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追放令嬢の賄い飯が美味すぎて魔王陛下が厨房に住みつきました  作者: 渚月(なづき)


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第五話 尻尾が揺れる夜食の時間

リュカが夜食を食べに来るようになったのは、いつからだろう。

毎晩、厨房の隅で行儀よく待っている犬耳の少年は、いつの間にか私の日課になっていた。


「今日は何ですか」


「残り物の雑炊よ」


「やった! ミレーユさんの残り物、世界一美味しいです」


「残り物に世界一は言い過ぎよ」


「でも本当なんだもん」


リュカの尻尾が揺れる。

この子の正直さに、何度救われただろう。


リュカは半魔族だ。

人間の母と魔族の父を持ち、どちらの世界にも完全には属せない。

魔王城に拾われて、雑用係として働いている。


「リュカくん。人間の食事は食べたことある?」


「ないです。母さんが作ってくれたのは覚えてるけど……味は忘れちゃいました」


「お母さんの料理、何だった?」


「パンと、チーズと、あったかいミルク。それだけです。でも、すっごく美味しかった」


リュカの目が少し潤んだ。

尻尾の動きが止まっている。


「明日、パンを焼いてみる。チーズは手に入らないけど、温かいミルクなら用意できるわ」


「……いいんですか」


「料理人は、食べたい人のために作るの。特別なことじゃないわ」


リュカの尻尾が、今度はゆっくりと揺れた。

嬉しいときの揺れ方とは違う。もっと静かで、温かい揺れ方。



翌日。パンを焼いた。

小麦粉は魔界産で色が少し黒いが、発酵は問題ない。


焼きたてのパンの香りが厨房に広がった。


最初に来たのはリュカだった。鼻をひくひくさせながら走ってくる。


「この匂い! 何ですかこの匂い!」


「パンよ。焼きたての」


「焼きたて……? パンって焼きたてがあるんですか?」


「もちろん。焼きたてが一番美味しいの」


リュカの目が宝石でも見つけたかのように輝いた。


次にヘルガが現れ、その後ろから城の者たちが次々と顔を出した。


角のある門番が鼻を鳴らし、羽の生えた書記官が天窓から覗き込み、牙のある鍛冶屋が仕事場から駆けてきた。


「この匂い、何だ」


「パンよ。今日の朝食に追加するわ」


「パン? 乾パンじゃなくて?」


「焼きたてのパンよ」


城の者たちの目が輝いた。

乾パンしか知らなかった彼らにとって、焼きたてのパンは未知の食べ物だった。


朝食後、ゼルドリスが厨房に来た。


「パンが美味かった」


「ありがとうございます」


「あれは宮廷でも出していたのか」


「いいえ。宮廷ではパンは専門のパン職人が焼きます。料理人がパンを焼くのは格式に反するとされていました」


「格式」


「はい。宮廷料理には厳格な分業制があって、料理人は料理人、パン職人はパン職人。領域を越えることは許されません」


「つまらん」


「え?」


「美味いものを作る人間が作ればいい。格式で味が良くなるわけではない」


(……この人は、本当にまっすぐだ。)


「ゼルドリス様のおっしゃる通りだと思います」


「では晩餐会の料理も、格式は無視しろ」


「しかし、宮廷の晩餐会には作法が——」


「私は魔王だ。人間の作法に縛られる必要はない。お前の料理を出せ」


その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。


格式に縛られていた五年間。

「美味しい」よりも「正しい」を求められた日々。

誰かに認められるために、自分の味を殺していた。


「……分かりました。私の料理を出します」


ゼルドリスは頷いた。

扉に向かいかけて、足を止めた。


「一つ聞く」


「何ですか」


「お前は格式に縛られていた五年間を、後悔しているか」


「後悔はしていません。あの五年間で技術を磨きました。でも——」


「でも?」


「もっと自由に作りたかったとは、思います。食べる人の顔を見ながら、その人に合わせた料理を」


「宮廷ではそれができなかったのか」


「できませんでした。メニューは局長が決めて、分量も盛り付けも規定通り。私の判断が入る余地はほとんどなかった」


「それで王太子の料理のときは」


「あのときだけ、自分の判断で作りました。局長が席を外していて、急遽私に任されたんです」


「そして、それが局長の逆鱗に触れた」


「はい。自分の部下が自分より美味い料理を作った。しかも王太子に褒められた。それが許せなかったんでしょう」


ゼルドリスは静かに言った。


「くだらない男だ」


「局長は腕は凡庸ですが、政治力は本物です。侮れません」


「腕が凡庸で政治力だけある料理人。それは料理人とは呼ばない」


「では、何と呼びますか」


「政治家だ。厨房にいるべきではない」


ゼルドリスは厨房を出て行った。


扉が閉まった後、一人で泣きそうになった。

泣いたわけではない。目頭が熱くなっただけだ。


リュカが顔を出した。


「ミレーユさん、大丈夫ですか」


「大丈夫よ。玉ねぎを切っただけ」


「玉ねぎ、まだ出してないですよ」


「……これから出すの」


リュカは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

代わりに、尻尾を揺らしながら隣に立った。


「手伝います」


「ありがとう」


晩餐会の準備は着々と進んでいた。

けれど、ゼルドリスが指摘した「足りないもの」は、まだ見つからない。


パンを焼きながら、考える。


宮廷にいた頃の私は、何を込めて料理を作っていたか。


答えが出ないまま、晩餐会の前夜になった。


そのとき、ナディアからの手紙が届いた。

宮廷料理局の見習い。私の元後輩。


手紙は短かった。


「ミレーユ先輩。局長が晩餐会であなたの料理を潰す準備をしています。気をつけてください」


指先が冷たくなった。


手紙を何度も読み返した。

ナディアの文字は小さくて几帳面で、ところどころインクが滲んでいる。書きながら泣いていたのかもしれない。


「局長が晩餐会であなたの料理を潰す準備をしています」


具体的に何をするつもりだろう。

考えられるのは——審査員への根回し、料理の妨害、あるいは再び「毒」の噂を流すこと。


どれも局長ならやりかねない。


リュカが顔を出した。


「ミレーユさん、顔色悪いですよ」


「大丈夫よ」


「嘘だ。ミレーユさん、大丈夫じゃないときほど大丈夫って言います」


「……鋭いわね」


「犬の鼻は嘘を嗅ぎ分けます」


「あなた犬じゃないでしょう」


「半分犬です」


リュカの真顔に、思わず笑ってしまった。

笑ったら、少しだけ楽になった。


「ありがとう、リュカくん」


「何もしてないですよ」


「いてくれるだけで十分よ」


オーギュスト局長が動いている。

私を追放しただけでは足りず、料理そのものを潰そうとしている。


(……でも、負けない。)


包丁を握り直した。


リュカの言葉が頭に残っている。

「僕、ずっとここにいますよ」


ヘルガが黙って食材を手配してくれたこと。

ゼルドリスが格式を無視しろと言ってくれたこと。

リュカが毎日味見をしてくれたこと。


この人たちのために料理を作るとき、私は一番良い顔をしているのだと思う。

ナディアの手紙を見て指先が冷たくなったけれど——それでも、この手は料理を作るための手だ。


オーギュスト局長が何を仕掛けてこようと、どんな妨害を仕組んでこようと、私の武器は一つしかない。けれどその一つがあれば、十分だ。

皿の上で勝負する。それだけだ。


明日の晩餐会で出す料理が、ようやく決まった。


ゼルドリスが言った「足りないもの」——それが何か、分かった気がする。


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