名付け親、ただし推定年下少女
目を覚まして、今度は老人と看護師の二人だけが部屋にいることを青年は確認した。ベッド脇の丸椅子に老人が座ってなにやらボードに留めた書類に向かっていて、看護師の中年の女性は部屋の設えを掃除しているらしかった。
眠っていたのだろうか、あの女性はどこにいったのだろう。青年はぼんやりとした思考のなかで考えた。
「む、目が覚めたかおまえさん」老人が青年に声をかけた。
「急に意識を失うんでみんな目を丸くして驚いちまったよ。まあ、寝てるだけのようだったからな。安静にして済ませたぜ」
老人と目が合うと、彼はにやりと口角を上げてみせて事情を説明した。それに合わせようとした僕は曖昧に口を歪ませるだけだった。
「……ええ、どうも。ありがとうございます。あの、それよりもですが」
「ああ、分かっているとも。まあなんだ、まずは自己紹介をしておこうか。おいアンナ、お前も来な」
掃除をしていた看護師が手を止め、ベッド脇に歩いてきた。こちらに向き直って、優しげな笑みを浮かべる。
「アンナといいます、ここの看護師を長いことやっているわ。よろしくね」
「俺がヴーデだ。ここの院長をしている」
老人はやはり医師で、中年の女性もまた看護師だった。そしてもちろんここは病院で、ヴーデさんが院長、アンナさんが他に三人程いる看護師の纏め役なのだそうだ。
ヴーデはけっこう快活に喋るが、アンナにその雰囲気は全くといっていいほど無い。仕事中だからだろうかとも考えたが、それにしても目つきがどこか剣呑だなと、そう気になってしまった。
「小さい病院で、ほぼ診療所みたいなもんだがな。余った部屋にベッドやらを置いていたんだが、おまえさんに丁度良かったぜ」
この街には主要道路の近くにもう一つ大きな病院があって、住民の多くはそちらに向かうのだそうだ。ここに来るのは付近数町ほどの住人ばかりだとか。
なるほど運が良かったらしい、そう青年は思った。
「あと、さっきの嬢ちゃん。おまえさんを発見してなんとかここに運び込んできたんだ、一人でだぞ?さっきお前が寝だしてから、用事があるって帰っていったがな」
また来るんだろう、そう老人は言った。それから彼らは、青年の状況を整理しようと話すことにした。アンナは他にやることがあると言って、部屋から出ていってしまった。
老人にこそ仕事はないのかと青年は思ってたずねてみたが、日曜日の今日は本来休日で、細かな点検も兼ねて青年のために病院に居るらしかった。青年は頭を下げるしかなかった。
「まあ、今は昼時だ。昼飯を持ってくるから、それを食べようか」
――簡単なアレだが、おまえさんきっと胃腸が弱ってるだろう。薄味にしてるからな。
老人と青年は似たような見た目の、味の薄い食事をとった。
老人は慣れ親しんだものを気軽に食べていたが、青年は最後に食事を摂ったのがいつのことかも分からなかず、食事が視界に収まった瞬間酷く腹の音が鳴ったので、温かいそれをゆっくりと、大事に味わって食べた。
じゃがいもと紙みたいに薄く切られたベーコンが入った味気ないスープが、なぜだかとてつもなく美味に感じられた。
「……さて、おまえさんは五日前に見つかったんだがな、見つけたのはさっきの嬢ちゃんなんだ」
「驚いたさ、なんせおまえさん。頭から血をだして眠りこけてやがった」
そう言われて、自分の頭に包帯があることに気がついた。既に縫合されているらしい。
曰く、ここの病院をよく利用している彼女が、用事からの帰り道で僕を見つけて、そのまま近くにあったここに運んできたのだと云う。
「なるほど、そうでしたか。なら、あの人にも礼を言わなければいけませんね」
「それがいい。嬢ちゃんよほど気になったのか知らんが、おまえさんの様子をずっと見に来ていたからなあ」髭に手を当てこすり、どこか懐かしむように空を見つめながら言った。
「まあ、それはさておきだなおまえさん。見つかったときの服が随分汚れてたから替えておいたが、それを確認しても身元が分かりそうなのは何もなかった」
――どうだ、名前以外でもなんでもいい。なにか思い出せそうなことはないかね?
