夜明けから夜まで 第八十九話
わたしはその言葉に安堵し、涙がでそうになる。
しかしまだ、ようやくはじまったところだ。
安心するのは、いくらなんでも早すぎる。
百鬼は、わたしの顔を少し不思議そうに見ると言った。
「それで、おまえはおれに具体的には何をさせるつもりなんだ?」
「土曜日の本」
わたしは、百鬼の問いに答える。
「まず、土曜日の本を手に入れる必要があるわ。陽が沈む前に」
百鬼は、頷いた。
「で、お前はその本がどこにあるのか知っているのか?」
「もちろん」
わたしは、強引に笑みを浮かべる。
「知るわけないじゃない」
その答えを聞くと同時に、百鬼は立ち上がった。
わたしは、目の前に迫る百鬼の無個性な顔を見て少し狼狽える。
「な、何よ」
「その本を持っているもののところへ、行く必要があるのだろう。日没までなら、あまり時間がない。急ぐとしよう」
そう言い放ち、百鬼は店の外へと向かう。
わたしは、その後ろに続きながら問いを投げる。
「お前には、あてがあるの?」
百鬼は、歩きながら答える。
「そいつは、フォン・ヴェックのおんなが持っていると聞く」
「どこにいるの? そのおんなは」
「ニューヨーク・プリズン」
わたしは、驚きの声をあげる。
「ニューヨーク! そんなところまでいくと陽が暮れてしまうわ」
百鬼は、振り向かずに言った。
「日没までにニューヨークに着くことができる船を持っているおことを、知っている」
わたしたちは、酒場の外に出た。
容赦の無い陽の光が、千の刃となりわたしを襲う。
眩暈を感じながら、百鬼の後ろをわたしは歩く。
「そのおとこは、港にいるの?」
百鬼の答えは、そっけない。
「多分な」
わたしたちは、チャンドラの待つメルセデスの側についた。
チャンドラは、百鬼を見てため息をつく。
チャンドラに百鬼はごく平凡なおとこに、見えているだろうと思う。
百鬼の自分を偽装する能力には、感嘆させられる。
百鬼は、チャンドラの無遠慮な眼差しを無視して呟く。
「メルセデスのSSKか」
唇を歪め、吐き捨てるように言った百鬼に、わたしは少し得意気な口調で言った。
「慈悲深きおんなという名前の車よ。わたしにぴったりでしょう」
百鬼は、失笑する。
「ツーシーターの車に三人乗る気か? おれはどこに座るんだ」
チャンドラは、メルセデスのエンジンを切ると運転席から立ち上がり、百鬼の前に立った。
「ナビゲーターシートに、座ってください。 ええと」
「百鬼だ。亜川百鬼という」
チャンドラは、百鬼に頷きかける。
「わたしはチャンドラです。よろしく百鬼さん」
百鬼は、頷き返した。
なんだかわたしの時より百鬼は紳士的に振る舞っている気がしたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。
「ちょっと、誰が運転するのよ」
わたしの問いに、チャンドラは真顔でこたえる。
「ブラッドローズ、あなたしかいないでしょう、できますよね」
わたしは驚いた形に口を空け、そして閉じる。
わたしは、百鬼を見て言った。
「百鬼、あんた運転できるよね」
百鬼は、ナビゲーターシートに座りながら、冷たい眼差しをわたしに向ける。
「ブラッドローズ、おまえもしかすると」
百鬼は、薄く笑いながら言った。
「少しばかり、あたまが弱いんじゃないのか?」
チャンドラが吹き出すのをわたしは横目で睨みつけ、叫んだ。
「ああ、もう。判ったわよ!」
わたしは、運転席に滑り込む。
イグニッションを回すとアクセルをべた踏みして、エンジンに野獣の咆哮をあげさせる。
タコメーターが一気に跳ね上がるのを確認しながら、ギアをいきなりトップにぶち込む。
タイヤが悲鳴と白煙をあげ、メルセデスはボディを軋ませながら巨人に蹴飛ばされたように飛び出していく。
物凄い加速で、わたしの身体はシートに押し付けられる。
ちらりとナビゲータシートの百鬼を見るが、急発進を気にすることもなく涼しい顔して刀を抱えて座っていた。
わたしは、少し悔しい気持ちになりながら、タイヤを横滑りさせて街角を曲がってゆく。




