夜から夜明けまで 第十三話
眠りから目覚める瞬間は、深い海の底から水上へ浮上する感覚に似ている。
全身を覆う重くて青い水の圧力から解き放たれて、真っ白な空の下透き通った空気の中へと解放される感覚。
彼女はいつも、目が覚めるたびにそんな思いを抱く。
今宵、テントの中で目覚めた彼女は、いつものように解放感に浸っていた。
では、彼女は一体何から解放されると、いうのだろう。
それは、多分血だ。
自分自身の身体を流れる血の呪縛から、彼女は解放される。
夜の闇を溶かし混んだ、漆黒の肌を持つ自分の身体を抱きしめながら彼女はそう思う。
テントの中で、全裸の身体を白いシーツに包んだ彼女は、あたりを見回す。
少年のように短くした金色の髪が、闇の中でゆらりと揺れた。
テントの幕に小さく開けられた窓から蒼ざめた月の光が入り込み、あたりを海の底の色に染め上げている。
彼女は蒼い月の光に照らされ、夏の夜空と同じ色で輝く肌を隠すため、傍らにある白い長衣を身に纏った。
まだ完全に眠りから覚めぬ頭で、地の底を這う速度でもってゆっくりと考える。
薄く開いた目蓋の下で、夜明けの太陽の色をした瞳がそっと輝いていた。
ここは彼女が眠りにはいる前にいた共に旅する隊商の、野営地のようだ。
それを確認したからといって、そこが彼女が眠りに落ちる前にいた世界と同じ場所であるとは限らない。
彼女の血に刻まれている魔法式は、彼女が眠りに落ちると夢の中で時として暴走をはじめる。
それは、彼女には制御できない力であった。
だから、夢の中で時折彼女は次元界を越えてしまい、違う世界へと入り込んでしまう。
それは常に一方通行の移動であるため、元に戻ることは不可能だ。
見たところ、今いる世界は彼女が眠る前と同じ世界であるように思えた。
しかし、彼女は様々な差異の中を幾度も幾度も横断して来たがゆえに、見かけが信用できないことをよく知っている。
彼女は、傍らに投げ出されている、雑嚢を引き寄せた。
麻の布で作られたその雑嚢は、彼女の身の回りのものが納められている。
その中から、一冊の本を取り出した。
それは、聖なる愚者の書またはパルジファルの魔道書と呼ばれる本である。
その本を開き、その前に胡座をかくと、彼女は左手の親指の根元を口許にもってゆく。
鋭く尖った八重歯が、黒い肌へと食い込む。
ピシッと頭の奥で痛みの火が灯り、薔薇の花弁の深紅を持つ血が黒い肌から滴り落ちる。
本の白いページに深紅の血が落ち、小さな血溜まりができた。
パルジファルの魔道書は、音もたてずにその血を飲み干す。
一瞬にしてその血は、骨のように白い頁に吸い込まれた。