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六月猫 3

 寧々のマンションの前まで来た。レインポンチョを着たままタンデムシートから降りた寧々は不安気だった。山元の話とは裏腹に、雨は小雨に変わりつつあった。

「何か、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。そうだ」

 俺は鞄から山元からもらった御守りを取り出し、寧々に渡した。

「御守り?」

「効くらしい。さっき見たの、ホントに純くんの幽霊だったら、ちょっと怖いしさ」

 俺は得意じゃないが、なるべく冗談っぽく言った。

「だったら岳ちゃんが持ってた方がいいよ! その方が合理的っ」

 寧々は御守りを俺に押し付けてきたが、俺はそっと、その手を押し返した。

「大丈夫だから、寧々が持ってる方が、俺からしたら『合理的』だから」

「でも」

「助けられなかったんだ」

「えっ?」

 どこまで話すべきか? 俺はそんなに口が回る方でもない。

「純くんが亡くなった時、俺も近くにいた。でも何もできなかった。それが、ずっと悔しい。だから」

「私はその子じゃないよっ」

 寧々は雨粒の掛かった眼鏡越しに、俺を必死で見ていた。

「うん、わかってる。でもそれは持っててくれ」

「岳ちゃんっ! 君は」

  言い争いのようにはなりたくなかった。それに、

「おやすみ」

 俺は一方的に言って、原付を出した。なぜだろう? すぐに自分は寧々から離れるべきだと俺の中の直感のようなものが働いていた。

「岳ちゃん!」

 後ろで寧々が叫んだのが聞こえたが、俺は原付を止めなかった。



 家にの前に着く頃には雨はすっかり止んでいた。直に霞が立ち込めるだろう。俺は急かされるように家に入り、鍵を閉めた。

「ただいま」

 言ってみたが、やはり誰の返事もなく、洋間の方からインド風の音楽が聴こえた。おそらく母がインド映画でも観ているんだろう。祖母の気配はまるでない。だが夕方入っていたメール通りなら具合が悪いはずだ。

 ポンチョは着ていたが、腹から下はズブ濡れになっていた。俺は鞄からジムの洗い場で濯いで洗濯機で脱水しただけのタオルを取り出して腹から下を簡単に拭き、框に座って濡れた靴と靴下を脱いで足もタオルで拭い、裸足で祖母の部屋に向かった。

 戸を開けて中に入ると饐えた臭いがした。

「オムツか」

 俺は顔をしかめた。祖母は起きてはいたが、ぼんやりとしていた。

「婆ちゃん、すぐ着替えてくるからちょっとだけ待っててくれよ?」

 俺は、祖母が寝たきりになってから部屋に付けた換気扇のスイッチだけ入れて、小走りに2階の自分の部屋に向かい、下着を替え、上下ジャージを着込み、少し迷ったが靴下も履き替え、以前ヘルパーに指導された通りに念入りに手を洗ってから祖母の部屋に戻った。

「すぐ、綺麗にするから。遅くなって、ごめんな」

 俺は祖母の祖母の汚れたオムツを取り、下半身の汚れを拭い、薄めた消毒液で丁寧に消毒し、ベビーパウダーをはたいて、新しいオムツを付けて、布団や衣類が汚れていないのを確認して、祖母を寝かし付けた。

 祖母がいつオムツを汚したのかはわからないが、夕方メールが入った時点で、ジムにから引き上げて、寧々にも会わずに済ませていれば、もっと早くにオムツを替えられただろうし、体調も見れたと思う。だが毎日の事で、ここまでが俺が出来る限度だった。

「婆ちゃん、さっぱりしたな。少し吐いたって、メールがあったけど、もういいのか?」

 俺はいつものように応えを期待せずに話し掛けると、意外と「うーっ」と祖母は唸って反応を示した。

「婆ちゃん?」

「んん、来たよぉ」

 婆ちゃんが聞き取れる言葉を話すのは俺の知る範囲では数週間ぶりだった。

「来た? 誰が?」

「あの子ぉ。じゅ、純一君。今日」

 純一が、来た?

