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コトの後でしばらくまどろんでから、二人は神殿を目指して再び歩き出した。
どちらも無言だったのは……互いがてんでバラバラにこれからのことを考えていたからだろう。ナステスは一時の淫欲に身を任せたことをすでに後悔していた。
(あんな軽々しく抱かれてしまって、この人が王都に帰った後、あたしはどうやって自分を慰めればいいんだろう)
先ほど体の奥で受け止めた彼の熱が冷めてゆく。なんだか指先まで冷たいような気がして、ナステスは両手を軽くすり合わせた。
サブラストが、それに目ざとく気づき、声をかけた。
「寒いのか?」
「ああ、少し寒い……気がする」
「ふむ、これなら少しはマシかな?」
サブラストの手はあっさりとナステスの右手を捕らえた。もちろん彼女は狩猟の民だから反射神経はサブラストよりも早いはずなのに、それは肌を許した相手に対する油断ゆえに、だった。
「な、何をする!」
「手をつないだだけだけど、だめだった?」
「都会ではそんな気易く手をつなぐものなのか?」
「いや、相手にもよるかな」
少し不埒に大胆に、サブラストは彼女の指に指を絡めるようにして、掌を貝殻のように合わせた。
「ううむ、君の手のほうが少し温かいかね?」
「いや、そんなことはない。とても……温かい」
「そうか、よかった」
あまりに屈託のない顔で彼が笑うから、ナステスはほんの一瞬、夢を見た。
――彼は世界を回る船旅の最中だ。甲板には遮るものない洋上の太陽が強く照り付け、彼は肌を焼こうというのか下着一枚でデッキチェアに寝転がっている。あまりに日差しが強いから、体に毒だと思う。せめて日傘を差し出してやりたいと、甲板に脚を踏み出して……
「どうした、ナステス?」
「あ、いや……なんでもない」
一時、うたかた、儚い幻想に……ナステスは苦笑する。
「馬鹿だな。あたしはこの生活を捨てられないほど山を愛しているというのに」
「ん? 何か言ったかい?」
「なんでもない。独り言さ」
後はただ無言で、手の平だけで温もりを分け合いながら、二人は歩いた。
林を抜けることができたのは夕方も近くなってからだ。ぽっかりと林をくりぬいたように草地がひらけ、その真ん中に石造りの神殿があった。
「これは、なかなかに立派だねえ」
サブラストはもっと小さな、洞窟などを利用した古代の儀式場のようなものを想像していた。しかし、石を組んで泥で固めた建築様式こそ古いものの、ゆったりと大きく作られてところどころに飾り石などもはまり、見事なものだ。
「さあ、中に入ろうか」
手がほどかれた。風がすいっと手の甲を撫でる。
再び冷たく鳴り始めた指の先を一瞬だけ見つめて、ナステスは苦笑した。
(馬鹿だな、わかっていたことじゃないか)
彼の目的は最初からこの遺跡だと知っていたではないか。ならばここでその目的は果たされた。
先ほどの交わりに例え何らかの愛があったのだとしても、ナステスを置いてさっさと神殿に入っていった彼の背中を思えば、彼がそれを学問と両てんびんにかけてくれるとはとても思えない。
彼はおそらく誤解しているのだろう。ナステスが普通の女のように自分の嫁となり、王都までついてゆくとでも。
しかしナステスは村を出て彼についてゆくことにためらいがあった。
彼と旅をしてみたいとも、彼を愛しているとも思う。一時の肉欲などではなく、そう思う。しかしそれは夢物語に似た確証のない未来だ。
ナステスにとっての現実はこの山にある。幼い頃から駆け回ったこの山のことなら草木の一本までもありありと思い浮かべることができるのに、彼との未来となると、現実か夢かさえわからぬような自分勝手な妄想を思い浮かべることしかできない。
(あたしはこんなに優柔不断な女だっただろうか)
そう思えば、彼のひたむきな一途さが羨ましい。ナステスは彼のようにつないだ手を自分から振りほどいてゆくことなどできない。
「学問なんて、そんなに面白いのかねえ」
腹立ち紛れの一言を山の風邪だけに聞かせて、ナステスは神殿へと入った。
彼はすでに壁画の前にいて、何かを一生懸命にメモしている最中だった。
「ごらん、この壁画、上野部分は何度も王立図書館で読んだ。この神殿に祀られている神の創世の神話だ」
興奮しきった声で、彼は話を続けた。
「神は最初に女を作った。女は心優しく、寂しがりな生き物だ。それでも空腹には勝てず、女は森の動物を殺して食った。そのことを悲しんでいる女を慰めるために神は男を作った……王立図書館に写しがあるのはここまでだ。どうしてかわかるか?」
「……ここより後ろは残酷な、女の本性を暴く物語だからだろう」
答えるナステスの声は冷静だ。少し冷たいくらいかもしれない。
「同時に女は強欲で嘘つきな生き物でもある。だから神は女が飢えをしのぐために殺す動物の数を定め、これを守るように男に監視を言いつけた……こんな話を都会のやつらが好むわけないからね」
「さすがだ! やはり君は賢いな!」
浮かれてはしゃぐ彼の声が癇に障る。だからナステスはうつむいた。
そんなことに気づかないのか、サブラストは再びメモを取り始める。上機嫌で饒舌に口を動かしながら。
「これを持って帰れば、王立博物館に研究費の申請ができるな」
「……やはり、帰るのか……」
「それはそうだろう、荷物だって引き上げる準備が必要だし、家を売る手配もしなくてはならない」
「家を……売る?」
「ああ、ここに引っ越してきたら、王都に家はいらないだろう?」
「そんな……引っ越してくるなんて!」
「ああ、私は幸せ者だ。美しくて賢い妻と、生涯を捧げるべき研究テーマを同時に手に入れるなんて!」
この言葉にナステスは驚き、語気を荒げた。
「あんた、それでいいのかよ! こんな田舎じゃ十分な学問なんてできないじゃん!」
「言ったはずだが? 生涯を捧げるべきテーマだと。それに、学問なんてどこにいたってできるものだよ」
「友人とか、家族は! 王都に残してくるのかい!」
「別に死に別れるわけじゃないんだから、会いたくなったら王都まで出向けばいいだけの話さ。ほかには、何か不安があるかい?」
ナステスはほんの一瞬だけ言葉につまり、深くうなだれて上着の裾をひねった。
「……あたしは街場の娘みたいに着飾ることを知らない。だから、あんたみたいな都会モンじゃ、女として……可愛くないと思うんだ」
サブラストは、すでにメモの手を止めてじっとナステスを見つめている。俯いた表情は見えないが、彼女の耳が赤いことを知っている。
「ねえ、ナステス……どんな顔でそれを言っているのか、顔をあげておくれ」
「いやだ! 絶対に変な顔してる!」
「いいから、ほら」
さすがは男の力だ。嫌がるナステスの両腕を押し開いて、サブラストは彼女の顔を覗き込む。
「ああ、やっぱりかわいい顔をしている」
そのまま、彼はナステスの唇を吸った。
「女はやっぱり嘘つきだ。本当ははじめっからそれを気にしていたくせに」
キスの合間に言葉をさしはさみながら、サブラストはナステスを抱きしめる。
「だから私は……君たちの神の言葉に従って君を監視しようと思う。一生……」
「いいのか、それで……」
「きみは? いいのか、それで」
「いい……ずっとあんたと一緒にいられるなら……」
低くさしこむ夕日は神殿の石壁を朱に変える。そこに黒く映りこんだ二人の影は一つに重なり合ったまま、いつまでも離れようとはしなかった……