夜明けから夜まで 第百十九話
夜の帳は、キエフの砦に対する支配を完了しつつあった。
砦の中庭は、幾つもの松明に照らし出されていたが、空に聳える砦の塔は漆黒の巨人となり、藍色の空に突き出されている。
塔の下には、大きな城門があった。
おとこは雷管銃をかまえ、歩哨として城門の前に立っている。
若い、まだあどけなさの残る顔であった。
予備役と呼べるほどの十分な訓練は受けていなかったが、熟練した兵士が昨夜根こそぎ戦死したためかりだされている。
巨大な影となって聳える門を打ち破って、死者たちがこの砦へ入り込んでくるとは思えないが、おとこは命じられるままその門を見張っていた。
おとこの名は、トールという。
戦場に出たことはなかったが、この砦に漂う高揚した雰囲気に少し酔っていた。
そのせいか、恐怖感は希薄である。
その異変に気がつくことが遅れたのは、そのためであったかもしれない。
トールは、足元に目をやる。
中庭を照らし出している幾つもの松明は、トールの足元にもくっきりとした影を作り出していた。
その影に、違和感を感じる。
トールは、それがあまりに信じがたいことであったため、事実を認めることができなかった。
自分の影が、自分の意志に反して動いている。
まるで夢の中でだけありうるようなことが、現実に自分の足元で起こりつつあった。
漆黒の影は次第に厚みを帯びてゆくと、ひとの形をとり地面から立ち上がりはじめる。
一体どこからどのようにして入り込んだのか判らなかったが、足元から漆黒の包帯を全身に巻きつけたおとこが出現した。
トールは、力の限り叫んだ。
「敵襲!」
トールは、銃を立ち上がった影のようなおとこに向ける。
全身を黒い包帯に覆われたそのおとこは、トールに向けて左手の人差し指を突き出す。
イリューヒンがトールの声を受け、門のほうを見たときにはトールは漆黒のおとこが突き出した指に片目を貫かれていた。
槍のように伸びた指は、トールの後頭部から突き出ており、薄闇に真紅の血を迸らせている。
トールが倒れるのを見ながらイリューヒンは、叫び声をあげ雷管銃を漆黒のおとこに向けて連射した。
銃声が落雷の響きを起こし、砦を音で満たす。
漆黒のおとこは振り向くと、イリューヒンの放った銃弾を背中で受ける。
漆黒の包帯は、銃弾を弾き火花をあげた。
黒い包帯は布のような質感を持っているが、鉄の硬度を持っているようだ。
イリューヒンは、用心鉄についたレバーを操作して、弾倉を交換しながら叫ぶ。
「ロックフィストとシルバームーンを、呼んでこい!」
イリューヒンの背中に、叫び声がとどく。
「二人とも偵察からまだ、戻っていません」
漆黒のおとこの指が、さらに伸びて鋼鉄の鞭となる。
漆黒の鞭は闇を裂いて、城門の蝶番へ襲いかかった。
門の裏側では剥き出しとなっている蝶番は、金属の鞭が放つ打撃を受け次々に破壊されていく。
全ての蝶番が破壊されるまで、瞬きするほどの時間くらいしかかかっていない。
城門は重々しい音を立てて、地面に倒れた。
それは、巨人が闇の海へと沈む様を思わせる光景である。
「くそっ」
呻き声をあげ悪態をついたイリューヒンの横を、そっと影が通り過ぎる。
夜に吹く風となった影は、いつのまにか漆黒のおとこの前に立っていた。
イリューヒンは、驚いてその立ち上がった影を見る。
黄昏の薄闇を凝縮した影は、ブラッドローズが呼び出した百鬼であった。