「お前と、遊びたいってぇ、窓をあ、開けてぇって、『招いて』ほしいって」

 また、婆ちゃんの妄想なのか? 違うのか?

「入れた、のか? 家に?」

「か、か、体が動かないから、窓、開けられなくてぇ。可哀想に、あの子ぉ、純一君、入れてあげられなかったよぉ」

「入れてはいないんだなっ?」

 俺は思わず詰問口調になってしまった。

「岳。お前、あの子とぉ、仲良くしておやり。可哀想に、びしょ濡れで、靴も片方無くしてよぉ。その、窓の向こうでぇ」

 祖母は窓の方に顔だけ向けた。俺も素早く向く。カーテンは閉まったままだ。近付いて、カーテンを開けた。

 家の側面の狭いスペースで隣の家との間の塀があり、その下は花壇になっていたがもう何年も何も植えられていなかった。

 窓の外はいつの間にか深い霞に覆われていた。塀の先の隣の家がはっきり見えない程だった。寒気を感じて、塀の上の辺りを見ると、中型犬くらいの魚のような影が一尾、中空を『泳ぎ』去って行った。あの日、見た影だ。

 俺はカーテンを勢いよく閉めた。

「婆ちゃん、勝手に人を家に上げちゃダメだよ?」

「でもぉ」

「ダメだから、頼む」

「んんっ」

 祖母は唸って、何か言っていたが、俺は聞いていられなくなって、祖母の部屋を出た。

 手を洗う為に洗面所に向かおうとしたが、洗面所には『鏡』がある。自分の臆病さが滑稽に思えたが、笑えず、台所のハンドソープで手を洗った。

「どうなってる? クソっ」

 俺は小声で苛立った。これから、どうすべきか? 全てただの勘違いか? 婆ちゃんの妄想か? それとも俺の記憶自体が妄想なのか? それはあり得る。

 川で純くんを目の前で亡くして、子供だった俺がその事に耐えられず、作り出した都合のいい『理由』の妄想。ない話ではないと思った。俺は、もしかしたらカウンセリングを受けた方がいいのかもしれない。

 だがそれも確証は無い。俺は母にも話を聞いてみる事にした。



 洋間に入ると、母はまだインド映画を見ていた。テーブルの上には発泡酒の缶とつまみが雑然と置かれている。母は父が家に寄り付かなくなって以来、最低限度の家事と祖母の世話以外の全てをほぼ放棄していた。

「晩御飯はダイニングと冷蔵庫にあるよ」

「母さん、婆ちゃんに薬飲ませたか?」

「飲ませたよ。オムツ替えてくれた?」

「ああ」

「私、お義母さんのオムツ、一日2回までしか替えないから、絶対にね」

 その『絶対』からは、揺るがない決意が感じられた。母は実際に2回までしか『絶対に』祖母のオムツを替えないつもりだろう。

「母さん、その、今日子供が来なかった? 家に」

「子供?」

 母は酔った顔を初めてこちらに向けた。少し老けたな、と思う。

「そういえば、夕方、傘を差した変な子供が庭にいたよ。気味が悪い。何かと思っていたらすぐにいなくなったけど、ボールでも拾いに来たのかな? あ、こんな雨の日にボールで遊ばないか、ふふふっ」

 母は発泡酒缶片手に笑った。やはり、『来た』のか。勿論、それはただの子供なのかもしれない。だが、少なくとも俺はあの日、俺達とは『違うモノ』に遭遇したと記憶していた。

「それが何? 岳?」

 俺は母に構わず洋間を出た。



 部屋に戻った俺は『武器』になる物を探し始めた。それでどうするのか? 身を守れるのか? 祖母や母達を巻き込まないのか? 俺は狙われているのか? なぜ? あの日、助けにゆけなかったからか? いや、そもそも俺を狙っているのは純くんなのか?

