六月猫 4
「嘘っ」
寧々は俺の背中にしがみ付いてくる。
「ホントに、来たかっ」
俺は両手の鉄アレイを握り締め、脂汗をかいた。どっちなのか? と思う。
純くんの幽霊のようなモノなのか? それとも、おそらく純くんの仇であるえの魚のようなモノ達が純くんの姿を借りてるだけなのか?
後者なら到底許せなかった。
「純くんなのか? それとも、純くんを襲った、化け物か?!」
窓に向かって叫ぶと、笑い声がした。
「それ、意味ある?」
「何?!」
「僕、遊びに来たんだよ?『招いて』よ、入り難いから。これは、3年2組、竹塚純一君の、体。君のトモダチだよっ! あっはっはっはっ!!」
そいつは心底楽しそうに笑った。
「お前っ!」
頭に血が上った俺が窓に近付こうとすると、
「ダメ! 岳ちゃんっ、『これ』とは話さない方がいいっ!」
寧々は俺の腰を抱え込んで止めた。
「寧々っ! 離してくれっ、コイツだけはっ!」
「コイツだけは、何?」
窓の外の目の前に、カーテン越しに子供の影が映っていた。ここは二階だ、飛べるのか。
「お前、生意気。少し楽しもうって思ったけど、やーめた。招かれなくてもいっか。喰っちゃおう、フフフっ」
ヤツの影の後ろに例の大きな魚の影がいくつも現れた。
「寧々、逃げてくれっ。俺はケリをつける」
「嫌だってっ」
カーテンの影から目を離せないが、寧々は俺の腰に腕を回したまま、がっちり固定していた。
ヤツの影が両手を拡げ、襲い掛かる構えを見せた。
「早くっ」
俺は身をよじって寧々を引き離そうとした。その時、
バンッ!!
炸裂音と共に、青い光がカーテンの向こうで瞬き、ヤツの影を真横に吹き飛ばした。魚の影達も飛ばされたヤツを追ってゆく。この青白い光、子供の時見た青白い炎と同じに思えた。
俺は、寧々が呆気に取られた隙に腕を解いて窓に向かい、カーテンを引き開けた。
「岳ちゃんっ!」
寧々は止めようとしたが、構わず、窓のロックを外し、窓を開け放つ。
途端、部屋の中に、煙のように濃い、いや濃過ぎる霞が勢いよく流れ込んできた。
俺は霞の中で目を凝らし、ヤツが吹き飛ばされたように見えた方を見た。霞の向こうに、四本の尾を持つ虎か獅子並みの大きさの猫のような影が宙を駆けるように飛び去るのが見えた。
「あの時の猫っ! 寧々はここで待っててくれっ」
俺は部屋を飛び出したが、寧々は当然のように走ってついてきた。
「寧々っ?」
「私、君の思った通りに動かないよっ」
階段で立ち止まって見詰め合う。霞は階段まで立ち込めつつあった。生臭い匂いではなく、少し甘い香りがした。寧々は引き下がりそうになかった。
「わかった。ただ、御守りは寧々が持っていてくれ」
「うん」
二人で三和土まで来ると、不意に洋間から母が顔を出した。
「ちょっと、さっきから何の騒ぎ? あれ、寧々ちゃん?」
寧々に気付いた瞬間、母の周囲に濃い桃色の霞が掛かり、母は崩れるように家の廊下に倒れて眠り出した。
「おばさん?!」
「あの猫の力だ。俺も昔、やられた」
「だったら私達は?」
「わからない。だが、追う事自体は避けられてはいないんだと思う」
寧々は戸惑っているようだった。無理はない。
「母さんはきっと大丈夫だ。行こう」
俺は鍵を開け、玄関のドアを開けた。
俺と寧々は濃い、霞の中を走っていた。あの猫が飛び去った方へ走っていたが、確証は無い。
ただ所々で、道端に不自然に倒れて眠っている人々がいた。いや人だけじゃない散歩中の犬が飼い主と一緒に眠っていた。バイクや車を停めて眠っている人もいた。
あの猫が、一応事故にならないようには配慮しているのか? どの車両も穏便にその場に停められていた。
「これもその猫みたいなのの力? これだけ見ると、ちょっとメルヘンな感じもするけど」
