六月猫 2
放課後、文化祭で執事カフェをやるというクラスの準備が進んでいたが、朝と昼休みに手伝った俺は荷物運びだけ軽くして、早々に抜けた。
と、廊下で段ボールの束を抱えた山元と出会した。
「おっ、椿じゃん。もう帰んの?」
「俺は朝と昼手伝ったから、それ、卓球部か?」
「そうそう。クラスの方はダンスやるとかで、バタバタしてんだ。三瀬とか八木とかも大変だってよ」
「八木はジュリエットだっけか?」
「オフィーリアだよ」
「ああ、まあいいや。じゃ、な山元」
演劇部の八木の張り切りようは少し面白かったが、さっさとジムに行きたい。俺は片手を少し上げて合図して、そのまま立ち去ろうとした。
「そうだっ、椿!」
山元は呼び止めてきて、制服のポケットから何か取り出してきた。
「何だ?」
「これ、爺さんにもらったんだ」
それは霞真淵神社の御守りだった。山元の爺さんは霞真淵神社の神主だ。神社は山元の伯父さんが継いでいる。
「御守り? 何でだ?」
「爺さんがボクシングの試合で怪我しないようにってさ。たまたま爺さんと話してる時にお前の話になって、もってけ、ってなったんだよ」
「そうかぁ、ありがたいけど、俺、あんま試合やらないけどなぁ」
受け取った御守りを手に、俺は少し困った。鍛える為に通ってはいるが、スパーはともかく試合何て年に数回、ジムの付き合い程度にしか出ていないし、無茶する事もなかった。
「交通安全、家内安全、災難払いに恋愛成就っ! 何でも効くってさ」
「恋愛成就って、俺、彼女いるよ」
「ま、いいからいいから」
男子にしてはやや小柄な山元は片腕に段ボールを抱え直し、もう片方の腕を上げて俺に肩を組んできた。
「土建の現場も危ないんだろ? もっとけもっとけ」
「まあ、それなら、鞄にでも入れとくよ」
「よしっ! じゃ、そんな感じでっ!」
「おう、爺さんによろしくな」
「任せとけっ」
渡すだけ渡して、山元は廊下を去っていった。
「山元のやつ、何だ? 急に?」
俺はもう一度御守りを見てみた。
汗の熱気でムッとするジムの中、俺は鏡の前でひたすらシャドーをしていた。週に2、3回程度しかジムに来れない俺は、日が開くと必ず念入りにシャドーをして弛んだモーションを引き締める。
続ける内に少しずつ本来の正しい無駄の無いモーションに精練されていく。好きなワークでもあった。
右ジャブからのコンビネーションを一通り終えて、左に移ろうとしていた。その時、
「えっ?」
目の前の鏡に、水面のように波紋が起こった。それは、すぐに収まったが、俺はワケがわからず、鏡に近付き、バンテージを巻いた手で鏡に触れた。ただの鏡だ。何でもない。
「今の、何だ?」
俺は鏡の前で鏡面をコツコツと叩いたりしてみたが、何も起こらず、しまいに、
「椿っ! 何してる?! 動けっ!」
「あっ、はいっ!」
トレーナーに怒鳴られてしまい、俺は慌ててシャドーに戻った。今のは何だったんだ?
