六月猫 1
全面改修工事中の昭和に建てられたビルの中で、俺は満杯のガラ袋を手に所々段差や階段のある仮通路を下っていた。
床も直しているので足場が複雑な事になっている。ガラ置き場は遠く、エレベーターから遠い位置にあり、足場の段差せいで台車も使えない。高校野球で鍛えたと自信ありげにこの間入ってきた大学生のアルバイトは始めて2日でバックレた。
右手で袋の口の辺りを持ち、左手でしっかり支えて腿や膝、胸や腹を袋で擦らないように気を付ける。作業着は頑丈だが、飛び出したガラで簡単にスパッと皮膚を切られる事がある。このビルはそうでもないが、いかにも不潔な現場で出たガラだと破傷風等も怖い。
体が大きく、ボクシングで少しばかり鍛えてもそんなの問題じゃない。臆病で、慎重である事が重要だ。
そうして、あと少しでガラ置き場という所まで来ると、壁一面の窓ガラスが全て抜かれて中空から見える景色が絵みたいになっている所に通り掛かった。ロープ1本、申し訳程度に張られて柵代わりになっていた。
いつもはさっさと通り過ぎているが、今日はふと足を止めてしまった。外は雨が降りしきっていた。六月は雨ばかりだ。そしてこの雨が止むと、霞ヶ丘では深い霞が広範囲に発生する。
あの日もそうだった。夕方まで降った雨が不意に止み、暗い曇り空の下、全ては霞に包まれた。程無く、注意喚起のサイレンとアナウンスが鳴り響いた。
「現在、霞ヶ丘地域には、濃い霞が立ち込めています。夜間外出、高所、水辺、柵の無い車道への接近は、控えましょう。繰り返します、現在、霞ヶ丘地域には・・・・」
竹塚純一、純くんと小学三年生の俺は競い合うように近所の川に沿った霞の深い道を走っていた。二人ともランドセルを背負い、畳んで適当に巻いた傘を持っていた。
その時、なぜ夕方まで出歩いていたかははっきりとは思い出せないが、たぶん駄菓子等をたくさん置いた食品販売店に寄っていたとか、大した理由ではなかったと思う。
「がっちゃんっ! 凄ぇ霞だねっ! 前、見えねぇっ!」
純くんは楽しそうに走りながら言ってきた。俺は椿岳という名前から、『がっちゃん』とか『ばっきー』とか当時は友達から呼ばれる事が多く、純くんは『がっちゃん』と呼んでいた。
「ホント、見えねぇっ! 純くん、川に落ちちゃうよっ?! 河童に拐われちゃうよっ! やっばーっ! アハハハっ!」
走りながら、子供の俺が笑って言うと純くんも笑った。
「アハハっ! 河童だってっ! そんなのいるワケ、えっ?」
純くんが突然走るのをやめて立ち止まったから、俺はつんのめってコケそうになって立ち止まって振り返った。
「何? どうしたの?」
純くんは不安気に周囲を見回していた。
「何か、いる」
「何が?」
俺も周囲を見回した。すると、濃い霞の向こうに奇妙な影がいくつか見えた。そいつらは中型犬くらいの大きさで、宙を舞い飛び、俺達を取り囲みつつあった。『魚』、のようにも見えた。
「ゴッゲギャギャギャッ!」
そいつらはそんな風に鳴いていた。
「何か、鳴いてる。カラス、かな? がっちゃん」
「カラスにしては大き過ぎるよ、純くん。飛び方もおかしい、泳いでるみたい。魚じゃない」
「魚って、ここ、水の中じゃないよ?」
「そうだけど、何か、ホントに、ヤバいかも? 早く、家に帰ろう。純くん、急いで」
俺が言い終わる前に後ろでドサッと、何かが倒れる音がした。俺は慌てて振り返ったが、
「うわぁああああぁーっ?!!」
ちょうど前のめりに倒された純くんが『何か』に素早く引き摺られ、濃い霞の向こうに叫びながら連れ去られるところだった。俺は唖然とした。
「ゴッゲギャギャギャッ!!」
周囲を飛び回っていた大きな魚の様な影も鳴きながら、連れ去られる純くんに続いて行った。
「がっちゃんっ! 助けてっ! がっちゃんっ!!」
純くんに呼ばれて、
「純くんっ!!」
俺は我に帰り、追い掛けようとした。だけど、
「ちょっとやめてくんなーい?」
後ろから若い大人の女の声がして、走り出しかけた俺の左足に温かい毛皮みたいなモノが巻き付いてきて、俺は動きを止められた。
「えっ?」
後ろを見ると、一際濃い霞の向こうに大きな猫らしき影がいた。いや、大き過ぎる! 虎かライオンくらいはあった。加えてその『猫』には尾が4本もあり、内、1本は長く伸びで俺の右足に結び付いていた。
「困んだよねぇっ! あたしがさぁ。『あいつ』は未熟なの。足手まといが増えると仕損じるでしょ?」
「何? 猫? 喋ってるの?」
