夜から夜明けまで 第五話
背の低いおとこは、数えきれぬほど頭を下げ部屋を歩く。
もうひとりの背の高いおとこは荷物を担ぎ、おそらくは不自由なのであろう左手を下げたまま鈍重な調子で後ろに続いていた。
思ったより普通だな、そう思ったミハイルは隣のアレクセイに眼差しを投げてみる。
アレクセイは、だから言ったでしょうと言わんばかりの眼差しを返してきて、ミハイルを苦笑させた。
腰を低くしたままミハイルの前にたどりついた背の低いおとこに、声をかける。
「確か、シックスフィンガーといったな。顔をあげていいぞ」
「名前を覚えていただいているとは、恐悦至極に存じます」
そう返し、柔和な笑みを浮かべたシックスフィンガーが、顔をあげた。
ほう、とミハイルは思う。
その整った顔立ちのおとこは、思ったより風格がある。
けれどミハイルの記憶に残る商人は、案外そんなふうであった気もした。
商人というものは、時として一国の命運を握ることもある。
彼らが売る売らないは、彼らの意思にしか支配されない。
もし軍が無理に強奪すれば、その軍は補給を絶たれあっという間に干上がるだろう。
ミハイルが正規軍の中枢にいたころは、そんなようなものだった。
だから彼らは時として、一国の宰相と同じ重さの決断を下すのだが、それでもかれらの腰の低さとあたりの柔らかさが崩れるものではない。
そのせいか、経験豊富な商人は、不思議な風格をみにつけているものである。
そう思って後ろの長身のおとこを見ると、単なる不具者ではなくその肉体は鋼の逞しさを持っている気がした。
しかし。
このシックスフィンガーが身に付けているのは、本当に経験豊富な商人のそれなのだろうか。
もう少し見極める必要があるなと思った瞬間、隣でアレクセイが不機嫌そうに刀の柄に手をかけた。
ミハイルは、慌てて名乗ることにする。
「おれは、このウルクアイの街を守護する警備隊の隊長、ミハイルだ。あいにくここの総督閣下は今夜はもう休んでいるので、おまえたちに会うことはない。しかし、おれの言葉は総督閣下の言葉と思ってさしつかえない」
シックスフィンガーは、深々と頭をさげる。
「私共のようなものが、閣下の御尊顔を仰ぐなど滅相もございません。隊長様のお言葉をいただくだけでも、恐れ多い限りでございます」
シックスフィンガーの言葉は、淀みなく流暢で芝居の台詞かとすら思う。
化けの皮があるとすれば相当に厚そうだが、それが逆に違和感を呼んでる気もする。
このおとこは、あまりにそれらしすぎる、ミハイルはそう思った。
彼の中の違和感が確信に変わったときに、シックスフィンガーが口をひらく。
「隊長様の貴重なお時間を、無駄にするのも何でございます。早速ではございますが、お目にかけたいものがあります」
そう言い終えるとともに、許可を得るでもなく後ろに立つおとこに合図した。
シックスフィンガーも、アレクセイの殺気を感じたのだろう。
さっさと事とを、進めるつもりらしい。
長身の、確かロックフィストという名のはずのおとこは、肩に担いでいた荷物を床に降ろす。
シックスフィンガーは、そこから筒状のものをとりだした。
そして、色彩の交響楽を薄闇のなかに、広げて見せる。
「ほう」
ミハイルは、思わず感嘆の声をあげる。
思ったより、ものはいい。
ここより東方の、トラキアやキタイの職人には作れないものだ。
もちろん中原の、王国職人たちであれ、このような鮮やかな染めや緻密な織りの技術はない。
カナンから来たものと言われても、疑うものは少ないだろう。
ざっと見積もって、彼らの一月分の稼ぎに換金できるはずだ。
「キタイで手に入れた布でございます。ご挨拶にうかがうのに空手ではと思い、お持ちしました」
シックスフィンガーは、和やかな笑みを浮かべている。
今の彼らの立場は、狼の口に頭を突っ込んだ兎だというのに、落ち着きはらっていた。
おそらく、まだ何か差し出せるものがあるということだ。
ミハイルは、邪悪といってもいいような笑みを浮かべ、兵士のひとりを呼び寄せる。
そして、その兵士の耳元に口を寄せると小声で素早く指示をだす。
そして、もう一度シックスフィンガーに向き直った。
「おまえたちのその品は、必ず総督閣下に届けることにしよう」
シックスフィンガーは、深々と頭を下げる。
「きっと気に入っていただけるものと、思っております」
「ああ、そうだろうな」
そう言うとミハイルは、紙巻き煙草を取り出すと火をつける。
ゆっくりと吸い込み、白く渦巻く煙を吐く。
「おまえたちは、アルフェット海の岸辺に野営をしていると聞いた」
シックスフィンガーは、いちいち深々と礼をする。
「そのとおりで、ございます」
「そのアルフェット海をずっと北へのぼると、ミッドガルド山地の東側に凍てついた大地が広がっている」
ミハイルは、狼のような笑みを浮かべ、遠い思い出を語るように言葉を紡ぐ。
シックスフィンガーは、その話しにじっと聞きいる態度をみせた。
「その大地には遠い昔、ブルガリーという国があった。その国はもうない。今あるのは、とても奇妙な国だ」
ミハイルは語りながら、強い眼差しでシックスフィンガーを見つめている。
背の低い行商人は、その獣の眼差しを受け流すように笑みを浮かべたまま、話を聞いていた。
「その国には、王がいないという。その国を支配するのは、民草の言葉を聞き取り書物に書き写す役を担う、書記長らしい。その国は、共和国と呼ばれる。クワーヌ共和国という名だ」
ミハイルの話しは思い出語りのようにとりとめがなく行き先が見えないが、シックスフィンガーは一切怪訝なふうを見せなかった。
むしろ、ミハイルの言おうとしていることを知っており、それを待っているかのようだ。
「今、共和国と我らが王国とは休戦協定が結ばれ、戦争はしていない。しかし、王のいないような国と、我々が相容れるはずもなく、いつ戦端が開かれるものか知れたものではない」
ミハイルは、そこで少し間をおく。
魔物じみた笑みを浮かべシックスフィンガーを見つめるが、背の低い行商人は何も気にする様子はない。
「共和国は時折海を越えて密偵を、送り込んでくることがある。密偵は、アルフェット海の南端にある岸辺より上陸する」
「恐れ入りますが」
シックスフィンガーは、一度深々と礼をした後顔をあげる。
その顔には笑みが貼り付いてはいたが、ミハイルはそれが仮面に思えた。
「隊長様は、わたくしどもが密偵だとおっしゃられますか?」
ミハイルは何も言わず、邪悪な笑みでそれに答える。