えたばかりの少年の体は棒のようで、両手首はゴツゴツとした骨だけになっている。「…こんなに痩せて、傷だらけになって。私はお前に結局何もしてやれなかった。ただ待っていただけだ」

「違う…。違うよ!ラサルはいつも僕を守ってくれた」

 ジョシュアはラサルの手を握り返した。「いつでも、どんな時でも、ラサルの気配を感じてた。だから、僕は絶対に死なない。絶対に勝つ。そう信じてた。そして、その通りだったんだ!」

 ラサルの目から涙が溢れた。

「こんな私を許してくれるなら、再び兄と慕ってくれるか?」

「勿論!」

 ジョシュアはラサルの涙に触れた。「だから、悲しまないで。ラサル。僕は今、ここにいるんだから」

 実際、ジョシュアは微塵も怒っていなかった。むしろ喜んでいた。今、ラサルは虚勢で作り上げた王の仮面を投げ捨て、優しいかつての「兄」に戻っていたのだから。ジョシュアもいつの間にか、昔の口調になっていた。ラサルもまた、それを咎めるどころか、さらに深くジョシュアの前に頭を垂れた。

「ジョシュア。お前は私を罰していい。恨んでもいいのだ」

「何を言ってるの、ラサル」

 ジョシュアは笑った。「もういいんだ。僕は勝ったんだから。テペにも、竜にも、運命にも」

 だが、ラサルは眉を寄せて呻いた。

「いや、私が王者にふさわしく、もっと強く勇気があったなら、そもそもお前を危険な竜狩りになぞ行かせはしなかった」

「違うよ、ラサル」

 ジョシュアはきっぱりと言った。「この使命は、僕が選んだんだ。僕は竜が必要だった。僕が力を得るために」

「…力?」

 ラサルは眉を寄せた。彼が知る、純朴なジョシュアには似つかわしくない言葉だった。

「うん。僕は力が欲しかった。すべてを従える力が。あのムシュフッシュがいる以上、もう誰も僕に逆らえない。だから、テペが何を言おうと、何をしようと、都や王宮の掟がどうであろうと、僕はラサルの側にいられる。どんな力も僕を縛れない。貶めることなんてできない。ラサルの隣にいることを、誰も咎められない。あの竜がいる限り」

 ジョシュアの緑の目が、炎のように燃え上がる。ラサルは気圧されたように呻いた。

「…お前は、私と一緒にいるためだけに、危険を冒して竜を捕らえに行ったというのか?」

「はい」

 迷いのない答えを、即座にジョシュアは返した。「だって僕は奴隷だもの。そうでもしなければ、ラサルの側にもいられない」

「おのれのことを、奴隷などと言うな」

「でも、あなたが言ったんだ!ラサル!」

 ジョシュアは強い光の籠もる緑の瞳でラサルを睨み返す。「奴隷!奴隷!奴隷!皆が言う。あなただって言ったじゃないか。それが僕なんだ!馬鹿にされ、虫けらみたいに踏みつけられ、弄ばれるだけの!」

 ジョシュアの鼻の奥に、娼館での吐き気がしそうな血の匂いが蘇る。「あの…あの、悔しさに比べたら、竜を捕らえることなんか怖くなかった。砂漠で一人きりになっても、ムシュフッシュの燃える目で睨まれても、全然怖くなかった。ラサル!それであなたを得られるのなら!」

 ジョシュアは何かに憑かれたように一気にまくし立てた。

 ラサルはそんなジョシュアをまじまじと見詰めた。長い年月を一緒に過ごしたのに、ラサルも知らない、ジョシュアだった。離れていた時間は決して長くはないはずなのに、その間に一体どれほどの苦難がこの少年を襲ったのか。

「ジョシュア…、お前が竜を捕らえることと引き換えに、望んでいたものとは、何だったのだ?」

「ラサル、あなただ。あなただけだ。あなたの側にいたい。それ以外に僕は、欲しいものなんて何一つない!」

「何という、何という馬鹿な子なのだ、お前は…」

 ラサルはジョシュアを強く抱き締めた。頭の奥が痺れるような思いが満ちてくる。これほど真っ直ぐな思いに抗える者など、この世にはいまいと感じながら。「ジョシュア、お前は成し遂げたのだ。王との約束通り、望むものを受け取るがいい。…私はお前のものだ」

