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翌朝、目を覚ました彼女はサブラストの腕を枕にしていることに気が付いて狼狽した。おそらくいろいろと話し込むうちにいつしか眠ってしまい、夜風の寒さを防ぐために無意識に身を寄せてしまったのだろう。
顔のすぐ前で軽やかないびきがなっている。少しうるさいが一拍ごとに高く、低く楽しげに刻まれるリズムは不快ではない。
無防備にゆるみきった彼の顔をじっと見る。
(やはり都会モンだ。きれいな顔をしている)
彼女は日灼けた自分の肌が恥ずかしいもののような気がして仕方なかった。
(うちの村の男達とは全然違う……)
女傑族の男は農耕を受け持つだけあって皆逞しい。平地とは違い急斜面を切り拓いて段々畑を作るのだから、足腰の粘り強さと腕だけで鍬を捌く腕力が要求されるのだ。
男の子たちは早くから田畑に出て鍛えられるのだから、たくましくならないわけがない。
それに比べてサブラストは実に学者らしい風体をしている。日焼けしていない白い顔、ふっくらと桃色の唇。鼻の下に伸びた無精ひげさえ薄く、そこはかない品の良さを感じる。
(まあ、関係ないことか。この人は神殿を調べ終わったら王都に帰るんだし)
なぜだろう、鼻の奥をつつかれたようにツンと涙の匂いが湧く。ゆうべいろんな国の話を聞かせてくれた無邪気な口調、それを思い出すだけでゾワゾワと胸が疼く。
(ああ、そうか……あんなに面白い世界の話を聞かせてもらったから、それで興奮しているだけだ)
自分の気持ちに無理やりな理由をこじつけて、彼女は身を起こした。
山間に隠れて太陽の顔はまだ見えないが空はほんのりと桃色の朝焼けに彩られて明るい。出発するのに不便ない朝だ。
彼女はてぐしでザッと髪を撫でつけ、きちんと結い直した。それからサブラストを揺り起す。
「先生、学者先生、起きておくれよ、出発するよ」
「ああ、もう朝か……」
もぞもぞと体を起こした彼は、じっと自分の腕を見下ろした。
「なんだろう、すごく優しくて、温かい夢を見ていたような気がする」
「へえ、そうかい」
「それに少ししびれてるし……」
「いいから、早く出発するよ! それともここに置いていかれたいのかい!」
「な……なんか怒ってる?」
「怒ってなんかいない!」
彼女は頑なに自分の動悸に気づかないふりをしようとした。それでも左胸に手を当てればドキドキと、大きすぎるほどの音が伝わってくる。
だから言葉にトゲがあるのはただの照れ隠しなのだ。
それでもサブラストはそんな彼女の態度をひどく誤解した。昼、林の中を歩きながら、彼もさすがに腹が立ってきたらしい。少し言葉を荒げて、彼は彼女を問い詰める。
「何か失礼があったならきちんと詫びる。一体君は何を怒っているんだ!」
この剣幕に彼女は少しうろたえた。
「ち……違う……」
「確かに僕は平地の人間だから君とは生活習慣からして違う。だが、僕は馬鹿じゃない。何がいけなかったのか教えてくれれば謝罪なり改善なり手の打ちようもある」
「別に、悪いことなんかなかった」
「じゃあなんで! ゆうべ、僕の話を聞く君はあんなに素直でかわいかったのに!」
「かっ! かわいくはないだろう! あたしは普通に話を聞いていただけなんだし!」
「む? かわいいも言っちゃダメなのか?」
「そんなことじゃない!」
ここにきて彼女はついにい観念した。足を止め、少し伏し目がちになって言葉を続ける。
「謝るのはあたしの方だ。イライラしているのはあたしの方……そのイライラを、ついあんたにぶつけてしまった」
「イライラするようなことがあったかい?」
「正直あたしは……あんたが羨ましいんだと思う」
「うらやましがられることなんかあったかなあ」
「あんたは世界中のどこにでもいける。いろんなものを見ている。なのに、あたしが知っているのは村と、山のことだけだ」
