九月姑獲鳥 2
検診の結果は良かったが産婦人科医院を出た途端、貴代は不機嫌になり「トマトジュースとアロエヨーグルトを買ってきてよぉっ」とゴネだし、仕方無く宏一は公園の屋根付きの休憩スペースに貴代を待たせ、一応食べかけの『今年も剥け始めっ! 甘栗剥きまくりました。国産12パーセントっ』も渡してコンビニへと急いだ。
公園から一番近いコンビニまで少し距離があったが、住宅街の間の車も通れないような細道を使えば、少しはショートカットできる。宏一は速足で細道を進んでいた。と、
「ん?」
奇妙な気配を感じた。『上』だ。上からその気配を感じる。それは、近付いてくる。宏一はブワッと全身に脂汗をかいた。この感覚を『知っている』ような気がする。
「な、何だ?」
立ち止まった宏一は『絶対に上を見てはいけない確信』を感じていたが『いつものように』反射的にそちらを見てしまった。
「鳥?」
鳥、のように見えるモノが降下してきていた。それはどんどん近付いてくる。大きい、大き過ぎるっ! 人間並に大きいっ、人間の半裸の女のようだ。思い切り、宏一と目が合っている!
「どぅおおおおおぅっ?! 鳥、じゃ、ない方だぁっ!!」
宏一は仰け反って後ずさった。その鳥『じゃない方』のモノ、姑獲鳥は宏一の目の前に降り立った。容姿の整った女と鳥の中間の様な姿。腐臭と血臭が漂う。姑獲鳥は、ギョロギョロと、まるきり鳥の仕草で目の前の宏一の全身を見回した。
「・・・私が、見えて、いるな? 聴こえて、いるな? なぜだ?」
「な、なぜでしょう? ハハハっ」
宏一は必死で愛想笑いをした。『覚えていない』が、こういう『会話できるヤツ』は下手に出るのが一番だと宏一は『知って』いた。敵意を見せたり、混乱したり、恐れたりするは絶対にマズい、と『知って』いた。
「お前は・・・私の敵かッ?」
「違いますよぉっ! 大丈夫ですよぉっ! わたくしは、野間宏一と申しますっ、とても良い人間ですよぉ? 大丈夫大丈夫っ!」
「ノマコウイチ・・・」
「そうです! 野間ですっ、野間宏一です。ごくありふれた野間です。あなたは、その、御名前を伺ってもよろしいですか?」
宏一は愛想笑いをキープしたまま、必死で状況を整理した。狭く細長い路にいる、相手は飛べる、明らかに安全な相手ではない、何となく『毒』の類いを持っている気がする、この『何となく』たぶん正解、今の自分の持ち物は・・・・
「私は、名前は、忘れた。だが、私達は『姑獲鳥』と呼ばれる」
「ウブメですか、それはそれは」
持ち物で使えそうなのはスマホのフラッシュ、お茶のペットボトル、山元聡の祖父にもらった霞真淵神社の御守りの三点くらい。御守りは最後にとっておくべきだと思った。かといって、フラッシュと常温のお茶では大した効果は期待はできない。何か、糸口が欲しかった。
「あのぅ、ウブメさん。私は『敵』ではないのですが、どういった御用件でしょうか?」
「・・・手伝え」
「えっと、何を?」
「赤子を」
「赤ちゃん、ですか?」
「拐う」
「え?」
「人間の赤子を拐い、その子は私と暮らす。死ぬまでッ! 幸せにッ! あの子を助けなければならないッ。あの子だけはッ! あの子だけはッ!」
姑獲鳥は興奮し始めた。
「えーとっ、ちょっと待って下さいね。赤ちゃんを誘拐するという事ですね?」
「私の子ッ! 私の子ッ! 私の子にするッ! 死ぬまでッ!」
「あ~なるほど、そういう感じ何ですね。あ、ウブメさん、ちょっとこのボトル見てもらえませんか?」
「ケケッ?」
宏一がキャップを開けたお茶のペットボトルを差し出すと、姑獲鳥は案外素直にボトルに注目した。
「失礼します」
宏一は一言断ってから、ボトルの中のお茶を姑獲鳥の目にブチまけた。
「ケケェッ?!」
姑獲鳥が怯んだ隙に、宏一は素早く細道の片側の塀を乗り越えた。
「赤ん坊誘拐とか冗談じゃないっ!」
宏一は必死で駆け出した。
屋根付きの公園の休憩スペースで、貴代はぼんやりとベンチに座っていた。宏一にもらった甘栗はとっくに完食済み。適当にわがままを言ってみたが、宏一は聞いてくれた。今日は部の練習を途中で抜けて付き添ってくれてもいる。確かに退屈なヤツだが、意外といいヤツでもあるのかもしれない。そう思い始めていると、
「んっ?!」
異様な感覚を感じた。と、同時に一刻も早くこの場を離れたい衝動に駆られる。それを感じたのはどうやら自分だけではなかったらしく、公園にいた他の家族連れや、カップル達、犬の散歩に来ていた人々なのが、一斉に糸か何かで引っ張られたようにして公園から去り始めた。自分も、それに続きたい。貴代は強くそう思ったが、一方で今、去るのはマズい気がした。『何か、宏一だけ残して逃げるのはマズい』感覚があった。何なら『これから起こる事は十中八九、宏一のせい』とも思ったし『あ~、またコレかぁ』とも思った。