子供の俺は混乱した。こんなの子供でなくたって混乱する。
「お前、帰んなよ。助けに行っても邪魔になるだけだよ? あの子も、運が良ければ帰ってくるだろうし、そうじゃなきゃそれまでさ。ちっぽけなお前達『人』、の命何て、そんなもんでしょ? うふふっ」
その猫が、笑った事が許せなかった。
「何がおかしいんだよっ? 何もおかしくないよっ! 純くんは友達何だっ! 離せよっ!」
俺はその奇妙な猫の尾を右足から離そうとしたが、柔らかそうでいてその尾は鉄で編まれた綱のように頑丈でほどけなかった。
「ああ、無いわーっ。これだから関係無いヤツの前に姿を出すのは嫌いだわ。この一からわからせなきゃならない件、飽き飽きよね」
猫は霞の向こうで大あくびした。
「離せよっ、猫っ!」
「猫呼ばわりだよ。まったく、誰の縄張りで暮らさせてやってると思ってんだか。まあ、いいや。もう、眠んなっ」
猫がそう言うと同時に俺の回りの霞が薄い桃色に変わり、甘い香りが立ち込めた。それを吸うと、俺はたちまち立っていられない程の眠気に襲われた。
「ううっ」
俺は必死で、純くんの連れ去られた方を見た。深い霞の向こうでドォンッ! と爆発音が鳴って、青白い炎が見えた気がした。
「お? 上手く仕止めたかね? ま、お前はややこしいからもう、眠ってな」
「嫌、だ・・・」
そう言っても眠気に勝てず、子供の俺は膝をついた。
「全て悪い夢だと思いなよ。もしその『トモダチ』とやらが戻らなくても、川に落ちたとでも他の者どもには言っとけば? でないと頭がおかしくなったと思われちゃうよ?」
「純、くんっ」
俺は倒れ込もうとしていた。
「おやすみ、坊や」
霞の向こうで影の猫は呟き、俺は深い眠りに落ちた。
それから数時間後、その場に倒れていた俺は警察に保護され、翌朝純くんの靴が片方、川の中の石に引っ掛かっているのが発見された。純くんは二度とは戻らなかった。
建築現場でのバイトを終えた俺はネカフェのシャワーを浴びていた。シャワー室は事務所にもあるが、現場から遠過ぎた。
熱いシャワーを浴びながら、自分のゴツゴツとした掌やボクシングで拳タコの出来た拳を見る。元々体を動かすは好きだったが、あの日以来、俺は『強く』なる事に拘った。
純くんを連れ去ったモノと戦うつもり何てない。ただ、怖くて。怖くて堪らないから鍛えてきた。俺は臆病だ。あの時、純くんの事を聞かれても「よくわかない」としか大人達に説明できなかった。
「他に、どうしろっていうんだよっ」
俺はシャワー室で呟き、結局役立たずな両拳を握り締めた。
更衣室で霞ヶ丘高校の制服に着替え、受け付けで手続きをして、シャワー利用特典のドリンクサービス券を一枚もらい、二人仕様の個室に入った。
F高校の制服のジャケットだけ脱いだ寧々、早坂寧々がストーンビーズを編んでいた。ジャケットはハンガーに掛けていた。
「ドリンクの割引券もらった。何か飲むか?」
「んー、ドリンクバーで飲み過ぎたからいいや。シャワーどうだった?」
「普通」
俺は空いていたもう1つの椅子に座った。
「一緒に入った方が良かった?」
ちょっと笑って言ってくる寧々。ビーズを編む作業は止めない。
「帰宅部の娘が塾帰りにシャワー浴びて帰ってきたら不自然過ぎる」
「ちゃんと乾かせばバレないよ? 今日、真面目だね」
「別に。もう出たし、すぐ帰るんだろ?」
「うん、塾の課題がちょっとね。これ片付けたら帰るから、原付で、送ってね」
「ああ。それ、この間から作ってるけど、何?」
「スマホのストラップ。月末、君の誕生日でしょ? サプライズにあげようと思ってね」
眼鏡のズレを直しながら寧々は言った。寧々はよく『君』と呼んでくる。
「サプライズって、今、本人に言ってるけど?」
「合理的でしょう?」
「何それ?」
俺は笑ってしまう。寧々は『合理的』というフレーズも好きだが、大体さほど合理的じゃなかった。
「寧々」
「何、岳ちゃん」
寧々は俺を岳ちゃんとも呼ぶ。
「今、集中してるから」
背を丸めて作業する寧々。俺は椅子から立ち上がって、寧々に近付き、なるべくそっと、後ろから抱き締めた。
「ちょっとぉ、邪魔。君、凄い石鹸とシャンプーの匂いするよ?」
「寧々。もし何かあったら、今度こそ俺が守る」
「今度こそ? 何の話?」
俺は寧々にもあの時の事は話していない。俺は、抱き締めたまま片手で寧々の頬を横に向けさせて、自分もそちらに顔を傾けてキスをした。
どれ程、過去は取り返しがつかず恐ろしくても、今、ここにいるこの人は守りたかった。