花の輪 後編
勝山は学校にも演劇部にも黙って逃げ帰って行った。学校には互いにチクらないが、早期に勝山が退職する事と八木が二度と勝山や勝山の家族に付きまとわない事を確約する事が交換条件だった。
野間と香織と千石はそのまま八木の家に向かい、山元は部活に、椿はジム、俺はバイトに向かった。俺は徒歩だが、椿の乗るバス停までは行き道が一緒だった。
「八木と野間って、どの程度だったんだろな? これから、対応に、ちょっと困る」
鍛え過ぎた厳つい風貌で、椿は本当に困った様子だった。
「八木は変わってるし、野間は真面目だからちょっとわかんないな。どっちにしろ、普通にしてたらいいよ」
背の高い椿は俺を見下ろしてきた。何だ?
「三瀬と工藤って、セックスしたのか?」
「ええっ?! 何だぁ、いきなり?」
真顔で聞かれ動揺する俺。山元はともかく、椿とそういう話はしてない。
「いや、逆に難しいかと思ってな。お前ら、家族っぽいから」
「家族じゃねぇしっ! 普通にしたよ。変な意味じゃないけどなっ」
どんな意味だよっ! と自分で自分にツッコみたい俺。
「まぁ、いいけどな」
いいのかよっ! 内心でツッコみを連打している内に学校近くのバス停に着いた。
「じゃ、な」
「バイトがんばれよぉ」
「おうっ」
俺は片手を上げて合図しながら、店のある駅の方へ走り出した。賄いを食べる時間を考えるとちょっと遅刻しそうだった。あんな、勝山みたいなヤツの為に、いつもの生活サイクルが乱されるのはどうも納得がいかない。俺は『いつもの時間』に間に合うよう、走った。
結局8分程入るのに遅れたが、こんな日に限って個人的に推している平井さんによるかなり凝った『鶏と魚介の端材膳』が出された。じっくり味わいたかったけど時間が無いのでしょうがない。俺は一気にガッと平らげ、洗い場に入った。今日の客入りは昨日と大して変わらなかったが、洗い場の昼番の人が余り食器を溜めていなかったのと、皿が纏めて下げられる事があまりなかったので、余裕を持って作業が出来た。
それもあってか、それとも八木の事が頭に残っていたのか、あるいは昨日の事があったからか、俺は作業中、チラチラと大山さんの動きを観察していた。これまで意識して見る事はなかったが、大山さんは優秀だ。接客だけでなく、厨房と検品と発注の手伝いをし、シフトの調整まで店長の代理をする場面もあった。髪を纏め、棒のような体でキビキビと働く大山さんは格好良かった。
たった三時間の短時間勤務なので、昨日のような事がない限り基本的に俺に休憩時間は無いのだが、今日は7時過ぎに微妙に手が空き、5分だけ休憩の許可が出て、『5分』で何すんだよ? と思いつつ厨房にいても邪魔になるので取り敢えず休憩室に引っ込んだ。中途半端な変な時間なので俺以外誰もいない。テーブルに新潮と女性セブンとヤングジャンプが投げ置かれていた。ヤングジャンプは先週のヤツだ。啓示的だな、と思う。『真澄よ、お前のヤングなジャンプは一週遅れているのだ』と表紙のグラドルだかアイドルだか若手女優だかに告げられたようだった。
俺はどの雑誌も手に取らず、パイプ椅子に座って今日1日の事を整理しようと思った。更衣室でスマホを見れば、香織達が八木の家を訪ねた結果もわかるのだろうが、そこまでする気力が湧かなかった。勝山を詰め、走って『みのだ』まで来て、慌てて賄いを完食した辺りで「あ、今日使える力、もう無い」と感じていた。
と、休憩室に前触れ無く、大山さんが入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れッス」
大山さんはパイプ椅子を一つ挟んだ席に座り、慣れた仕草でポケットから煙草を取り出して1本くわえて火を点け、吸った。軽い、メンソールの、細長い煙草。