午後8時半過ぎ、ジム近くの表通りの喫茶店の前に俺は行った。さっきSNSで連絡を取った通り、寧々は窓側の席で例のビーズを編んでいた。
塾の後で疲れてるはずなのに、真面目な顔で少し背を丸めて作業する少し眼鏡がズレてきている寧々はいつもより可愛く見えたけど、道端でずっと見ているのも変だ。俺は指先で喫茶店の窓ガラスをコツっと突ついた。
寧々は少し驚いて顔を上げて、すぐに笑顔を見せた。
「ビーズストラップいくつか作ってるけど、一番出来のいいのを君にあげるよ、サプライズで」
「だから、全部言っちゃったらサプライズにならないよ?」
俺達は話しながら近くの駐輪場に向かっていた。
「今日は塾の課題も軽いから、どっか寄りたかったな」
「ごめんな。ちょっと婆ちゃんの具合が悪いみたいで」
同居している祖母は寝たきりで、介助が必要だった。昼間はヘルパーが来ているが、夜は俺か母が何とかするしかない。父は必要な金は家に入れるが、ここ数年、あまり家に帰ってこなくなっていた。
「うん、しょうがないね。家族は大事だ。それが合理的だよ、岳ちゃん」
「ごめんな、寧々」
「そんな謝らなくていいから」
寧々は笑って済ましてくれた。
そうして駐輪場の前に来ると、不意に雨が降ってきた。
「あーっ、降ってきちゃったかぁ」
「どうする? バスで帰るか?」
「・・・・いい、乗せて」
寧々は思ったより切実な顔で振り返ってきた。
雨の中、俺は原付で国道を走っていた。小さなタンデムシートに寧々を座らせている。俺も寧々も、レインポンチョを制服の上に着ている。寧々はしっかりと俺に掴まっていた。
駐輪場から寧々の家までそう遠くない。俺はあまりスピードを出さず、慎重走っていた。二人乗りする時のスピードの遅さについては何度か寧々に文句を言われたが、改めるつもりはなかった。
流行らず、潰れたままになっているパチンコ屋を過ぎて、川の近くに通り掛かった時、『その子』が、いた。
俺は急ブレーキを掛けた。
「何っ? 何っ?」
寧々は戸惑っていた。
「子供が、いた」
「え? ああ、さっきの小学生?」
俺達は振り返った。川の側の歩道に見えた、傘を差し、ランドセルを背負った子供の姿はどこにもなかった。
「いないね。さっきの子がどうしたの?」
口が渇いてしょうがなかった。
「純くんだった」
「純くん?」
「俺が小学生の時、その・・・・川で亡くなった子」
「嘘っ、見間違いでしょ? やだっ」
寧々はしがみついてきた。
「俺も、見間違いだとは思う。だが、あの日と同じ格好で、靴も片方履いてなかった。純くんが亡くなった後、靴の片方だけ川で見付かったんだ」
「ホントに? それ、ホントなの?」
「ホントだよ」
そこまで、話したところで、スマホの俺の着信音が鳴り出した。マナーモードにしてあったはずなのに。恐る恐る鞄からスマホを取り出し、一応防水だが、ポンチョで雨を受けて画面を見た。山元だった。俺はため息をついた。
「山元か、誰かと思った。電話何て珍しいな」
「今、川の近くか?」
山元はいつになく、鋭い口調だった。
「そうだけど、今」
「離れた方がいい」
「え?」
「川から離れた方がいい。今夜、結構降るらしい」
「ああ、そっか。いや、離れるけど」
「それから、お前の家の近くで不審者が出たって、ネットで書き込みがあったから、戸締まり気を付けろよ?」
「わかった」
「それだけだ」
「おお、山元?」
「いや、アレだよっ。ネットで不審者とか変な書き込みあったから、大丈夫かと思ってさぁっ!」
山元は普段の話し方に戻った。
「そうか、悪いな。気を付けるよ」
「おうっ、じゃなぁ~」
山元は通話を切った。俺は、普段そこまで絡まない山元に急に心配されてどう反応していいか? スマホを手に少し考えてしまったが、寧々に袖を引っ張られた。
「今の山元君? 何だって?」
「いや、今日これから降水量多いから、川から離れろって」
「それだけ?」
「うん」
俺は咄嗟に、『不審者』の話は伏せていた。ジムの鏡や、さっきの『子供』、悪い予感がして、寧々はそこから遠ざけるべきだと思った。
「天気予報、そうだっけ?」
「とにかく、急ごう」
俺は原付を発進させた。天気がどうあれ、確かにここは一刻も早く離れるべきだと俺も思った。バックミラーには雨の向こうの川側の黒々とした人気の無い景色が映っていた。