夜明けから夜まで 第八十五話
わたしはその存在にすっかり気をとられていたために、おとこがひとりわたしの前に立っていることに気づかない。
「おい」
怒気を孕んだその声を聞き、ようやく自分の正面に立っている大きなおとこに目を向ける。
軍服を来た、長身で幅もある逞しいおとこだ。
右腕は失われたらしく、義手をつけている。
青い目は荒んだ昏い輝きを、溜めていた。
おそらく、戦場で数百人は殺してきたであろう凶暴な気配を纏っている。
「ここは、おまえらの来る場所じゃあない。叩き出される前に、自分で出ていけ」
わたしは、薄く笑った。
この世界の白い肌を持つ家畜たちは、有色人種より自分たちが優れていると思っている。
実際のところ、彼らは魔道を使える訳でもなく愚かさと醜さは家畜どうし肌の色が違っても全く変わるところは無い。
むしろ優れていると思っている分、白い肌の家畜は無様で滑稽といえる。
目の前にいる大きなおとこも、自分の醜悪さを高潔さと取り違えるような低能ぶりだ。
大きなおとこは、自分の言葉を無視してわたしが笑みを浮かべたまま立っているので、兇悪な表情を浮かべる。
わたしは、そのおとこのこころに触れてみた。
この世界の家畜は、アルケミアであれば子供でもできるような精神ブロックすら、身につけていない。
彼らのこころは、わたしから見れば丸裸で恐ろしいまでに無防備だ。
わたしは、おとこの精神を搦め捕っていく。
大きな身体の青い目をしたおとこから、表情が消えた。
戸惑ったような、腑抜けた表情になる。
店の中にいるおとこたちも、異変に気がついたようだ。
皆自分たちの会話を中断し、わたしとわたしの前にいるおとこに注意を向けている。
わたしはおとこの頭の中にある神経の線を、不可視の触手で掴んだ。
それは、恐怖を引き起こす神経である。
わたしは、穏やかな笑みを浮かべおとこに語りかけた。
優しさを言葉の響きに、のせて語る。
「喜べ、醜き家畜よ。本来であれば相手をしている時間は無いが、特別におまえに慈悲を賜う。おまえに生まれてきたことを後悔することになるほどの、恐怖をくれてやる」
青い目のおとこは、口をだらしなく開き涎をたらしはじめる。
その青い目は、もう何も映していない。
逞しい全身は、寒風にさらされているかのようにがたがた震えはじめる。
わたしは、言葉を重ねた。
「悲しめ、無様な家畜よ。残念ながらお前に慈悲深き死を賜り、醜悪なその身体から狂った魂を解放するには少し時間が足りない。お前は恐怖にふるえながら、残りの生を過ごすがいい」
おとこの足元に、水溜まりができていく。
失禁をしているが、おとこは自分が失禁していることにすら気がついていない。
そのこころには、真っ暗な恐怖が詰め込まれていた。
おとこは、口から力なき呻き声を漏らす。
店にいる他のおとこたちは、あまりの惨たらしさに目を背けていく。
今、ひとりのおとこが無惨に破壊されていっていることを皆、理解していた。
そして、皆次にその破壊は自分たちにもたらされるのではないかと、恐怖している。
おとこたちは、本能的に理解していた。
黒い肌をした金髪の少女であるこのわたしは、人喰い虎などくらべものにならないほど兇悪で危険な存在であることを。
そして今自分たちがかつて戦場で味わった恐怖が単なる冗談ごとに過ぎなかったと思えるほどの、死より深い恐怖がこの店を支配していることを理解していた。
わたしは、高らかに音にならぬ歌をうたっている。
その歌の名は、恐怖という。