「三瀬君さぁ、今日、わたしの事、凄い見てたでしょ?」
バレてた! 俺は慌てた。
「あ、すんませんっ。変な意味じゃないッス」
「昨日の『お花見』は何でもないから、忘れてよ」
お花見、そうか、あれはお花見だったよな、そういえば。今年、初めてちゃんと桜を見た。俺は、ちゃんと話すべきだと思った。
「大山さん」
俺が体ごと大山さんの方を向き直ると、今度は大山さんの方が少し慌てた。
「何っ? 何?」
「実は、学校の知り合いの女子が教師と不倫してトラブってたんですよ。それで、あなたの事が変に気に掛かった、ていうか、何というか、すいません」
大山さんは俺を見詰めていたが、煙草をテーブルの灰皿で揉み消した。
「それ、本当の話?」
「本当です!」
俺は喰い気味に答えた。大山さんは俺の反応に驚いたようだが、すぐに見た事無いくらい柔らかく笑った。
「ふふっ、三瀬君さぁ」
「はい」
「今夜、時間作れる?」
お花見に誘った時と同じ、試すような顔で、大山さんは言った。
バイトの後で、俺は速攻で家に帰ってシャワーだけ浴びて適当な私服に着替え、真波に「兄ちゃん何ぃ? 今から出掛けんのぉ? 何か行動がエロいんですけどぉ?」と絡まれつつ、親には山元の家に行くとだけ言って飛び出してきた。待ち合わせは10時半、『みのだ』から少し離れたファミレスだ。店に着いたのは10時前だった。
俺は飲み物だけ頼んで放ったらかしにしていたスマホで八木の動向を確認した。八木の家に行って、八木と会えたのは野間だけだったらしいが、後の野間からの報告で、八木は霞ヶ丘高を辞めるのは思い止まったそうだ。ロクに勉強していなかったが来週には登校し、徐々に予備校にも復帰するというので中間テストまでには立て直せるだろう。元々成績は悪くない。学校にはバレてないし、これまで特に出席が足りていなかったワケでもない。学業的にはどうにかやり過ごせるさ。
俺は昨日からスルーされてる八木に改めて、メールを打った。
『八木、今度3班全員に何か奢れ。一発ギャグとかやれ。香織と千石に電話しとけ。野間の方は知らん。お前アホ過ぎてワケわからん。』
と、いった文面。返事な無いものと思っていたが、意外と2分もしない内に返信がきた。
『一発ギャグは嫌だ。奢るのミスドでいい? 今月お金無い。親に超怒られたからお小遣い頼むのもう、無理。結衣は怖いから先に香織に電話する。野間の事はまた話すよ。あと、アホでごめんね。何か、すぐわかんなくなっちゃうから、また変な事にならないように、気を付けるよ。ごめんね。ホント、ごめんね。三瀬。』
結構ガッツリとメールで謝られてしまった。フォローのメールを打つべきかとも思ったが、八木は泣きが入るとベッタリ覆い被さってくるようなところが昔からある。八木の取説を知らない勝山はそれにヤラれた。
「藪蛇は避けるべきだな」
俺は、それ以上は八木にメールを打たず、ここで線引きする事にした。これも友情ってヤツじゃねぇの?
俺はそれから3班のSNSで一通りやり取りして、八木の件に一先ずケリをつけ、そしてここからが本番だっ! と山元に電話を掛けた。
「んん、何だよ三瀬? いきなり電話?」
戸惑う山元。背後で猫が鳴いていたからもう家に帰っているようだ。好都合だ! 俺は今夜、山元の家に行った『設定』になっている。俺は事情をざっと山元に話した。
「はぁああ? お前、友達のピンチと同時進行で何やってんの? 変な事すんなよ、アホなのか?」
「違う! とにかくっ」
「どの辺が違うんだよ、おおぅ?」
「いいからっ! 俺、お前ん家行ってる体で頼むよ。親父さんも、今度たい焼き買ってくから、ほら、鈴蘭通りの美味い店のヤツ!」