 ラサルは顔を上げると、王にするかのように恭しくジョシュアの掌に口付けた。

「ラサル…」

「ジョシュア、お前の望み通り、私は未来永劫、お前のものだ」

「いいの?僕は、あなたの側にいていいの?」

 ジョシュアの緑の瞳が、涙で揺らぐ。

「勿論だ。いや、私がお前の側にいさせてくれと頼んでいるのだ」

「ならラサル、僕は、あなたを…愛してもいいの?」

 ラサルは苦笑すると、ジョシュアの麦の穂色の髪を撫でた。

「言ったはずだ。私のすべてはお前のものだ」

 ジョシュアは弾かれたようにラサルに抱きついた。

 どちらからともなく、そっと唇が重なる。互いの手は誓いの形に重ねられ、やがて、きつく指が組まれる。同時に、唇は互いの体温を感じて柔らかくとろけていく。

 ジョシュアの唇から吐息が漏れた。

「ラサル、本当にラサルなんだよね」

「ジョシュア、お前は知らぬだろう。初めて会った時からずっと、お前をどんな気持ちで見てきたか」

 ラサルの言葉に、ジョシュアの長い睫が満足げに揺れた。まるで大河のほとりで揺れる、葦のように。

「ラサルこそ、僕の気持ちを知らなかった」

「…いや、私は知っていた」

「なら、僕も知っていた。あなた自身が気付く前から」

 ジョシュアはラサルと顔を見合わせる。どちらからともなく悪戯っぽく笑う。

 ラサルは少年のぽってりとした薄桃色の唇を音を立てて吸った。互いの歯がカチンとぶつかると、その間からラサルの舌が伸びてくる。ジョシュアは戸惑いながらも、その動きに応え、舌を熱く絡めた。

 二人は、そのまま床に倒れこんだ。カミツレ草を模した、ひんやりとしたタイルの上に。

「花の香りがする」

 ラサルが呟いた。「お前の、匂いだ」

「違うよ、ラサルの匂いだ」

 ジョシュアはラサルの首を抱き寄せた。重なり合う体の同じ部分が、熱く高まっているのを二人は感じた。もう隠しようもない。

 二人は、互いの帯に手を掛け、もどかしく解いていった。

 ラサルの白く長い指がジョシュアの衣服を一枚ずつ剥ぎ取り、ジョシュアもラサルの壮麗な衣を不器用に剥ぎ取り、床へ滑らせる。灯火のゆらゆらと揺れる中、浮かび上がる互いの裸身を、二人は何も言わず見詰めていた。

 ラサルは再びゆっくりとジョシュアの唇に自分の唇を重ねた。

 ジョシュアは目を閉じた。ラサルの指が触れるたびに、そこが震えるのを感じる。ラサルの熱が、体の奥に染み込んでいく。

 ふと、不安になってジョシュアは目を開けた。

「ラサル…」

「何だ?」

「夢じゃないんだよね?」

 ジョシュアはラサルをすがるように見た。もしかしたら、これは砂漠の魔神が見せる幻なのかもしれない。もしかしたら、あのバビロンの異臭漂う腐った路地で見ている夢なのかもしれない。今、ラサルが自分を抱き締めている事実が、ジョシュアには俄かに信じられなかった。

