夜明けから夜まで 第百二十八話
美貌の辺境伯爵は、ゆっくりと一同を見回す。
その瞳には、夜の優しさが宿っていると、ミハイルは思う。
デリダは太陽神が持つ美しい笑みを浮かべ、よくとおる声で叫んだ。
「さあ、ようやく帰る時が来た。永遠に失われることのない、おれたちの王国へ!」
そう言い放つとデリダは雷管銃を抜き、夜空に向かって撃つ。
銃声は闇を切り裂き森をこえて、轟く。
そしてデリダは、馬を駆り砦へ向かう。
ミハイルたちもデリダに習い、一発空に向かって銃を撃った。
もしかすると、砦に残っている仲間に向かって帰還を知らせる合図なのかもしれない。
ミハイルたちは、馬を疾走させてデリダを追う。
彼らは、歌うように叫んでいた。
その長く伸びてゆく甲高い叫びは、ブルガリーアの戦士たちに伝わる戦いの雄叫びである。
ミハイルたちは、自分たちがブルガリーアエグザイルであることを周囲に誇示しながら、砦へ向かった。
気がつくと、海岸には静けさが戻っている。
アナスタシアは、百鬼の横に座り海を見つめていた。
ビロードの闇が降りてきた岸辺の向こうで、白銀の月光が波を白く輝かせている。
アナスタシアは、海を見つめたままぽつりと言った。
「礼を言っておきます。百鬼さん」
包帯の下から血が、真紅の涙となって流れている百鬼は少し苦笑した。
「礼を言うのは、ブラッドローズが戻ってきてからだろう」
ふっ、とアナスタシアは物憂げに笑う。
「そこまでは、保たないようね」
百鬼は、口を歪め凄絶な顔になる。
「朝までは、生きてるつもりだ」
「違うの」
アナスタシアは、寂しげな笑みを浮かべている。
「朝まで保たないのは、このわたしのほう」
百鬼は、静かに頷く。
「では、その礼を受けておこう」
アナスタシアは満足したらしく、目を閉じるとそのまま岸辺に横たわった。
「百鬼さん」
アナスタシアが目を閉ざすのを待っていたように、シルバームーンが声をかけてきた。
「あなたはまだ、戦えますか」
百鬼は、首を振った。
「立つのが、精一杯というところだ」
「では、わたしたちが守ります」
シルバームーンは、森を見つめている。
隣に、ロックフィストが立つ。
百鬼は鞘に収まった刀を杖にして、立ち上がる。
「なるほど、獣の匂いだ」
シルバームーンは、手と足の鞘をはらいながら応える。
「狼の群れです。多分死体となり蘇った狼だ。どうやら」
シルバームーンは、闇に包まれた森に向かってかまえをとった。
「星よりきたりしものは、朝がくる前にあなたを殺したいようだ」
ロックフィストも、石化した拳を垂らし戦闘体勢をとる。
シルバームーンは鋼の色を宿した眼差しで、昏い森を見ていた。
「あなたがいるから、魔法を使った攻撃はしないでしょうが、やつらは四十頭はいる。四方から同時にこられると、防ぎきれませんね」
百鬼は刀を、すらりと抜き放つ。
月明かりの下、刀は凶星の輝きを秘めて光る。
「心の一法は使えんが、数頭は斬ってやるよ」
どこか投げやりな調子に苦笑しつつも、シルバームーンは百鬼の放つ殺気にどきりとする。
それは、手負いの獣が放つ強烈な気であった。
真夜中の太陽がごとく闇色の気を放ちだした百鬼を見ながら、シルバームーンは心の中で思う。
もうこの老人には隠形の術を使うだけの力が、残っていないのだろうなと。
百鬼の放つ強烈な殺気に呼び出されたように、灰色の狼たちが月明かりの下に現れる。
ロックフィストは、片手で鼻をかくと石化した拳をぶらりと揺らした。
「さあ、はじめようぜ」
夜の闇を揺るがす、狼たちの咆哮が轟いた。
真紅に開いた口には、月明かりに白く輝く牙が並ぶ。
牙は細かな小刀を植え付けたかのように、鋭い。
獣たちは、灰色の津波となってシルバームーンたちに襲いかかる。
シルバームーンとロックフィストは揃って雄叫びをあげると、目の前にきた狼に必殺の一撃を放った。