古代の獣 第一章
突然、砂嵐がやってきた。
地上も天も、何もかも灰色に塗りつぶすような砂つぶてたち。青きイシュタル門の楼閣で見張りをしていた兵士たちは苦々しく舌打ちし、顔を布で覆った。
「砂嵐の季節でもないだろうに、何の呪いだ…」
その時、砂塵の彼方で何かが小さく光った。
最初に気付いたのは、年老いた隻眼の兵士だった。
「…敵軍か?」
そのしゃがれた声に、槍を持つ兵士たちの手に力が籠もる。が、砂塵のためよく見えない。彼らは必死で光の方に目を凝らした。
次第に光が大きくなっていく。いや、光ではなかった。それは真っ黒な闇が塊になったもののような。
兵士たちの目が驚きと恐怖で見開かれた。
「竜だ!」
その叫び声に、門の下を歩いていた市民らも一斉に顔を上げる。次の瞬間、悲鳴と怒号が入り混じる大騒ぎになった。
「竜だ!竜が来た!」
「ウルクの街を焼いた、あの竜か?」
「逃げろ!火を吹くぞ!」
悲鳴が終わらぬうちに、人々の頭上を大きな影が覆った。蝙蝠にも似た巨大な黒い翼。季節はずれの砂嵐は、その翼が巻き起こしていたのだ。
ゆっくりと、竜は都の中央を貫く広大な「行列道路」に舞い降りた。人々はわれ先にと物陰に隠れる。と、その時、竜の背から何かが軽やかに飛び降りた。
それは、背ばかりひょろりと伸びたか細い少年だった。
「子供が竜の背に…?」
人々の当惑をよそに、少年は立ち上がって砂埃を払うと、誇らしげに顔を上げた。麦の穂のような黄金色の巻き毛が砂塵をはらんだ風になびき、濃い緑の瞳が人々を睨みつける。
一方、巨大な竜は少年の傍らにまるで犬のように大人しく跪くと、大きな黒い翼をゆっくりと折りたたみ、胴体の側にピタリとつけた。
少年は、その様子を満足そうに見ると、思い切り息を吸い込み、高らかな凱旋の声を上げた。
「イシュタルの子ジョシュア、ただ今戻りました!神の獣ムシュフッシュを捕らえましてございます!」
ジョシュアと名乗った少年は、一度言葉を切ると、万感の思いを込めてさらに続けた。「ラサルに…シャルマラサル王に、何とぞご報告を!」
一瞬の沈黙の後、うおおおお、と歓声が起きた。
「あんな子供が、暴れ竜をとらえたとは!」
「王様もさぞお喜びだろう!」
少年は周囲を見渡した。喝采を浴びる誇らしさで頬を紅潮させながら。
それが、破滅の始まりとも知らずに。
なぜ少年は竜狩りをしたのか。それは七年ほど前の、ある出会いに遡る。
これは、砂塵に消えた遠い昔の王国の物語。
二つの大河に挟まれたその国は、砂漠の中にあって奇跡のような栄華を誇っていた。
緑なす豊かなその国と、砂漠を分かつ境目に、巨大な門が建っていた。
ラピスラズリを思わせる青い釉薬をかけた煉瓦で作られ、古代に生きた神獣たちが描かれたその門を、人々はイシュタル門と呼んでいた。愛と闘いを司る、冥府から蘇った美しき女神の名にちなみ。
門へと続く広大な行列道路には、隊商や巡礼が夜昼問わず押し寄せる。
美しきイシュタル門は、この世の善きものも悪しきものもすべて吸い寄せるのだ。この門の下で人々は愛する者と出会い、そして別れる。
ある日、イシュタル門の下で一人の子供が家族とはぐれた。
まだ七つくらいの男の子だ。長旅をしてきたのか、砂埃で汚れてはいたが、麦の穂のごとき金色の髪と、ユーフラテスの流れにも似た、深い緑の瞳をしていた。
だが、待てども待てども、子供の家族は来ない。
太陽が沈み、夜の闇が深まっても子供は門の下で佇んでいた。その夜は新月で、門の篝火以外明かりはない。門を守る兵士もさぼって寝入ったのか、姿が見えない。