青年はしばし熟考したのち、首を横に振った。
「……いいえ、いいえ。ダメなようです。なにかイメージしようにも全部目が覚めてから見たものになってしまって、それ以外には、何も」痛ましげに、顔を俯かせて青年は言った。
それを聞いた老人はなにやら顎に手を当て思案したあと、決心したように口を開いた。
「ならおまえさん、しばらくの間はここにいるといい。身寄りのあてなんかを抜きにしても、そもそも病人みたいなもんなんだからな」
――そもそもおまえさん、顔色も悪くていかんな。なんともまあ、あのクソったれたルピナスみたいに青いぞ。
ルピナスとやらを青年は知らないが、とにもかくにも僕の体調は中々に悪いらしい、そう考えた。
「……そういうことなら、ぜひよろしくお願いします」
「ああ、それでいい。心配はしなくていいさ。身元がここまで分からないとなれば、あれだ、逆に金や手続きの類もごまかせる。俺がなんとかしてやろう」
老人がニヤリと笑った。その表情と口走った内容がなんとも狡猾で、なかなか老獪な人なんだなあ、と青年は思った。
しかし、その瞳が不安定に揺れているような、そんな錯覚もしてしまった。
「さあ、決まったらまずは検査だ。そう詳しいことはできんが、必要なぶんはなんとかなる」
**
フェンネルという島国がヨーロッパの北西の遠洋にあるらしい。ヨーロッパのことは分かったが、フェンネルとは、初耳だった。僕はそれのそこそこ発展した街にいるのだそう。
あの後検査を受けて分かったことだが、僕は単なる記憶障害だけでなく、栄養失調や脱水症状なんかも併発していたらしい。それでしばらく点滴を打つ必要があった。
入院というのは随分金がかかるものでしょう、そう聞いてみたことがあったが、ヴーデさんから返ってきた返事は『そんなもん何百万何千万とかかるわけじゃないんだ。ツケといてやろう、出世払いでな』だった。
その詳細な額は分からなかったが、実際点滴以外には彼らで工夫していたようで、ほんとうに酷い負担ではないのかもしれない、そう思った。
おかげであてのない返済計画の期限が延びた。
目が覚めた次の日、件の女性が訪れてきた。
ハーテ、という名前だった。年は19歳。
「……では、ハーテさん。先日はありがとうございました。僕を見つけて下さったそうで」
「いえ、気にしないで。たまたま通りかかっただけなんだからさ。それよりもさ、名前忘れちゃったんだよね?身元もなにもわかんないって」
ずいぶん楽しそうに喋るのだな、と青年は思った。ベッド脇の椅子に腰掛けた彼女は、明るい朗らかな顔で笑いかけてきている。
「ええ、そうなりますね」
「じゃあさ、新しい名前が必要だよね。それ、私に名付けさせてくれない?」
――それと、さん付けはいらないでしょ、多分年近いしさ。
そういう辺りで、名前が必要な僕の名付け役になったのもまた彼女だった。雛鳥の話を持ち出されたがよく分からなかった。彼女は親になりたかったのだろうか。
「そうだね……。あなたは今日からアンダン、だね」
「アンダン、アンダンですね。わかりました、ありがとうございます、ハーテ」
この日、青年に名前がついた。アンダンはハーテに感謝を見せようとぎこちなく微笑み、彼女もそれに返した。
ヴーデ曰く、アンダンはハーテとおおよそは同年代に見えるとのことで、彼も18才として扱うことになった。
たしかに僕とハーテの年代は近いのかもしれない。しかし、鏡を見て思ったのだが、僕はそれより少し年上ではなかろうか。
成人していたとしてもおかしくはないように見える。
これならば少なくとも一才か二才かは上にしておくべきではないか、そう思って院長に直訴してみたが、その程度なら誤差だろうおまえさん。同い年にしておいたほうが都合がいいさ、と切り捨てられてしまった。
ルピナスというのは、ええ、花ですよ。あの島にはしょっちゅう生えていましてね。暫くしてから分かりましたが、どうも場所を選ばずにうじゃうじゃと繁殖するようでして、それで嫌う人が多いのだそうです。
とうの花自体はなかなか綺麗なんですがね、青紫といった感じで。