「何? どういう事っ? 私? 何か、慣れてるっ?!」
貴代が困惑しつつ、ただ一人、公園に残っていると、貴代のスマホに着信が入った。
『ヤバい 鳥 そっち行く 何か武器ある?』
宏一からのメールにはそう書かれていた。
「武器っ?! 鳥っ?! 来ちゃうのぉっ?!」
驚きながらも、貴代は自分でも不思議な程、状況やメールの内容に混乱する事なく、手際よく持ち物を確認し始めた。使えそうな物は、折り畳み日傘、日焼け止めスプレー、スマホのフラッシュ、霞真淵神社の御守りくらいだった。貴代はスプレーと御守りを鞄からポケットに入れ直し、折り畳み日傘は伸ばした状態でボタンを止めて手に持った。
「よ、よしっ。取り敢えず、オッケーっ」
貴代は『準備』を整えて周囲を見回した。異様な『人払い』の妖気に包まれた無人の公園はどこか舞台じみていた。高揚する。普段、宏一にはややズレてると自覚のある自分がダシにされている気がしていたが、貴代貴代で、日常を越えた『何か』を宏一に期待しているような気がしていた。
「ギブアンドテイク、何てねぇ」
呟いていると、
「貴代っ!!」
公園に宏一が走り込んできた。
「宏一っ!!」
叫び返すと、こちらに真っ直ぐ走ってくる背後に『鳥』の様なモノが飛来した。人間並みの大きさの鳥とも半裸の女ともつかない姿をした怪物、『姑獲鳥』であった。
「宏一、後ろ後ろっ!!」
宏一の背中に向けて、姑獲鳥の足の鉤爪が迫るっ。
「だぁっ!」
宏一は横に転がってこれを回避した。
宏一に避けられた姑獲鳥はそのまま貴代に向かって滑空してきた。
「ケケェーッ!!」
「来たぁっ!」
下手に逃げ回るより飛び辛い場所の方が有利だろうと、貴代は屋根付きの休憩スペースで待った。
「貴代っ、いい感じでっ!」
「何、そのアドバイスっ、バカっ!!」
宏一の適当な声援に怒鳴り返し、左手で日傘を構え、右手は日焼けスプレーを仕込んだポケットに入れた。
「女ッ! ケケェーッ!!!」
姑獲鳥は足の鉤爪を振り下ろした。
「うわっとっ!」
貴代は手狭な休憩スペースで器用にこれを避けた。空振りした姑獲鳥の鉤爪は貴代の背後にあったベンチを叩き潰した。
「子供ッ! 子供ッ! 私の子供ぉッ!!」
狭い休憩スペースで喚いて暴れる姑獲鳥。貴代は日傘の尖端で威嚇しながらタイミングを計った。
「子供って何だよぉっ? そもそもお前何だよぉっ?!」
「あっ、貴代、その方は『ウブメさん』。何か人間の赤ん坊を誘拐して『死ぬまで』育てたいみたい。自分の子供と人の区別がつかなくなってるみたい何だよ、参っちゃったねっ!」
いつの間にか近くの植え込みの陰に隠れて呑気に言ってくる宏一。
「ちゃったね、じゃないわぁっ!」
「ケケェーッ!!」
姑獲鳥は再び貴代に飛び掛かり、貴代がギリギリで避けると今度は休憩スペースの屋根を支える柱の1本を叩き折った。屋根全体が大きく傾く。
「ヤッバぁっ、宏一、手伝ってっ!」
「走り過ぎて、今、膝が生まれたての仔山羊みたいになってるから、暫く見守るよっ。最大の誠意でっ!」
「その『誠意』、いらないよぉっ!!」
「ケケェーッ!」
貴代は三度飛び掛かってきた姑獲鳥の攻撃を避けつつ間近で日傘を開いて怯ませた。
「女ッ! 邪魔するのかぁッ!!」
姑獲鳥は日傘を喰い破って更に貴代に襲い掛かろうとしたが、
「アンタが勝手に突っ掛かってきてんでしょうがぁっ!!!」
貴代は日焼け止めスプレーを姑獲鳥の顔面に吹き付けた。
「ケケケケェーッ?!!!」
スプレーが目に入り、痛みで暴れ回る姑獲鳥。
「うっはぁっ!! ライター持ってたら今ので勝てたかもぉっ?!」
貴代は言いながら休憩スペースを飛び出した。
「貴代っ、凄いっ。バイオハザードならナイフ1本でイケる口だねっ!」
「うるさいよっ、宏一っ! とっととズラかるよっ!!」
「よしきたっ!」
宏一は植え込みの陰を出ると、貴代を置いてバスケ部で鍛えた脚力で一目散に走り去り始めた。
「ちょっ?! 何が生まれたての仔山羊だよっ、超走れるじゃんっ!! オイっ! 置いてくなよぉっ! 私、彼女だよぉっ?!」
「OKOKっ!!」
一切足を止めない宏一。
「何がOKだよっ、ど畜生ぉっ!! 絶対今度こそっ、別れてやるっ! 凄いバカぁっ!!!」
貴代は罵倒しながら宏一を追い掛ける形で逃れて行った。