夜明けから夜まで 第七十一話
わたしは、中庭に面した窓の向こうを見る。
巨大で重々しいゴシック建築が、中庭を囲んでいた。
そして、黒く聳える巨獣にも似た建物の向こうに、東の空が広がっている。
夜明けの空は、黄金の炎に包まれていた。
金色に燃える炎の上は、菫色に輝いている。
天上に向かうにつれて色は次第に青さを増し、天頂あたりは深い藍色に染まっていた。
まだ、地上に陽の光は充分に届いていないため、地上の建物は黒い影に覆われている。
立ち上がった闇色の巨人となった摩天楼が、少し離れたところに聳えていた。
影に包まれた摩天楼の窓には明かりが灯っており、天空から消え去った星の明かりが地上に残っているようだ。
わたしは色彩が交響楽を奏でているその景色を見て、そっとため息をつく。
まだ、夜が明けたばかりである。
わたしには多分、夜までの時間があるはずだ。
もし、あの夢を信じるのであれば。
そして、わたしはあの夢を信じつつある。
わたしは振り向き、窓と反対側にあるアーチ状になったレリーフの装飾に飾られたステージのほうを向く。
ステージの側には、大きく黒いグランドピアノが置かれている。
ピアノは、黒衣を纏った女王の佇まいを持ってステージの側の空間を支配していた。
その黒い女王の前に、灰色のワンピースを着たおんなが座っている。
少し投げやりな目をして、夜明けの空を見ているそのおんなはアナスタシアという名だ。
ロシアから来たピアニストであったが、ある日を境に神の奏でる音楽が頭の中で鳴り響きだし、それを演奏することが自らの使命であることに気づく。
そして彼女はずっと、神の音楽に近づこうとして不安と混乱に苛まれるようになった。
神の音楽が彼女の中で鳴り響くとき、それは圧倒的なビジョンを彼女にもたらすのだ。
目の前にある現実が紙切れに描かれたデッサンに思えるほど、そのビジョンはリアリティを持ち彼女の精神を消耗させた。
いつしか彼女は、ひととの接触を避けるためこの病院に引きこもるようになる。
時折現代音楽と賛美歌のハイブリットのようなピアノ演奏をすることがあったが、アナスタシアは大体において煙草を燻らし酒を飲んで一日を潰す。
わたしは、彼女の退屈しのぎのひとつであった。
アナスタシアは、色々な学問をわたしに教えてくれる。
学校に通うのをやめたわたしにとって、アナスタシアは教師の役割を果たしていた。
わたしは、アナスタシアの前に立つと微笑みかける。
「おはよう、アナスタシア」
少し物憂げな瞳をわたしに向けたアナスタシアは、笑みを浮かべるように口を歪める。
「おはよう、ローズ」
そしてちらりと壁にかかった時計を見て、呟くように言った。
「授業をするには、少し時間がはやいわね」