「あの猫は一体何だろう?」
「人間の味方、かも?」
「そんな都合のいいモノかな?」
俺はアレが、そこまで都合のいい存在とは思えなかった。考えながら走っていると、早く走り過ぎて、寧々を引き離してしまった。俺は足を止めた。
「ごめん、足手まといになってるよねっ」
寧々はあまり走るのは得意じゃない。
「いや、トレーニングの癖で」
寧々が追い付くのを待って、速さを合わせて走り出した。
やはり、というべきか? 道で人が倒れて眠っているのを辿るようにしてそのまま進んでゆくと、川の傍に来た。周囲の霞が濃くなり、また生臭いような臭いが漂い始めていた。
「ここだな」
「いるの?」
霞の中、街灯の明かりを頼りに二人で周囲を見回す。
すると影が、過った。
「ゴッゲッギャギャギャッ!!」
例の鳴き声だ。影は一つ、二つ、三つ。三尾いるっ! 周囲を飛び回ってる。
「寧々、気を付けてっ!」
「わ、わかったけど」
寧々は御守りを手に、困惑しているようだった。俺は鉄アレイを構える。今度こそ、今度こそっ!
影の一つが、掬うように滑空して、降下してきた。俺は目を凝らし、狙いを定める。霞の中から、そいつは姿を現した。
魚、ではあった。単眼で、体のあちこちに突起を持ち、鋭い牙の口を開け、中空の霞の中を『泳いで』俺達に向かって突進してくる。
大きさは影の印象通り中型犬くらいだ。あの大きさとこの速度、あの牙。まともに喰い付かれたら骨ごと持っていかれるのは間違いなかった。
「岳ちゃんっ!」
「大丈夫っ」
この牙の突進を『拳打』とみればむしろシンプルだ。絶対返せるっ! 落ち着けっ。
「ゴッゴッゲェッ!!」
その『魚』は、奇声を上げ、大口を上げて喰い付いてこようとした。俺は正確に、ストレートの動作を応用して横にしなるように拳を払い、『魚』の頬に鉄アレイを思い切り打ち込んだ。
「ゲッゲェッ?!」
顎を外して、『魚』は霞の向こうに吹き飛んでいった。
「いけるっ!」
俺は構え直し、他の二尾と、今吹き飛ばした一尾の動きを目で追った。
「やっつけられそう? どういう理屈で飛んでるんだろう?」
寧々は不安と困惑が入り交じった様子だったが、理屈は俺にもさっぱりだ。
と、二尾が上空から同時に滑空してきた。
「寧々っ、少し離れてっ」
「うんっ」
視界の端で、寧々が離れるのを確認し、俺は試しにフットワークで降下する二尾に揺さぶりを掛けてみた。
二尾の内、一尾が反応して、もう一尾よりやや先行する形になった。よしっ、一尾の突進速度は増したが、二尾同時に襲われるよりマシだ。
俺はほぼ足を止めて、待ち構えた。
同じ打ち方はさっきのヤツへの攻撃を見切られているかもしれない。俺は外へ払うストレートの応用打ではなく、内に巻き込むフック気味のストレートで拳の親指側の鉄アレイで先頭の一尾の大口を開けた片頬に打ち込んだ。
「ゴッゲェッ?!」
さっきのヤツ同様、先頭の一尾は顎を外して、霞の向こうにぶっ飛んでいった。
立て続けにもう一尾が突進してくる! コイツにストレートはもう間に合わないっ。俺は緊張で瞬間的にブワっと全身に鳥肌が立つのを感じながら両足を半歩、左サイドに素早く移動させた。
もう一尾は一瞬突入する『射線』を外されて、戸惑うような顔を見せたが、すぐに中空で、本当に泳ぐ魚が水中でするのと同じように、簡単にその場でクルっと進行方向をこちらに変えてきた。
だが、突進に急ブレーキが掛かった形になり、隙だらけだ! 俺は右のジャブを応用させた打ち方で、相手の大口を開けようとした鼻先に小指側の鉄アレイを打ち込んでやった。
「ゴォッ?」
『魚』は中空で怯んだが、これくらいでは攻撃は止めず、更に大口を開けて襲い掛かってこようとした。
『魚』は知らないようだ、ジャブのヒットは次の打撃に繋がるっ!