ダイニングバーを経営している山元の親父さんはたい焼き好きだ。山元一家はバーの二階で父、猫、山元の三名でコンパクトな感じに収まって暮らしていた。
「ああ、わかったわかった。協力はしてやるが、アラサー独身フリーター女でバイト先の店長と不倫してんだろ? それ、ヤバ過ぎねぇかぁ?」
「大丈夫大丈夫。大丈夫なヤツだよ」
「いやっ、大丈夫じゃないヤツだよ、それっ! 三瀬。目を覚ませってっ」
「わかった。じゃあよろしくな」
「いや、わかってねぇし。三瀬っ! オーイっ!」
俺は通話を切った。10時10分をもう過ぎていた。自分がどんなつもりなのかはよくわからないが、始まったら終わるまでは終わらないもんさ。俺は待ち、10時20分過ぎ、大山さんはファミレスに現れた。今夜も髪を解いた大山さんはタックパンツにブルーの七分袖プルオーバーだった。基本、寒色の人だな。
「お待たせ。店、移ろう。いいとこ知ってるから。奢るよぉ?」
大山は今夜も機嫌が良かった。
大山さんに案内されたのは静岡料理の日本酒バー『浜名泣き鬼』という店だった。店名通り鬼の面等もあったが、基本洋風の作りの店だった。ただ店内には濃厚な日本酒とおでんの香りが立ち込めていた。
「いい匂いするよねっ」
大山さんがカウンターに向かったので俺もカウンターに着く事になった。正直言って、山元の実家以外のバーのカウンターに座った事が無い。俺はキョロキョロしないように相当努力した。
「おでんお願い。三瀬君もいいよね?」
「あ、はい」
「静岡おでん、美味しいよぉ?」
黒いおでんだという知識はあった。
「日本酒どういうのなら大丈夫?」
「冷酒なら」
「そう、じゃあ。磯自慢の冷やで適当にっ!」
「かしこまりました」
店員は少し痩せたEXILEメンバーのような30代の男だった。
出された黒々とした竹串で刺されたおでんには鰯節と青海苔が振り掛かっていて、芥子と店特有らしいゆず胡椒が添えられていた。酒は手焼きらしい歪んだ、コップなのか? ぐい呑みなのか? 判然としない器にたっぷり目に注がれていた。
「じゃあ乾杯、お疲れ」
「はい、お疲れ様です、大山さん」
俺は自分の杯を大山さんの杯に重ねた。一息で、4分の1くらい酒を飲んだ。思ったより入り易く、果実感のある酒だった。
「あーっ、美味し」
「ですね。御馳走様です」
「ふふっ、おでんも美味しいよぉ? 食べな」
「はい」
迷ったが、まずはやっぱり名物の黒はんぺんの串を取った。この串で食べるのがちょっと緊張する。鰯節と青海苔も溢しそうだ。俺は、芥子をちょっと付けて、黒はんぺんの端からかじりついた。
「ん?」
思ったより歯応えがある。小骨を砕いたようなのも入っている。普通のはんぺんより魚の主張が強い。
「へぇーっ、何か面白いですね。バター焼きにしても美味しそう」
「そうっ! 黒はんぺんのバター焼きも美味しいんだよっ、わかってるねぇ三瀬君っ!」
大山さんは俺の肩をはたいてきた。中々いいテンションだな、大山さん。
俺達は暫く濃厚な静岡おでんと、飲み易い地酒を楽しみながら当たり障りなく、料理や『みのだ』の業務の話をしていた。大山さんがそこから切り込み出したのは三杯目の冷酒を飲み出した辺りだった。
「店長とは、二年前に一応別れたよ。店に残ってたのは、お金が無かったのと、新しい仕事探すのが億劫だったから、する事無くてさ。給料とは別に援助してもらってたんだよ」
大山さんは酒をあおり、こちらを見てきた。年齢や普段の眠たそうだがサバサバした振る舞いとは程遠い、消え入りそうな怯えた目だった。
「ガッカリした? 思った以上につまんない負け犬女で?」
俺は、何を言うべきか?
