第六話 偽りの晩餐会
晩餐会の会場は、ヴァルディア王宮の大広間だった。
追放されて以来、初めて足を踏み入れる場所。
空気の匂いが変わる。
石灰と蝋燭と、貴族たちの香水。
懐かしい——と思ってしまった自分が、少し嫌だった。
魔王の随行料理人として、私は裏口から入った。
厨房を借り、持参した食材で仕上げの調理をする。
手が止まったのは、厨房の入り口にオーギュスト局長が立っていたからだ。
「おや。ミレーユではないか」
白い料理長服。口髭。恰幅の良い体。
変わっていない。あの日と同じだ。
「局長」
「追放された料理人が、魔王の犬として帰ってきたか。哀れなものだ」
「犬ではありません。料理人として来ています」
「料理人? 毒を盛る料理人がか」
周りの宮廷料理人たちが、ちらちらとこちらを見ている。
誰も助けない。局長の前では、全員が黙る。それが宮廷の流儀だ。
「毒は盛っていません。局長がそれを一番よくご存じのはずです」
オーギュストの目が細くなった。
けれど、笑みは崩れない。
「好きに言え。だが今夜、お前の料理がこの広間で恥をかくのを楽しみにしているよ」
局長が去った後、手が震えた。
(……駄目だ。震えるな。)
包丁を握る。
母の形見の包丁。追放の日に持ち出した、唯一の武器。
あれから数ヶ月。
この包丁で何百回、何千回と料理を作った。
魔王城の四十二人のために。街の人間と魔族のために。
そして——隣にいてくれる人のために。冷たい柄の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。
料理を仕上げる。
白いスープに黒トリュフ。仕上げに、焼きたてのパンを添えた。
ゼルドリスが言った「足りないもの」——それは「誰かのために作りたいという気持ち」だった。
宮廷にいた頃、私は王太子の「美味しい」のために料理をしていた。
けれど今は、違う。
魔王城の四十二人。リュカの尻尾。ヘルガの無言の信頼。
そして、ゼルドリスの赤い耳。
この人たちのために作る料理に込めた気持ちが、あの野営のスープにはあって、試作のスープにはなかったもの。
皿を運ぶ。
大広間に並ぶ各国の料理の中、魔王領の一皿は明らかに質素だった。
金箔もトリュフの山もない。白いスープとパンだけ。
貴族たちが囁き合う。
「あれが魔王の料理? 随分と貧相だな」
「所詮は追放された料理人だ」
シャルロット公爵令嬢が扇子の陰で笑った。
「まあ、毒入りスープの料理人ですものね」
聞こえている。全部、聞こえている。
けれど、顔は上げない。
各国の代表が順に料理を試食していく。
ヴァルディアの料理はオーギュスト局長の自信作——金箔を纏った仔羊のロースト。
豪華だ。技術も高い。
けれど——局長の料理には、いつも同じ癖がある。
塩が強い。素材の味を殺して、調味料の力で押し切る。
私はそれを五年間、隣で見てきた。
魔王領のスープに、王太子アルベールが手を伸ばした。
一口。
王太子の手が、止まった。
長い沈黙。
「……これは」
王太子の目が、見開かれていた。
「このスープは——」
言いかけた言葉を、シャルロットが遮った。
「殿下。あの女の料理など、お口に合うはずがありませんわ」
王太子は黙った。
また——沈黙。
けれど、その手はスープの器を離さなかった。
晩餐会の後、裏口で帰り支度をしていると、ゼルドリスが近づいてきた。
「局長の料理より、お前の料理のほうが美味かった」
「食べ比べたんですか」
「全種類食べた。お前のが一番だ」
「……ありがとうございます」
「だが、王太子の反応が気になる」
「私もです」
「あの男は、お前の料理の味を知っている顔をしていた」
ゼルドリスの観察力に、背筋が冷たくなった。
「……はい。王太子は以前、私の料理を召し上がったことがあります」
「それが追放の原因か」
「直接の原因ではありませんが——きっかけではあります」
ゼルドリスは黙った。
それから、低い声で言った。
「帰るぞ。お前の厨房が待っている」
「お前の厨房」——その言葉が、思いのほか温かかった。
ゼルドリスは私の前を歩いた。裏口の廊下は薄暗い。
「ゼルドリス様」
「何だ」
「今日の料理、本当に一番でしたか」
「嘘は言わない」
「局長の仔羊は技術的には完璧でした」
「技術が完璧でも、食べた後に何も残らない料理だった。お前のスープは——」
「スープは?」
「腹だけでなく、胸が温かくなった。それが違いだ」
(……この人は、ときどきとんでもないことをさらりと言う。)
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより、あの王太子の反応が気になる」
「お前の厨房」——その言葉が、思いのほか温かかった。
馬車の中で、ゼルドリスが口を開いた。
「ミレーユ」
「はい」
「あの局長は、お前を二度と料理人として立たせないつもりだ」
「分かっています」
「だから——こちらも、準備をする」
「準備?」
「お前の冤罪を晴らす。そのための証拠を集める」
息が止まった。
「なぜ——なぜ、そこまで」
ゼルドリスは窓の外を見た。
「美味い飯を作る人間を、嘘で潰す連中を放っておけない。それだけだ」
それだけ、のはずがない。
けれど、追及する勇気はなかった。
代わりに、小さく言った。
「ありがとうございます」
馬車が魔王城に着いた。
厨房の灯りが、遠くから見えた。
リュカが厨房の前で待っていた。
「おかえりなさい! どうでした!」
「ただいま。お腹空いたでしょう、夜食を作るわ」
「やった!」
リュカの尻尾が揺れる。
その揺れが、今夜は特に眩しかった。
「ミレーユさん。今日の晩餐会、どうだったんですか」
「色々あったわ」
「ゼルドリス様、お料理美味しかったって言ってましたか」
「言ってくれたわ。全種類食べて、私のが一番だって」
「やった! それって、ゼルドリス様が言うってことは、本当に一番ってことですよ!」
「どうして?」
「ゼルドリス様、お世辞を言えない人ですから。美味しくないものは一口で箸を置くんです。僕、見たことあります」
「そうなの?」
「はい。前に配給の乾パンを出したとき、一口かじって『これは食事ではない。建材だ』って言いました」
「建材……」
「だから三杯おかわりするって、すごいことなんですよ」
リュカの言葉に、胸の奥が温かくなった。
厨房に戻り、夜食の準備をしながら思った。
オーギュスト局長は、次の手を打ってくるだろう。
晩餐会で私の料理が注目されたことを、あの人が許すはずがない。
けれど——もう、一人ではない。
包丁を握る手に、力が入った。
ヘルガが厨房に入ってきた。
「ミレーユ。晩餐会の報告書を書いたわ。記録として残しておく」
「報告書?」
「料理の内容、各国の代表の反応、王太子の表情の変化。すべて記録した」
「ヘルガさん、それは——」
「証拠になるかもしれないでしょう。中立の第三者が記録した公式文書。局長が何かを仕掛けてきたとき、あなたを守る盾になる」
「……ありがとうございます」
「お礼はいらないわ。これは家政婦長としての職務よ」
ヘルガは鍵束を鳴らして出ていった。
この人もまた、行動で気持ちを示す人だ。
次の手は、向こうから来る。
そしてそれは——三日後、ナディアが命がけで届けた一通の手紙によって明らかになる。