子供は不安に大きな目を震わせた。頭上で梟が悪霊のような声で鳴き交わし始める。
その時、子供の眼前を頭からすっぽりとマントを被った二人連れが急ぎ足で通り過ぎようとした。篝火を避けるように顔を覆っているが、一人は老人。もう一人は少し小柄で、女物の布から長い髪が一瞬見えた。
子供はその姿を母と勘違いしたのか、思わずマントを掴んで引いた。はらり、となめらかな布が足元に落ちる。
だが、マントの下から現れたのは、母でも、まして女性でもなかった。つややかな長い黒髪をした、十代半ばくらいの少年だった。
子供は呆然と彼を見詰めた。母でなかった落胆からではない。少年が神の化身のように美しかったからだ。長い睫毛に縁取られた、思慮深い瞳に魅入られたように。
「これ!離しなさい!」
マントを掴んだままの子供に、老人は小さな、けれどきつい声で諫めた。
だが、子供はその手を離さない。
「離しなさい!我々は急ぎの用なのですよ!」
老人が必死で子供を離そうとするが、子供は逆にマントと一緒に少年の腕の中に飛び込んだ。
「ぶ、無礼な!」
老人が厳しくたしなめる。
「よい、シュルギ」
だが少年は穏やかな声で老人を制した。
「ですが、急がねば…」
老人の言葉を、少年は目で制した。どうやら彼は老人の主人であるらしかった。少年は子供に向き直った。
「子供、なぜこんな夜更けにここにおる?お前の家族は?」
子供は首を横に振った。
「わかんない。お母さんと来たけど、いなくなっちゃったの。ここで待ってたら、神様が迎えに来るんだって、お母さんが言ってた。だから大人しく待ってなくちゃいけないんだって」
「…そうか」
少年はすぐに理解した。貧民の子供が、口減らしのため神への捧げ物としてイシュタル門に捨てられる。よくある話だった。その後、裕福な篤志家に拾われるか、人買いにさらわれるか、屍を曝すかは、子供の運次第だ。
「あなたが神様なんだね」
子供の言葉に少年は苦笑した。
「残念ながら、私は神などではないよ」
「ううん、神様だよ」
老人が口を挟む。
「子供、私たちはこれから急ぎの用があるのですよ!手を離しなさい!」
だが、子供は臆することはない。
「それなら僕も一緒に連れていって」
子供はそう言うと、少年の腕にさらに強く抱きついた。
少年はため息を一つつき、子供の瞳をじっと覗き込んだ。そして決心したようにその頭をポンと叩き、肩を抱いた。
「シュルギ、この者を連れていこう」
「お戯れを!一刻を争うのですぞ!」
「物は考えようだ。子供が一緒だとは連中も思うまい。家族として振る舞えば、敵の目も欺けるやもしれぬ」
「…それは、確かにそうですが。この子は、おそらく下賎な奴隷の子供です。この髪、この目、どこか異国から連れてこられた…」
「奴隷であろうと、王であろうと」
少年は一瞬、皮肉な笑みを浮かべた。「そんなものは、これからは関係ない」
「ですが…」
「そうと決まれば行くぞ、子供。門番が嗅ぎ薬で眠っているうちに急ごう」
少年はマントで再び顔を覆うと、さっさと歩き出した。子供が慌てて後を追い、渋々、老人がつき従う。
三人が巨大な青い門をくぐると、城壁の影に二頭の馬が用意されていた。
少年は子供を馬の背にひょいと乗せ、自分も軽々と跨った。もたつく老人を尻目に、馬の腹を蹴る。
「先に行くぞ、シュルギ」
馬は漆黒の闇を駆け抜けていく。それは空を飛ぶように早く、子供は少年の胸にしっかりと抱きついた。
「子供、名は何という?」
「ジョシュア」
「ジョシュアか。良き名だ。私は…ラサル。年は?」
