夜から夜明けまで 第六十三話
アナスタシアの瞳は、昏い光を宿したようだ。
ブラッドローズは、驚きを持ってアナスタシアの話を聞いている。
シックスフィンガーは、彼女をアルケミアから連れだして半生を共にしたひとであった。
ある意味、師とも養育者とも呼べるひとである。
ブラッドローズはその最も身近にいたひとのことを、何も知らないに等しい状態でいたことに深い驚きを感じていた。
多分、フェイフゥーもロックフィストも、それにシルバームーンだってこのことを知っていたのだろう。
そのことを知りながら、ここまでやってきたのだ。
なぜ、自分だけが何も知らないのか。
そのことは、刃のようにブラッドローズのこころへと突き刺さってくる。
彼女はその問いに対する答えに、おおかたの見当がついていた。
しかし、そのことを認めるのが恐い。
その答えを知る時を、できるだけ先延ばしにしたいと思う。
だから、無意識の内にブラッドローズは自分のこころを麻痺させてなるべく何も感じないようにしていた。
そんなブラッドローズのこころの動きを見透かしたようにアナスタシアは視線を少し彼女に投げ、話を続ける。
「神話で語られる神々の戦いを再現するようなひとの世の終わりを、繰り返し繰り返し経験しながらシックスフィンガーは考えたのです。この悲惨な終わりを、避けることができないだろうかと」
突然、ブラッドローズに幻覚が襲いかかる。
それは、シックスフィンガーの記憶であった。
ブラッドローズが気がつかない内に、彼女の中に埋め込まれていたのかもしれない。
それとも、無意識にブラッドローズは自分の魔道的能力を発動させ彼女の夢をシックスフィンガーの記憶と結び付けたのかも知れなかった。
何にせよ、ブラッドローズはシックスフィンガーの記憶を幻視したのだ。
夜はビロードの漆黒で天空を覆い、死の沈黙が荒野を埋め尽くした。
闇に満たされた天空の頂近くで、孤独な月が白く輝いている。
月は光の刃を、荒野へ投げつけていた。
荒野は天空から降り注ぐ殺戮の刃に、沈黙をもって答える。
晒された屍の白さを持つ月影を浴びながら、シックスフィンガーは荒野を歩む。
シックスフィンガーは、知っている。
ひとの世が滅ぶまで、もう幾らの時間も残っていないことを。
彼は、出来るだけ遠ざかろうとしていた。
ひとが住む、街から。
空気の結晶化はひとの住む街から始まり、容赦無く地上を覆い尽くす。
けれど、ひとの街から遠く離れると、結晶化の力は僅かに弱まる。
だから、シックスフィンガーはこの荒野であれば、辛うじて結晶化の力に抗って結界を自分の周囲に張ることができた。
もちろん、そんなことをしても生き延びる時間が、ほんの四半刻ほど延びるだけだ。
しかしその僅かな時間で、空気の結晶化を行う魔法式を読み取れる。
時間が短すぎるため読み取れるのは、魔法式のごく僅かな部分だけだ。
あっという間に天候が激変し、暴風に吹き飛ばされて魔法式を読みきる前にシックスフィンガーは死ぬことになる。
けれど、たとえそうであっても、シックスフィンガーはまたこの場に立つことができた。
その記憶を、別の時間線にいる自分へ送り込めばいい。
シックスフィンガーはそうして少しづつ、魔法式を読み取っていた。
まるで、スプーンで湖の水を汲み出そうとしているように思える。
けれども、ただひたすら愚直に繰り返せばいいのだ。
そうすれば、いつかたどり着くはずである。
ひとの世を救うための、答えに。
シックスフィンガーは、遠くで金属の獣があげる悲鳴を聞いたように思う。
それが、始まりである。
ひとの世の、終わり。
シックスフィンガーは、もう何千回となくその瞬間を経験したはずであった。
その彼ですら、その瞬間には荘厳さと美しさに、魂を抉られるような思いに捕らわれる。
空気が結晶化するその瞬間、世界はひとの想像できる限界を超えた美に覆われるのだ。
空気が動きを止めるその瞬間、星々が輝く天空の高みと同じくらいまで地上の温度は下がる。
そうすると、空気の中に含まれていた水もまた結晶化し、それは白銀の輝きを持つ宝石となり地上を満たす。
規則正しい幾何学的正確さを持って結晶化した水は、大地を天空を遥か彼方まで繊細な白銀の輝きで埋めていく。
一瞬世界が、金剛石に閉じ込められたようになる。
あらゆるものの動きが止まり、時間さえも撃ち殺され、ただ純粋な美だけが宿った白銀の煌めきだけが頭上へ地下へ無限に広がった。
それは、一切のひとの感情や思想、あるいは神の思いさえも寄せ付けることのない完全に無機質に構築された美である。
何千回とそれを見てきたシックスフィンガーはそれでも尚畏怖と陶酔にこころを揺るがしていたが、その頭は高速で働いていた。
空気の結晶化を引き起こす魔法式を見いだすため、シックスフィンガーのこころとは別のところで思考が駆使されている。
微細な空気の粒子を制御するために無限に近い数の魔法式が駆動されていたが、それらは全て目眩ましのようなものだ。
それは全て派生して産み出されたものに過ぎず大もとを辿れば、たったひとつの魔法式に過ぎないはずである。
シックスフィンガーは、そこにたどり着こうとして無限に等しい魔法式を読み取り続けていた。
まるで砂漠に落ちた、一粒の砂金を見つけるようなものである。
けれどそのたったひとつの魔法式を見つけない限り、ひとの世の終わりを回避することはできない。
真っ暗な絶望の果てにあるほんの僅かな光の糸を求め、シックスフィンガーは極限までその頭脳を駆使する。
それでもあっけなく終わりの時は、やってきた。
鏡が砕け散るときのように、綺羅綺羅と無数に光の破片を撒き散らしながら白銀の結晶体は崩れ落ちていく。
それは、無限の崩壊連鎖であった。
緻密に張り巡らされていた、金剛石のように輝く白銀の結晶が崩れ雪のように地上へと降り注ぐ。
音はなくただ乱舞する光が描きあげる崩壊の、交響楽であった。
シックスフィンガーは、暴風が幾千もの獣があげる咆哮を従え襲いかかるのを聞く。
不可視である強大な力が、地上を蹂躙していった。
見えざる巨人の拳がシックスフィンガーの身体を薙払い、シックスフィンガーは風に舞う雪片のように漆黒の空へ舞い上がった。
そこで、シックスフィンガーの意識が途切れる。