「それはないっ」

 俺は言いながら、ゆっくり振るったりしてモーションを確認するのに使っている2キロの鉄アレイを二つ手に取った。

「純くんは友達だ。『何か』が純くんの姿を利用しているはずだ。俺の、妄想じゃなければっ」

 俺はすぐ動けるよう、予備のトレーニングシューズを部屋の中で履き、2キロ鉄アレイをボディバッグにしまい、バッグを体に巻いた。

 ずっと、いつかこんな日がくるんじゃないかとは思っていた。もし、今、俺を狙っている? モノが純くんを襲ったモノなら、あるいは純くん自身であるなら、俺はどちらにせよ今夜決着をつけないといけない。

 俺は、カーテンを閉めた窓の方を見て、自分の部屋の中央で立った。呼吸が荒くなる。大きな体で、ジムと土建のバイトで散々鍛えて、情けない。喉が渇いて、喉がひり付いてきた。そういえばジムを出てから何も飲んでいなかった。

 もし、襲われるなら、二階で一人でいる時がいい。母達が巻き込まれるリスクが少しは減る気がした。実在するなら、あんなワケのわからないヤツらをどんな基準で判断したらいいか、よくわからなかったが。

 しかし、喉は、渇く。

「来ないのか?」

 ボクシングをやっているのに、自分の『渇き』への耐性の低さに心底落胆した。

「くそっ」

 俺は早足で部屋を出て、一階に降りた。



 冷蔵庫からポカリのペットボトルを取り出して、一気に半分飲んだ。一息つく。蓋を締めて、残りのボトルはボディバッグにしまった。

 腹も減っていたが、他にも何か持ち運べる食べ物を持っていた方がいい気がして、冷蔵庫の中を漁っていると、キッチンと続いたダイニングの出入り口の側の棚の上にある家の電話が突然鳴った。

 皆、スマホで済ますから今では鳴る機会の少ない電話だ。洋間の母は無視するだろう。

 俺は冷蔵庫から竹輪を一袋出して閉め、竹輪はボディバッグにしまい、緊張して電話に出た。

「もしもし、椿さんのお宅ですか? 夜分遅くにすいません。早坂寧々と言います。岳君はいらっしゃいますか?」

 寧々だ。

「寧々?」

「あっ、岳ちゃん! スマホ繋がらないからっ」

「ああっ、悪い、鞄に入れたままだ。ちょっとバタバタしてて」

「うん。今、タクシーでそっちに行ってるんだ」

「え?」

 俺は耳を疑った。

「何でだ?!」

「御守り、持ってく」

「それはっ」

「やっぱり、何か変だよ。悪い予感がする。この御守りは岳ちゃんが持っとくべきだよ。その方が合理的」

「寧々っ!」

「もう着くから。ごめんっ」

 寧々は一方的に電話を切った。

「何で、いいのにっ」

 俺は受話器を置いて、その場にへたり込んでしまった。守るつもりでいて、巻き込んでどうするっ?!

「いやっ、座ってられるかっ!」

 俺は玄関まで走り、トレーニングシューズのまま三和土まで来て鍵を開けたが、玄関のノブに手を掛けた所で止まってしまった。

「・・・・その時は、その時だ!」

 俺はドアを開けた。



 異様に濃い、どこか生臭い霞が屋外には立ち込めている。俺は家の門の前にいた。せわしなく、周囲を見回す。

「いるのかっ?」

 それとも俺の妄想か? 俺はボディバッグから鉄アレイを一つ取り出した。今、職質されたら言い訳するのは難しいな、等とも思ったりする。

 呼吸を整えようとしていると、


「ゴッゲッギャギャギャッ!!」


 聞こえた! 上だっ!