「わかんない」
「そうか。私は十四歳になる。お前より、そう、きっと七つほど年かさかな。緑の目のジョシュア、お前はきっと門の守り神イシュタルの落とし子なのだろう。イシュタル神が都を去る私を哀れみ、美しきその息子を遣わしてくださったに違いない」
「ラサルの方がきれいだよ。ラサル、いい匂いがする」
ジョシュアは、そう言うとラサルの胸に顔を埋めた。ラサルの顔が僅かに綻ぶ。
「そうか。それは嬉しいな。ジョシュア、これからお前は私の弟だ。我らはきっと良き兄弟になれるぞ」
「ラサル様」
やっとシュルギが二人に追いついた。「ちゃんとマントで顔を覆いなさいませ。今しばらくは、あなた様は私の『妻』にございますぞ」
「悪かった」
ラサルは苦笑いし、ジョシュアに語りかけた。「ジョシュア、しばし予定は変更だ。お前は私の息子だ。分かったな」
「ラサルは男でしょ?」
「だが今はお前の母だ」
そう言うと、ラサルは女物のマントをすっぽりと頭から被った。ジョシュアは訳が分からず、目をしばたかせたが、大人しくその言葉に従った。
「良い子だ」
ラサルはジョシュアの柔らかな巻き毛をかき寄せると、再び馬の腹を蹴った。その後を無言で老人も続いた。
そのころ、都バビロンの王宮深くでは密かな騒ぎが起きていた。第七王子のシャルマラサルが失踪したのだ。王太子ナボニドスは臣下たちに宮殿の隅から隅まで探させたが、その行方は遥として分からなかった。
失踪の理由は、王宮の誰もが知っていた。ナボニドスの魔の手から、シャルマラサルを守るために誰かが逃がしたのだ、と。
シャルマラサルは十四歳にして宮廷の書記も適わぬほどの才気煥発、武勇の誉れも高い。何よりも艶やかな黒髪に縁取られた長身の姿は、生まれたての太陽のように神々しかった。
だから、誰かが言い始めた。マルドゥク神の化身たるバビロニアの王には、シャルマラサル王子こそふさわしい、と。神託もそう告げるだろう、と。
そんな噂に、嫉妬深い王太子が心穏やかであるはずがない。
シャルマラサルの身の回りでは、不可解な死が続いていた。生みの母が「食中毒」で死に、乳母が井戸に落ちた。そして従者が突然泡を吹いて事切れた時、年老いた忠臣シュルギはある決意をした。
そして新月の夜、闇に紛れて若き王子と忠臣はたった二人で、王宮を逃れたのだ。
王子主従とイシュタル門で拾われた子供は、夜を徹して馬を走らせた。
幸い、想定外の子供のおかげで追っ手の目をうまくかわすことができ、やがて三人は枯れた河が造った小さな谷の、みすぼらしい日干し煉瓦の家に辿り着いた。
そこで忠臣シュルギは「父」となり、黒髪の「兄」と黄金色の巻き毛の「弟」の三人家族となった。
突然住みついた、まったく似ていない不思議な親子を訝る村人もいたが、さまざまな知識を持つシュルギは村の貴重な薬師となったため、誰も文句は言わなかった。
ラサルは幼い「弟」を、まるで母がするかのように愛しんだ。
王子というかつての身分を忘れ去ったかのように、かいがいしく「弟」の面倒を見た。ジョシュアが熱を出せば寝ずの看病をし、苦い薬は口移しで飲ませた。文字を教え、神々の叙事詩を教えた。
ジョシュアにとってラサルは母であり、兄であり、世界だった。子犬のように常につきまとい、ラサルがいなければ、食べることも眠ることもしなかった。
笑顔とぬくもりと、ほんの少しの喧嘩。それだけで日々は満たされ、繭の中にいるように穏やかに時は流れていった。そうして七年が過ぎた。
けれど、ラサルは…シャルマラサルは知っていた。そんな日々は永遠には続かないことを。