「俺、別に、あなたに何も期待してませんから。大丈夫です」
「ふふふっ、三瀬君。君、言うよね」
大山さんは「そっかそっか」と呟きながら、薄く笑みを浮かべていた。
その後、大して酒に強そうでもないのに更に三杯飲んだ大山さんは泥酔し、俺は大山さんに肩を貸して、家まで送る事になった。朧橋を通ると遠回りなので、国道沿いを歩いていると「おまっち! 桜は?」と騒ぎ、八木の騒動も繰り返し聞いてきたので何度も、いくらかボカして話して聞かした。
そうして大山さんの住むコーポが見える所まで何とか連れて来ると、
「見えたぁーっ! うちっちっ!」
また騒ぎ、そのまま道路に座り込んでしまった。
「大山さん、ダメですよ? アスファルトは冷えますから」
大山さんは項垂れて、黙っていたが、不意に言ってきた。
「ガム持ってる?」
「え? ああ、ありますよ、確か」
急に標準語に戻ったので戸惑ったが、俺は急いでボディバッグからガムのケースを取り出した。
「2個ちょうだい。しゃんとするから」
俺は要望通り、大山さんにガムを二粒渡し、自分も一粒口に入れた。甘い味だ。大山さんも続けて2粒口に入れて噛んだ。
「ピーチミント?」
「いや、リラックスミントって書いてあります」
「ふーん」
大山さんは座ったままガムを噛んでいたが、少し味が薄らいできた頃、意外な程スッと立ち上がり、包み紙にガムを出した。
「ありがと、スッキリした」
「はい」
「三瀬君」
「はい」
「ウチ、来る?」
試すというより、問うようだった。俺は自分のガムを包み紙に出した。
「はい、あなたがよければ」
「そう」
大山さんは薄く笑って、コーポの方へと歩き出し、俺も続いた。
コーポの大山さんの部屋は思ったより寒々しいものだった。キッチン、バス、トイレ、やや広い和室が一間、押し入れ、ベランダは無いが一番大きな窓に手摺はあった。ただ、物が、少ない。生活に必要な物以外、何も、何一つ無かった。
「夢があってね。2年くらい前までは色々してたんだけど、ある時、『あ、わたしじゃ無理なんだ』って気付いちゃって、全部辞めて、全部捨てた。そしたら、あれもこれも必要無い気がして、今はこんな有り様。酷いね」
「もう出てゆくんですか?」
思ってもみない事が口から出た。大山さんは振り向いて、目を見開いた。一筋、涙が溢れる。大山さんはすぐに素手でそれを拭い、笑顔を作った。
「わたし、今、結構モテ期でね、結婚相談所にされた紹介43歳の不動産屋にプロポーズされてる。バツイチで子供一人いるけど、産む手間省けるわ。それから、高校の時付き合ってた彼氏が地元でパン屋始めるから一緒にやろうってプロポーズされた。凄いいいヤツ。あと、店長からもプロポーズされちゃった。これ、一番困ったな。離婚するってさ。慰謝料凄い事になるよ? 養育費もあるし」
大山さんはすっかり泣き止み、冷蔵庫からライムを、冷凍室からロックアイスを取り出した。
「飲み直そう! ウォッカの美味しい飲み方教えてあげる。そこ、座って」
大山さんは左手にライムの袋、右手にロックアイスの袋を持っていた。
「座って」
もう一度、言うので、俺は畳みの上に置かれたテーブルの前に座った。
大山さんはテーブルにグラス2つと、マドラー1本、トング、タオル、ウォッカのボトル、ロックアイスの入ったアイス・ペール、カットしたライムを並べた。
「まず、氷を入れて」
トングで2つグラスにロックアイスを入れる大山さん。
「それから、氷に直接ライムを注ぐ。種は気にしない」
ライムを握り潰し、氷に果汁を注ぐ。
「それからウォッカを注いで」
ウォッカを注ぎ込む。
「ステアは3回で十分」
マドラーでゆっくり、3回ずつステアした。
「これで、出来上がり。チェイサーは後で持ってくるから、飲もう、三瀬君」
「はい」
差し出されたグラスを受け取った。
「乾杯っ!」
「はい」
グラスを合わせ、一息飲んだ。強烈だった。ウォッカのオン・ザ・ロック。ライムも強い。美味いが、胃に火が点きそうだった。
「これこれっ! 大学生の時さぁ、本当に好きな人がいて、その人に教わったんだ。この間、10年ぶりくらいに作ってみたら笑っちゃう程、美味しくてね。それから病み付きだよ、ふふっ」
大山さんの目は遠くを見ていて、幼く見えた。その時代の大山さんに戻っているのかもしれない。
「大山さん、俺」
「いいからいいからっ! 何か、上手いこと言おうとしないでね?」
「違います」
大山さんはグラスを置き、畳みに膝をついてにじりよってきた。
「さっきの、学校の友達の話」
「ああ、はい」
「友達の為に集まって、悪いヤツをやっつける何て、ヒーローだね」