 俺は霞で覆われた、中空を見た。街灯の向こうの霞の中に、確かに大きな魚のようなモノの影がいくつか横切るのが見えた。

「いるなっ!」

 俺は右手にだけ鉄アレイを持って両拳を構えた。

 と、道路の右手から明かりが二つ差した。霞の向こうから車が近付いてくる。タクシーだ。

「寧々っ!」

 俺はゆっくり車を進めていたタクシーの方に走った。思わず車の前に飛び出す形になると、タクシーは急ブレーキを掛けて止まった。

「ちょっとっ?! 危ないよ、お兄さんっ! こんな霞の夜にランニング?」

 車窓から運転手が顔を出してきたが、部屋着にパーカーを羽織っただけの格好の寧々も後部座席の窓から顔を出した。

「岳ちゃん! 持ってきたよっ!」

 御守りを掲げてみせる寧々。胸がぐっと詰まったように感じた。

「寧々っ」

 俺は駆け寄り、寧々は支払を済ませて降り、運転手は俺達の様子を不思議がりながらタクシーを発車させて霞の中に去って行った。

 俺達はタクシーを見送ってから、しばらく何も言わず、その場で抱き合っていた。

「寧々、来なくていいのに」

「サプライズだよ」

「サプライズ過ぎるって」

 俺達は少し笑い合った。

 俺は体を離し、寧々の肩を持って、眼鏡の奥の目を見た。

「詳しい事は後で話す。家の中に入ろう。外はたぶん、マズい」

「わかったよ。話してね」



 俺達は走って、家に入り、鍵を閉めた。

「靴、履いたままでいい、二階に上がろう」

「え? いいの?」

 俺は応えず、階段に向かった。

「あ、待ってっ。お邪魔します。後で掃除しますっ」

 寧々は恐る恐るついてきた。



 部屋に入ると、俺は「信じられないかもしれないけど」と前置きして、子供の時、体験した事を寧々に話して聞かせた。

「・・・・そんな事が、あったの?」

 寧々は部屋に土足に入っているのが落ち着かない様子でもあった。

「俺も自分でも信じられない。もしかしたら、純くんが川で死んだ事に責任を感じて、子供の俺が作り出した妄想なのかもしれない」

「どちらでも、私は君の味方だから」

 真剣な目で、寧々は俺を見てきた。また、抱き締めたい衝動に駆られたが、きりがないので堪えた。

「ありがとう。だが、今夜、それも決着がつく気がする。山元がネットで噂を見たっていうのもたぶん、それだ」

 寧々は改めて御守りを取り出した。

「山元君がくれたっていうこの御守り、効くのかな?」

「それはわからないけど」

 俺は苦笑するしかなかった。

「とにかく、待とう」

 俺はベッドに座った。

「待つんだ。わかった」

 寧々も覚悟を決めた顔で俺の隣に座った。

 5分程すると、寧々の腹が鳴り、釣られて俺の腹もなった。二人とも笑ってしまう。

「寧々、夕飯食べてないんだ」

「何か、送ってから慌てちゃって」

「竹輪とポカリならあるよ?」

「あっ、食べたい食べたい!」

 俺は鉄アレイを置いて、竹輪とポカリのボトルをボディバッグから取り出した。ボトルを渡し、竹輪の袋を開ける。中には5本入っていたから3本渡した。

「いいの?」

「いいよ」

「合理的だから?」

「知らないよ」

 笑い合って、二人で竹輪を食べ、回してポカリを飲み干した。

 一心地ついて、そのまま手を握り合って黙っていると、数分後、背筋に冷たいものが走ったと思ったら部屋の電灯が明滅し始めた。

「何?」

「立とう、すぐ動けるように」

 俺は寧々から手を離し、もう一つ鉄アレイをボディバッグから取り出した。

「寧々は御守りを持ってて」

「あっ、でも」

 寧々が御守りをまた俺に譲ろうとすると、電灯の明滅が止み、代わりに部屋の窓に何か小石のような物がカツっと当たる音がした。

 俺達は窓の方を振り向き、俺は鉄アレイを武器として構えた。

「誰だっ?!」

「がーっちゃん、あーそーぼっ!!」

 子供の頃と全く同じ言い方と声で、純くんは家の前の道から言ってきた。

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