第八話 銀の匙と赤い耳
会談の場は、国境の中立地帯にある旧砦だった。
魔王と王太子が直接顔を合わせるのは、停戦以来初めてだという。
私は料理人として同行した。
会談中に出す食事を作る——それが表向きの役割。
裏の役割は、王太子にミレーユの料理を食べさせること。
旧砦の厨房は狭かったが、最低限の設備はあった。
白いスープを作る。あの野営の夜のスープを、今の技術で。
仕上げに、パンを焼いた。
リュカが送り出してくれた薬草を添えて。
ゼルドリスとアルベール王太子の会談が始まった。
和平交渉の名目だが、空気は張り詰めている。
私は食事を運んだ。
王太子の前にスープを置いた瞬間、彼の目が揺れた。
「……この香りは」
「お召し上がりください」
王太子は黙ってスプーンを取った。
一口含んだ。
長い沈黙。
王太子の目に、涙が浮かんでいた。
「同じだ。あのときと——同じ味だ」
「殿下」
「ミレーユ。私は——」
「お話は、食事の後にお願いします。冷めてしまいますので」
料理人として、冷めたスープを出すわけにはいかない。
感情は、食後にいくらでも向き合える。
王太子は黙ってスプーンを取り直した。
二口目。三口目。
器が空になった。
「おかわりをお持ちしましょうか」
「……頼む」
二杯目を注いだ。
王太子の手が、かすかに震えていた。
「ミレーユ。私はずっと、この味を探していた」
「殿下——」
「宮廷の料理は美しい。技術も申し分ない。だが——何かが足りなかった。お前がいなくなってから、ずっと」
「食事の話は、食後にお願いします」
「なぜだ」
「温かいスープは温かいうちに。冷めてからでは、味が変わります」
王太子は小さく笑った。
「お前は変わらないな。料理のことになると、相手が王族でも容赦がない」
「料理の前では、全員平等です」
二杯目も空になった。
王太子は黙ってスープを飲み干した。
食事の後。
ナディアが証拠を提示した。
レシピ帳の本物と偽物。食材納品記録の不一致。毒の瓶のベルモン家の紋章。
王太子はすべてに目を通した。
「……知っていた」
「えっ」
「毒ではないと、知っていた。あのスープに毒が入っているはずがない。あの味は——人を殺すための味ではない」
「ならば、なぜ——」
「言えなかった。ベルモン公爵の政治力。ラヴィエール伯爵の宮廷での影響力。私一人では——」
「殿下」
ゼルドリスの声が割って入った。
「一人でなければ、言えるか」
王太子はゼルドリスを見た。
「魔王が、人間の料理人のために動くのか」
「人間も魔族もない。美味い飯を作る人間が嘘で潰されるのを見過ごすことは、正義ではない」
「正義……」
「お前は良き王になりたいと言ったな。なら、正しいことをしろ。遅くはない」
王太子は長い沈黙に沈んだ。
やがて、静かに口を開いた。
「ラヴィエール伯爵の料理局長とベルモン公爵令嬢を、証拠偽造と偽証の疑いで査問にかける。私の名で」
「殿下——」
「遅くなった。すまなかった、ミレーユ」
「謝らないでください。殿下がお元気で、食事を美味しいと感じてくださっているなら、それで」
王太子は泣いていた。
声を出さず、静かに。
◇
帰りの馬車の中。
「ゼルドリス様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「いえ、料理を食べてくださったことへのお礼です。ずっと」
ゼルドリスは窓の外を見た。
「あの夜」
「え?」
「国境で、お前が焚き火でスープを作っていた夜。私はただ通りかかっただけではない」
「……?」
「追放された人間の料理人がいると聞いて、見に行った。人間の料理というものを、食べてみたかった」
「それは——」
「飢えていたわけではない。ただ——何か、温かいものを食べたかった」
ゼルドリスの声は、いつもより低かった。
窓の外を見たまま、耳だけが赤い。
「あのスープを飲んで、初めて分かった。これが『美味しい』という感覚か、と」
私は何も言えなかった。
代わりに、ゼルドリスの隣に座り直した。
肩と肩が触れるか触れないかの距離。
「また作ります。何度でも」
「……ああ」
馬車が揺れた。
その振動で、肩が少しだけ触れた。
どちらも離れなかった。
しばらくそのまま、馬車の揺れに身を任せた。
「ゼルドリス様」
「何だ」
「あの夜のスープを探していたって、本当ですか」
「嘘は言わない」
「でも、たかが野営のスープですよ。薬草と干し肉だけの」
「たかが、と言うな」
声が少し強くなった。
「あのスープは、私が初めて『もう一杯飲みたい』と思ったものだ。それを『たかが』と言われるのは——」
言葉を切った。
「言われるのは?」
「……不愉快だ」
(……怒っている。私のスープを貶されたことに。)
「すみません。撤回します」
「撤回しろ」
「大切なスープでした」
「……ああ」
ゼルドリスは窓の外に視線を戻した。
耳が赤い。怒りではなく——照れだと分かった。
「ゼルドリス様。一つお願いがあります」
「何だ」
「城に帰ったら、今夜は特別な夜食を作らせてください」
「夜食?」
「あの夜のスープを。もう一度」
ゼルドリスは黙った。
「……五杯分用意しろ」
「五杯ですか。三杯じゃなくて?」
「今日は特別だ」
「何が特別なんですか」
「……」
ゼルドリスは答えなかった。
けれど、窓の外を見る横顔が、いつもより穏やかだった。
沈黙が流れた。けれど気まずさはない。
馬車の揺れと、遠くの虫の声だけが響いている。
「ゼルドリス様。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「ゼルドリス様は、食事以外で笑うことはありますか」
「ない」
「即答ですね」
「必要がない」
「でも今日、少し笑いましたよね」
「……あれは顔の筋肉が動いただけだ」
「それを世間では笑顔と呼ぶんですよ、ゼルドリス様」
ゼルドリスは黙った。
赤くなった耳だけが、正直に答えを語っていた。
魔王城が見えてきた。
厨房の灯りが、星よりも先に見えた。
魔王城が見えてきた。
厨房の灯りが、星よりも先に見えた。
「あの灯り——誰かが厨房を使っている」
「ナディアだろう。留守中の食事を引き受けてくれた」
「そうでしたか。ナディアなら安心です」
「あいつも腕がいい。お前の弟子だけのことはある。よく似ている」
「私より丁寧ですよ。手順を絶対に省かない」
「お前は省くのか」
「美味しくなるなら、省くこともあります」
「……それでいい。お前の料理だ」
「おかえりなさい!」
リュカが門の前で待っていた。尻尾が千切れそうなほど振れている。
「ただいま。夜食を作るわ」
「やった!」
厨房に戻る。
自分の場所だと、心から思えた。
けれど、査問はこれからだ。
オーギュストとシャルロットが、おとなしく認めるとは思えない。
包丁を握る。
次の戦いの準備をしなくては。
ナディアが隣に立った。
「先輩。私も手伝います」
「……ありがとう、ナディア」
二人で厨房に立つ。
師匠と弟子。かつて宮廷で並んだように。
ゼルドリスが厨房の前を通った。
足音が止まり——そして、通り過ぎた。
(……今日は、四回通ったわね。)
笑いが込み上げた。
銀の匙でスープを味見する。
うん、美味しい。
赤い耳の魔王にも、きっと気に入ってもらえる。