「そんなんじゃないです。その時々で、考え無しでバカな事しただけです。友達の事も迷惑なヤツって思ってましたし」
大山さんは俺の肩に両手を掴むようにした。俺もグラスを置いた。
「その行動の事実が全てだよ。あなたの行動の結果がヒロイックなら、あなたはヒーロー。でもね」
大山さんは俺に軽くキスをした。
「あなたは、これから、どの時点で、ヒーローを辞めてしまうの? 必ず、ね」
強く体を引き寄せ、大山さんは激しくキスをしてきた。彼女の舌はウォッカとライムの味だけしかしない。さっき渡したガムの味も、バーで食べたおでんや飲んだ日本酒の味も、しない。今夜の出来事が、過去の出来事によって拭い去られてしまった。悔しかったが、俺はただのガキで、彼女の過去にも現在にもこれからにも、何も、手出しは許されない。
その次の日から大山さんは仕事を休み、そのまま退職してしまった。誰とも結婚はせず、福島県で友人達が国の助成で始めたという蚕を育て、絹製品を手作業で作る仕事に加わるらしい。店では人生捨ててるとか、助成金目当ての乞食みたいなもんだだとか、散々な言われようだった。店長はいつもと変わらない様子で、心の内は見せなかった。
そういえば勝山はいつの間にか学校を辞めていたが、学校側から特に説明は無かった。新しい古文の教員は何だか馬みたいな顔をしたヤツで。早速生徒達から『馬蔵』とニックネームを密かに付けられていた。
翌週の月曜には八木が『物凄い風邪から奇跡的に生還した』と3班以外の友人や演劇部員達に言いつつ、ひょっこり学校に復帰してきた。
その週の水曜日の昼休み。俺はフェンスで念入りに囲われた学校の屋上に来ていた。校舎の三階建て部分の屋上は立ち入り禁止だが、二階建て部分は昼休みのみ立ち入り可能だった。結構人は多く、禁止されているバレーボールをする一年の女子グループもいた。軽音部ヤツらがミニライブみたいな事もしているが、下手なので客は少ない。俺はフェンス越しに校庭の桜を見下ろしていた。今日の放課後、ベテランバイトの大山さんが抜けた穴が大きかったので、シフトが改まるまで本社から人が来る事になっている。かなりやり手らしく、古参の従業員達は来る前から相当煩がっていた。
俺は、ちょっと困ったな。とか、そんな事を考えていたんだと思う。
「三瀬っ!」
呼ばれて振り向くと、階段室の前に山元がいた。購買のビニール袋を持っている。俺は片手を上げて合図した。何か用か? 山元は小走りに寄ってきた。
「お前、時々、ふらっといなくなるの小学生の時からかわんねぇな。これやるよ」
山元は購買の袋からラップで包装されたパンを渡してきた。
「おう、ありがと。何パンだこれ?」
「ナポリタンパン、だってさ。新発売」
「ほぅ」
俺は包装を解いて食べてみた。
「お、ソフト麺っぽいな」
「だろ?」
「ふーん、いいなコレ。今日奢ってもらったから、明日奢ってやるよ」
「おお、それはまあいいんだけどさぁ、三瀬。あの件どうなったよ? 何か、ハッキリ結果聞いてねぇぞ?」
自分はメロンパンをかじりながら聞いてくる山元。
「忘れてた。たい焼きは週末でも持ってくよ」
「そこは、いいって! アラサーフリーター女とはどうなったんだよ、んん?」
俺は苦笑した。山元はただの出歯亀ではない。俺の様子がおかしいので、心配しているらしい。
「寝た」
「おおうっ、まぁなぁ」
「でもすぐ、あの人は、そうだな、『田舎』に行った」
「田舎? 実家に帰ったのか?」
「帰ってない。都会から実家に帰るの、きっと難しいんだよ。だから、別の『田舎』に行った。友達の仕事手伝うらしい。それだけ」
「ああ、そっちのパターンかぁ」
どっちだよ? 大袈裟なリアクションの山元にツッコみたくなる。
「まあ、向こうは最後の思い出作りだな。役得じゃねぇか? 三瀬っ! 美人だったんだろ?! いいなぁ。芸能人だったら、誰系?」
「系って」
俺は笑ってしまう。山元は自分の好みのタレントを列挙し始めた。
出勤前に、俺は桜並樹のある川沿いに来ていた。買い直した中古自転車に乗ってきたから、『みのだ』に入るまでには時間がある。俺は朧橋まで漕ぎ出す。ゆっくり漕いでも当然歩くよりずっと速い。風と花弁を感じれて、良い香りがした。朧橋が見えて来ると俺は立ち漕ぎになる。
「よしっ!」
もう一漕ぎして朧橋まで、来た。停めて、橋の向こうを見る。並樹の桜の花弁が散って橋に掛かっていた。風が吹くと風と一緒に花がくるくると回って生き物のようだ。だが、ここには誰もいない。酒屋の配送車が一台橋を渡って行っただけだ。あの人はここに何も残さなかった。花弁が舞って、ただいなくなったと、それだけ知らせていた。