「ふぅっ」
俺は小さく息を吐いて、試合でもスパーでも、自分にも相手にも危険過ぎてまず使わない、大振りの前傾姿勢の右フックを応用させた打撃を打ち込む! 相手の『単眼』に命中する直前で拳を回して小指側の鉄アレイを目玉に打ち込んでやった。
グチャッ!!
『魚』の目玉は叩き潰され、勢いで体ごと地面に叩き付けてやった。
「ゴォッ、ゲッ! ゲェッ」
飛び立てず、叩き付けられたまま痙攣して泡を吹き出す『魚』。
「目が弱点なのか?」
呟いて、痙攣する『魚』を見ていると、
「きゃああっ!」
後ろで寧々の悲鳴が響いた。
慌てて振り向くと、おそらく最初にストレートで外向きに払った顎が外れて閉まらないらしい『魚』が、寧々に突起だらけの体で体当たりを仕掛けようとしていた。
しまった! 間に合わないっ!
俺が手出し出来ずにいると『魚』の接近に呼応して寧々が持つ御守りから青白い炎が起こり、その火は獣の爪のような形をとって『魚』を引き裂き、焼き払った。『魚』は火の点いた薄い紙屑のように瞬く間に燃え尽きて消えた。
「寧々っ! 大丈夫かっ?」
俺は駆け寄った。寧々は両手に軽い火傷を負い、御守りも焼け焦げていた。
「大丈夫、だけど、この御守り凄い」
寧々も驚いているようだった。
「火傷はっ」
俺が、手当てに使えそうな物を何も持っていないにも少しあたふたしていると、寧々の方が先に気付いた。
「岳ちゃんっ!」
「えっ?」
寧々が見た方を見ると、霞の向こうから、フック気味のストレートで打ち払った残り一尾の顎を外したヤツが、俺達に体当たりを仕掛けようとしていた。
「ゴッゲッゲッ!」
不意打ちの形になったが、向こうはもう『噛み付き』が出来ない。ただの直前打撃だ。俺は冷静に小さな振りの左フックを使って親指側の鉄アレイで『魚』の頭を打って、体当たりを払った。
相手はすぐに中空で体を反転させてきたが、すかさず俺は右ジャブを使って小指側の鉄アレイを『目玉』を打ってやった。
「ゴッゲッ?」
浅い。怯ませたが、目玉を潰す程じゃない。俺は大きく踏み込み、目が開かなくなり逃げ出す素振りを見せた『魚』の、人間のような瞼で閉ざされた目玉にストレートを使って小指側の鉄アレイを思い切り打ち込んでやった。
パチャッ!
コンビニで売ってるゼリーのビニールの蓋を金槌で叩き破いたような音を立てて『魚』の目玉は弾けた。
「ゴッゲェッ!!」
吹っ飛ばされて、地面に落ちた『魚』は痙攣して泡を吹き出した。先に目を潰してやった一尾目のヤツを見ると既に体の肉が溶け落ちるようになって消え、骨も霞の中に脆く崩れ去り、掻き消えようとしていた。
「死骸も残らないのか、生き物なのか?」
「私達とは違う理屈で存在してるんだよ、きっと」
寧々も俺も、呆然と霞の中に滅びてゆく『魚』達を見ていたが、ストレートを使って倒したヤツの体が完全に消え去らない内に、霞の向こうで、
ドオォンッ!!!
一際大きな炸裂音が鳴り、御守りの火と同じ、あの日見たのと同じ、いやもっと大きい、青白い火柱が上がるのが、濃い霞の向こうに見えた。
「あの時の青い火だ」
俺は言って、寧々を振り向いた。寧々は頷いた。
「火傷は?」
「大丈夫」
「・・・・うんっ」
俺も頷き、俺達は青い火柱の上がった霞の向こうに走り出した。