この空が繋ぐ世界
寄せては返す波は、まるで人の心のようだ。
「昨日ね、彼の夢を見たんだ」
海を見ながら、彼女が呟いた。
「……へぇ」
私は彼女より一メートル程離れた場所から、彼女の背中と、灰色にしか見えない海を見つめたまま言葉少なく返事をした。しかし彼女は気にも留めていないようだ。
彼女は三日に一度のペースでキミの夢を見るらしい。そして見た翌日には必ず私を海の見える丘に連れてきて、何をするでもなく、ただ無言のまま夕陽が沈むまで海を見つめている。私はあまり此処から見える夕陽が好きではない。決して懐かしいとは言い切れない、あの日々の事を思い出させるからだ。
―――三年。
キミが此処から、自分の居場所を探すと言って私たちの元を去ってから、もう三年になる。
とは言っても、これは私の推測だ。
あの日、朝起きたらキミはいなくなっていた。書き置きもなく、キミは去っていった。
だからキミが本当に去った理由はわからない。
私達六人は、キミがこの島に来てからずっと一緒だった。けれど、今も此処に居るのは私と彼女だけだ。他の三人はキミがいなくなってすぐに新しい道を見つけ、去っていった。
此処にいつまでも残っているのは、過去を振り切れないからなのだろうか。
少なくとも自分は違う……と思う。キミと過ごした日々を思い出す事はたまにあっても、夢に見る事はない。
「ねぇこれって、彼にもう一度逢えるって事じゃないのかな?」
振り向いた彼女の瞳は、希望の光で輝いている。私が随分前に無くしてしまった瞳だ。私には、少し眩しい。
「……三日に一度は見ているんでしょ。どうして急にそう思うの」
「だって初めてなんだよ、夢を見ている時にドキドキしたの。前に言っていたよね? ドキドキしている時、誰かと繋がっているって」
繋がっている。か……。
確かに前の私はそんな事を言ったり信じたりする方だった。でも今は違う。そんな夢見る人間じゃない。夢に人が出てくるのは、深層心理によるもの。人は繋がっている。そんな曖昧なものには頼らない。
そう。あの頃の私は、もう何処にもいない。もしかしたら、キミが連れて行ってしまったのかもしれない。
私がそう言うと、彼女は悲しそうに笑った。
「変わったね。あの頃は私と同じくらい夢見る人間だったのに」
ギュッと心の奥にある何かが締め付けられ、ズキンッと痛み出した。
また、だ。時折あるこの古傷を抉るような感覚。
キミがいなくなってから始まったこの感覚が、私は大嫌いだ。
この灰色の世界も。
「彼も、何処かでこの空と海を見ているのかな?」
「……さぁ、どうかな」
此処から見える景色も、私達が生まれ育ったこの島も、どんどん変化している。けれど、私達はまるで二人の時間だけが止まったままかのように、此処に留まっている。
まるで何かを待っているかのように。
「ねぇ、彼を探しに行こうよ」
しばらく考えて込んでいた後、彼女が私の手を取って走り出した。
「行くって何処へ」
「そんなの、私にも分からないよ。だけど私は信じている。人は繋がっているから、この世界にいる限りきっと何処かで逢えるって」
でも。と反論しようとした私に、「それに」と間髪入れずに続ける。
「それに逢いたいでしょ、彼に。戻りたいでしょ、あの頃に」
「私は……」
――――キミに、逢いたい。
その時、止まっていた私の時間が音を立てて動き出し、同時に灰色だった世界が一気に色付いていったような気がした。
世界って、本当はこんなに美しいものだったんだ。長い間灰色に見えていたから、忘れていたよ。
人は繋がっているから、いなくなった人にもきっとまた逢える……。三年前までは信じて疑わなかった事。そして、あの日信じているだけじゃ駄目だと気付かされ、信じる事をやめてしまった事。
あの時から、私はいなくなってしまった人の事を考えるのをやめた。過去を振り返らない、そんな人になったつもりだった。けれど、本当は思い出さないようにしようと考える事で、思い出していたのかもしれない。気付かないフリをして、心の何処かでキミを待っていたように。
もう一度だけ信じてみようか。
そう思えるようになったのは、私の心が海の潮のように満ちていったからなのかもしれない。
―――このまま此処に居ても、キミに逢えないのなら……。
「うん、行こう。待っているだけじゃ、自分で動かなくちゃ、駄目だよね」
私、行くよ。
たとえこの先に、キミがいなかったとしても。
『風色に光る海』の元になった話だったと思います。