「その代わり、誰よりも深く山もことを知っているじゃないか」
「それでもあたしは世界が見たいんだ。願わくばあんたがどこかに旅するとき、その隣にいたいと思う」
ここで彼女は深い深いため息をついた。
「他の誰でもない、あんたと一緒に、世界を見てみたい」
それは女傑族の族長である彼女には重い、覚悟の言葉でもあった。
「もちろん現実がそれを許さない。あたしがあんたについて行くってことは族長の仕事を放棄するってことだ。あたしは族長であるということに誇りもあるし、村を愛してもいる。だから……あんたについて行くなんて夢のまた夢だ」
「夢……か」
「ああ、そうだ。ゆうべ見た夢だ。あんたはどこぞへ調査に向かう船に乗っていて、あたしはその隣にいた。特に会話もなく、二人でただ海を眺めていた。ただそれだけの夢さ。でも……ただそれだけのことがどうしようもなく幸せだった……」
「もしも君が望むなら、僕が世界のどこへでも連れて行ってあげるよ。氷ばっかり浮かんでいる海や、逆に一年中夏が続く国や、昨日だけでは君に話せなかったような不思議なところが世界にはいっぱいあるんだ」
「ああ、素敵だ……でも、あたしは行けない」
「どうして……」
「正直、族長をやめるのはそんなに難しいことじゃない。あたしが狩りを仕込んだ妹分がうまくつとめてくれるだろうさ。でもあたしは……女傑族であることを捨てることはできないと思う、どんなことがあっても」
彼女は女傑族の誇りと両てんびんにかけている気持ちの正体に気づいている。これが昨日であったばかりの相手に対する恋心なのだと、信じたくはないが気付いてしまった。
しかしこの恋心を育てるには時間がなさすぎる。何しろ彼はただ神殿の調査に来ただけの相手なのだから、ここに長逗留することもないだろう。
だから愛おしいのも恥ずかしいのも今だけなのだと思えば、言葉は素直に出た。
「あたしはあんたが好きなんだと思う。男としちゃあひ弱で頼りないけど、あんたが真面目で誠実なのはゆうべ話しててよくわかった」
「そりゃあ、女傑族の男に比べたら細いだろうけど、僕だってそれなりに体は鍛えている……」
「そうやって虚勢を張るのも、実に男らしくていいな」
どちらがどちらを引き寄せたのかはわからぬ。気が付けば二人はお互いの体に両腕を絡め、唇を重ねていた。
首まで絡むようなキスをいっとき放して、サブラストが囁く。
「僕は今、失礼をしていないか?」
上気した顔とかすれた声で、彼女は答えた。
「失礼なことは何もない。あたしはあんたが好きだからこうして……その……アレをしようとしているだけだ」
「その好きは、本当にこういうことをしても許される『好き』かい?」
「当たり前だ。私たち女傑族は肌を許す相手を女が選ぶ……あたしは……あんたを選んだ」
「なんか……うれしいな」
「こんな山育ちの女など、都会育ちのあんたからすれば野ざるみたいなものかもしれないけど……」
「だとしたら、野ざるってのはずいぶんと可愛い生き物なんだな」
「可愛いわけがないだろう、肌だってこんなに日に焼けて、化粧っ気だってないし……町の娘みたいなキラキラしたものなど何も持っていないし……」
「キラキラ……ああ、宝石か? それは、良ければ僕から君に送ろうと思う。タグラス産のいいダイヤを指輪にしたてさせて、届けるよ」
「それをつけたら、私も街の娘みたいになれるのか?」
「街の娘みたいになんてならなくていい。君はそのままが一番美しい……」
腰を擦り付けあうように体を絡め、再び唇を貪りあって、それでもまだ足りない。お互いにもっと『深く』が欲しくて、悶えるようにした草の上に倒れ込んで……女は小さな声で呟いた。
「ナステス……私の名前だ。呼んでほしい……」
「ああ、ナステス……自分でも信じられないほど、君を愛してる」
二つだった肉体が一つに溶け合うように体を絡ませて……二人は草陰に潜る。
そして、強くしびれるような快楽の中へと堕ちていった……