九月姑獲鳥 1
その姑獲鳥は自分が『発生』した経緯ははっきりとは覚えていない。とある関東の山奥の土の中から現れた。確か、男達に埋められた気がする。確か、自分はまだ生きていた気がする。確か、児は既に腹には居なかった気がする。よくは覚えていない。埋められてからいつ死んだのかもわからない。土の中で、やがて骨まで溶ける頃、他の無数の姑獲鳥達の声が聴こえ始めた。
その声に誘われるまま『変化』し、再びこの世に現れた。姑獲鳥の中には児を抱いて現れる者も少なくないが、その姑獲鳥の児は最初から失われていた。『人』であった頃、これ程の喪失感と渇望を感じた事はたぶん無い。土から出て児の喪失に気付くと、腐った肉と血の臭いにまみれた女と鳥を掛け合わせたような姿で、その姑獲鳥は泣き叫びのたうち回って哀しんだ。あまりの哀しみに発生した傍から消滅しそうになった程だったが、無数の同族達が励ます声がまた聴こえた。
『盗め』『奪え』『拐え』『盗れッ!』『お前が母だ』『私達こそ母だ!』『産んだ者より失った者が児を得るべき』『妬ましやッ! 妬ましやッ!』『母足りた女どもッ、妬ましやッ!!』
その姑獲鳥は泣き止み、代わりに笑った。この痛みをどうすべきか混乱してしまったが、そうか、憎めばよかったのか。
「ケケケェーッ! ケケケェッ!!!」
山の中、その姑獲鳥はけたたましく鳴いて笑い続けた。
八木貴代が産婦人科医院の診療室から出ると、野間宏一は狭いロビーの横長のソファの端でもそもそと剥けた状態の甘栗が詰められた『今年も剥け始めっ! 甘栗剥きまくりました。国産12パーセントっ』のパックから甘栗を取り出し、口に運んでいた。貴代は心底脱力した。確かに勝山は明らかに外れだった。今思えばどこに逆上せ上がったのかよくわからない程だ。だが貴代は恋をすると毎回逆上せ上がるので、こういった『終わった恋のガラクタ感』を味わう事自体は特別珍しい事ではなかった。問題は運悪く中絶するハメになってしまった事。体調が戻るのに時間がかかり、貴代の母がナーバスになっている事もあって九月になった今も検診に通っていた。
幸い子宮等のコンディションはすこぶる良好だったが、中絶以来、どうにもセックスに抵抗を感じるようになっていた。それまで惚れっぽい事もあり、機会は多い方だっただけに貴代は不安に駆られ、知っている身近な男の中で一番『無難』でなおかつセックスをさほど意識しなくても問題無さそうな宏一と改めて交際してみる事にしたが、想定を越える退屈さと、退屈なクセにどうも自分がダシにされているような感覚がある事、そして余りにも退屈過ぎて一緒にいると時々『記憶が飛ぶ』事、が気になっていた。記憶が飛ぶ程退屈とはどういう事だろうか? ロビーの端で冬籠り前の小動物のように剥き栗を食べ続けるこの男っ! 貴代はある種の『凄み』すら宏一に感じていた。
「検診終ったよぉ」
素っ気なく話し掛けると、宏一はあたふたとした。
「どっ、どうっ、ゲホっゲホっ!」
剥き栗にむせる宏一。
「げ、ゲホっ! だ、大丈夫だった? ゲホっ! ゲホっ!」
「そっちが大丈夫かよぉ。支払い済ませてくるから外で待ってて」
貴代は今度は飲んだペットボトルの茶にむせだして周囲の妊婦を困惑させてる宏一を放って窓口に向かった。
姑獲鳥は吸い寄せられるように霞ヶ丘の上空に現れていた。霊気が濃く、居心地がいい気がした。この街だな。ここで『児』を拐おう。その『児』が死ぬまで巣で囲おう。その『児』が死んだら次の『児』を拐おう。そうして『幸せ』に暮らそう。愛すべき『児』らと共に。
「ケケェーッ!」
姑獲鳥が『幸福』の予感に、飛びながら高く鳴き声を上げていると、一羽の別の鳥の化生(化生)が近付いてきた。黒い、中型犬程の大きさのある雀のような姿をした化生、夜雀であった。
「おんしっ、姑獲鳥かいのうっ? まだ発生したばかりじゃろう? 妖気を大っぴらに出し過ぎちゅうのぉ、目立つきにっ」
「何だッ? お前っ、私の邪魔をするつもりかッ!」
「まあ、落ち着きやっ。この土地の気に寄せられたゆうんはわかっちゅうきっ。おんし、現れたばかりで、欲と恨みしか頭にないんじゃろ? 他の土地で暴れる分にはワシらの知らんことじゃ、だがこの土地は不味いっ、ワシらも縄張り」
「ケケェーッ!!」
夜雀の話が終わらぬ内に、姑獲鳥は奇声を上げて体当たりを仕掛けてきた。
「どわっ?! 何しゆうがっ?!」
「邪魔をするなっ! 邪魔をするなっ! 私は『あの子』を取り戻すッ!!」
「あの子? だからっ、それはおまさんが人間やった頃の話やきにっ! そんな『子』はとっくに」
「ケケケェーッ!!!」
姑獲鳥は中空で踊る様にして翼を羽ばたかせ、血生臭い旋風を起こした。並の人間が受ければたちまち病の毒を受ける風に夜雀は巻き込まれた。
「おおぅっ?! 姑獲鳥っ、ワシは忠告したきにのぉっ!!」
叫びながら、夜雀は吹き飛ばされていった。
「ケケケッ、何が忠告よっ! 私の邪魔は誰にもさせないわ。私は母親になる、ならなくちゃっ、あの子を助けられるのは私だけ。あの子を助けなくちゃ、あの子だけは助けなくちゃっ! 待っててっ、今、『助けて』あげるわッ!! ケケケケェーッ!!!」
姑獲鳥は奇声を上げ、失った『児』を求め、街へと降下して行った。