 ラサルは穏やかな笑顔を見せると、麦の穂の色をしたジョシュアの髪の生え際に口付けた。

「それはそっくり私が返そう。夢じゃないのだな?本当に、ここにいるのは私のジョシュアなのだな?」

「当たり前じゃないか!」

「それなら、夢ではないな」

 コツンとラサルはジョシュアの額に額をぶつけた。ジョシュアが笑うのを見ると、再びその唇に口付ける。瞼に、耳元に。振り注ぐ花びらのように。何度も、何度も。

 ジョシュアは体の奥が熱く疼き始めるのを感じた。未知の熱風は、身体の中でどんどん膨れ上がっていく。

 だが、その瞬間、ジョシュアの体は硬直した。

 一陣の暴風のように蘇る悪夢。乱暴に自分を押さえつける男の太い腕。そして、あの、血の匂い。

 ジョシュアの唇から、一瞬悲鳴が起きる。

「ジョシュア、どうした?」

 驚いたラサルの声に、ジョシュアは我に返った。

「ラサル…」

 心配そうにラサルが見下ろしている。ジョシュアが恐れていると誤解したラサルはジョシュアの上体を起こさせ、その頬にそっと触れた。

「ジョシュア、私が悪かった。つい、このような獣のようなことを…」

「違う!違うんだ!」

 ジョシュアは慌ててラサルに抱きついた。「ラサルのせいじゃない!」

「ジョシュア、嫌なら、そう言っていいのだよ」

 ラサルは、「兄」の顔になってジョシュアの髪を撫でた。

「違う、違う、違うんだ!僕は平気だってば」

 ジョシュアはかぶりを振った。「…幻だ。砂漠の悪夢を見ただけなんだ」

「ジョシュア、やはりお前は疲れているのだ。今日はこのまま部屋で休むがいい」

「いやだ、やめないで!」

 ジョシュアは子供のようにラサルにすがりついた。そうだ。ラサルなら消してくれる。あの、思い出したくもない悪夢を。

「…いいのか?」

「お願いだから、続けて。頼むから」

「…分かった」

 戸惑いながらも、ラサルは再びジョシュアに口付けた。ラサルの黒い髪が乱れ、汗が滴り落ちる。

「…ラサル、ラサル…」

 ジョシュアは唇を噛み締め、ラサルの肩に指を食い込ませた。体の奥が開かれていく痛み。それは確かに、耐え切れぬほどの痛みだった。けれど、それで消されていくのだ。あの残忍な腕の記憶も、血の匂いも。

 痛みは、やがて別なものに姿を変えていく。狂おしいほどの熱い何か。

 もう、恐いものなどない。そう、ジョシュアは思った。

 自分の体が、ラサルとつながっている。甘く、どこか獣じみた匂いは、ラサルのものなのか、それとも自分のものなのか。

 灯火はいつのまにか消え、青白い月が覗く中、二人は獣のような叫び声を同時に上げ、そのまま気を失った。


 しばしの後、ジョシュアが目覚めると、微かな歌声が聞こえた。

 いつのまにかジョシュアは寝台に運ばれ、傍らでラサルが彼の髪を撫でながら、口ずさんでいた。胸が苦しくなるほどの切ない旋律を。

「…『イシュタルの冥界下り』だね」

 ジョシュアが言うと、ラサルが穏やかに微笑みながら頷いた。

「まだ、お前に捧げる最後の歌は見付からぬがな」

「ラサル、お願いがあるんだ」

 ジョシュアはラサルの裸の胸に頬を寄せた。

「お前が望むことなら、何なりと」

「ずっとずっと、僕の側で歌っていて。『冥界下り』の最後は、僕だけのために歌って」

「そんなことでいいのか?」

 ラサルは恋人の髪に口付けた。「言っただろう?私のすべてはお前のものだ。私の歌も、声も、体も、血もすべて」

「約束だよ」

 ラサルは、ジョシュアの額に口付けた。その温もりに安心にしたのか、冒険の旅を終えたばかりのジョシュアは、目を閉じるとすぐに軽い寝息を立て始めた。

 ラサルは、その寝顔を愛しげに見詰めていた。胸の奥から甘い泉が湧き出たようだ。バビロンに来てから、ついぞ感じたことのなかった溢れるような幸福。

 居ても立ってもいられなかった。神に感謝しなければ、とラサルは思った。ジョシュアが無事に戻ってきたこと、ムシュフッシュを捕らえたこと、そして、ジョシュアが愛してくれたこと…。

 ラサルは窓辺に立つと、膝を折り、星々に向かって祈りを捧げた。この世を統べるすべての神々へ。もう朝も近く、天空にはイシュタルの化身たる暁の明星が見えた。

 その時だった。

 一筋の赤い流れ星が空を滑り、そして消えた。天が流した血のような星の軌跡。そして、その星が消えた直下には、捕らえられたムシュフッシュがいた。浮かび上がる黒い影。その中で禍々しいほどの赤い瞳が二つ、輝いていた。ひたとこちらを睨みつけて。

 ラサルの背中に、冷たいものが一筋走った。汗がじわりと噴き出す。

 遠くで風が低く唸った。砂嵐が何かの予兆のように忍び寄ってくる気配がした。

  


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