優等生を演じるts娘がクラスメイトを好きになるはずがない
放課後の教室に夕陽が濃いオレンジ色の影を落としている。文化祭の準備で乱雑に積まれたパイプ椅子の山を私は一人で整列させていた。
クラスメイトの女子たちは「楓ちゃん、一人で大丈夫? 手伝うよ」と言ってくれたが、私はいつものように「大丈夫、ちょっと片付けるだけだから」と完璧な笑顔で断った。
ここで手伝ってもらうわけにはいかない。私はかつての自分——男として生きていた頃のプライドをこの華奢な身体の奥底に密閉しているからだ。
男子生徒と同じように雑多な荷物を力任せに運び、整然と片付けるその作業の快感だけが私を「二宮楓」という虚構の中で繋ぎ止めている。
「おい、そんな重いの持ってんじゃねーよ」
突然、頭上から降ってきた低すぎる声と、私の視界を遮る大きな手。
見上げれば、そこには校中の女子が黄色い声を上げるほどの整った顔立ちが無遠慮に覗き込んでいた。
一ノ瀬汐恩。彼は私の腕からダンボールを奪うとまるで邪魔なお荷物を扱うように軽々と持ち上げた。
「女子が力仕事すんなよ。怪我したらどうすんだよ」
その口調は無自覚なまでの傲慢さに満ちていた。彼はきっと自分を「頼れる男」だと思っているのだろう。弱々しい女子を助けるナイト気取りで自分の価値を確認しているだけの浅はかな男。
私のこめかみにピクリと血管が浮くのがわかった。
「……お言葉ですが、一ノ瀬くん」
私は笑顔を崩さずに、けれど声の温度だけは氷点下まで下げて答えた。
「私は自分の範囲で動いています。あなたに指図される筋合いはありません。それに、性別でできることの限界を決めつけるのは少し短絡的じゃありませんか?」
一瞬、彼は目を丸くした。いつもならありがとうと恥じらう女子の反応しか知らないからだろう。
やがて彼は「なんだよ、好意で言ってやったのに」と不機嫌そうに鼻を鳴らし、ダンボールをドンと机に置いた。
その背中が教室を出て行くのを見送りながら、私は握りしめた拳が白くなるのを感じていた。
なぜ、こんなにも嫌悪感が湧くのか。
それは、彼が私の「尊厳」を無意識に踏みにじるからだ。
かつて男として生きていた記憶を持つ私にとって、男の振る舞いで女の役割を押し付ける理屈は古い呪縛そのものだ。
私は女の身体になっても、男としての自我を捨てたわけではない。誰かに守られること、守られるべしと決めつけられることがどれほどの屈辱か。一ノ瀬汐恩はその屈辱の象徴なのだ。
***
その夜、自室のベッドの上で私は抱え込んだ膝に顔を埋めていた。胸の奥がチリチリと焼けるように痛い。
昼間、彼が私の目の前でダンボールを持ち上げた瞬間の、あの男の腕の筋肉の動き。低く響く声。無遠慮な距離感。
それらを反芻するだけで胃の腑が歪むような不快感に襲われる。けれど、その不快感の中にほんの少し——混じりけのない、忌々しいほどの「動揺」が混ざっていることに私は気づいていた。
「……ふざけるな」
独り言が暗い部屋に漏れる。
私の身体は完全に女のそれへと作り変えられている。ホルモンバランスのせいか、あるいは生物としての本能か、男らしい振る舞いや力強さに対して、生理的な反応を起こすようになってしまった。
一ノ瀬汐恩のあの無防備な男らしさは私の女としての身体や心臓を無慈悲にノックしてくる。
だがら……認めるわけにはいかない。
私は男だ。
私の脳内には男としての人生の記憶や価値観が根付いている。
男が男に惚れる?
ありえない。
胸が高鳴るのは決して恋心などではない。それは男としてのプライドが女としての身体に犯されることへの「恐怖」であり、「怒り」だ。
私の意志とは無関係に彼の男らしさに反応してしまうこの身体への深い自己嫌悪。
私は絶対に一ノ瀬汐恩を好きになんてならない。
彼を嫌いでいればいい。彼を拒絶すればするほど、私は「中身が男である自分」を守ることができるから。彼への冷徹な態度は私が女としての本能に負けないための唯一の防壁なのだ。
「……嫌いだ、大嫌いだ」
呪文のように繰り返す。
明日も私は完璧な優等生の仮面を被り、彼を冷たい眼差しで見下ろそう。そうすることでしか私は私でいられないのだから。




