第五話 尻尾が揺れる夜食の時間
リュカが夜食を食べに来るようになったのは、いつからだろう。
毎晩、厨房の隅で行儀よく待っている犬耳の少年は、いつの間にか私の日課になっていた。
「今日は何ですか」
「残り物の雑炊よ」
「やった! ミレーユさんの残り物、世界一美味しいです」
「残り物に世界一は言い過ぎよ」
「でも本当なんだもん」
リュカの尻尾が揺れる。
この子の正直さに、何度救われただろう。
リュカは半魔族だ。
人間の母と魔族の父を持ち、どちらの世界にも完全には属せない。
魔王城に拾われて、雑用係として働いている。
「リュカくん。人間の食事は食べたことある?」
「ないです。母さんが作ってくれたのは覚えてるけど……味は忘れちゃいました」
「お母さんの料理、何だった?」
「パンと、チーズと、あったかいミルク。それだけです。でも、すっごく美味しかった」
リュカの目が少し潤んだ。
尻尾の動きが止まっている。
「明日、パンを焼いてみる。チーズは手に入らないけど、温かいミルクなら用意できるわ」
「……いいんですか」
「料理人は、食べたい人のために作るの。特別なことじゃないわ」
リュカの尻尾が、今度はゆっくりと揺れた。
嬉しいときの揺れ方とは違う。もっと静かで、温かい揺れ方。
◇
翌日。パンを焼いた。
小麦粉は魔界産で色が少し黒いが、発酵は問題ない。
焼きたてのパンの香りが厨房に広がった。
最初に来たのはリュカだった。鼻をひくひくさせながら走ってくる。
「この匂い! 何ですかこの匂い!」
「パンよ。焼きたての」
「焼きたて……? パンって焼きたてがあるんですか?」
「もちろん。焼きたてが一番美味しいの」
リュカの目が宝石でも見つけたかのように輝いた。
次にヘルガが現れ、その後ろから城の者たちが次々と顔を出した。
角のある門番が鼻を鳴らし、羽の生えた書記官が天窓から覗き込み、牙のある鍛冶屋が仕事場から駆けてきた。
「この匂い、何だ」
「パンよ。今日の朝食に追加するわ」
「パン? 乾パンじゃなくて?」
「焼きたてのパンよ」
城の者たちの目が輝いた。
乾パンしか知らなかった彼らにとって、焼きたてのパンは未知の食べ物だった。
朝食後、ゼルドリスが厨房に来た。
「パンが美味かった」
「ありがとうございます」
「あれは宮廷でも出していたのか」
「いいえ。宮廷ではパンは専門のパン職人が焼きます。料理人がパンを焼くのは格式に反するとされていました」
「格式」
「はい。宮廷料理には厳格な分業制があって、料理人は料理人、パン職人はパン職人。領域を越えることは許されません」
「つまらん」
「え?」
「美味いものを作る人間が作ればいい。格式で味が良くなるわけではない」
(……この人は、本当にまっすぐだ。)
「ゼルドリス様のおっしゃる通りだと思います」
「では晩餐会の料理も、格式は無視しろ」
「しかし、宮廷の晩餐会には作法が——」
「私は魔王だ。人間の作法に縛られる必要はない。お前の料理を出せ」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけた。
格式に縛られていた五年間。
「美味しい」よりも「正しい」を求められた日々。
誰かに認められるために、自分の味を殺していた。
「……分かりました。私の料理を出します」
ゼルドリスは頷いた。
扉に向かいかけて、足を止めた。
「一つ聞く」
「何ですか」
「お前は格式に縛られていた五年間を、後悔しているか」
「後悔はしていません。あの五年間で技術を磨きました。でも——」
「でも?」
「もっと自由に作りたかったとは、思います。食べる人の顔を見ながら、その人に合わせた料理を」
「宮廷ではそれができなかったのか」
「できませんでした。メニューは局長が決めて、分量も盛り付けも規定通り。私の判断が入る余地はほとんどなかった」
「それで王太子の料理のときは」
「あのときだけ、自分の判断で作りました。局長が席を外していて、急遽私に任されたんです」
「そして、それが局長の逆鱗に触れた」
「はい。自分の部下が自分より美味い料理を作った。しかも王太子に褒められた。それが許せなかったんでしょう」
ゼルドリスは静かに言った。
「くだらない男だ」
「局長は腕は凡庸ですが、政治力は本物です。侮れません」
「腕が凡庸で政治力だけある料理人。それは料理人とは呼ばない」
「では、何と呼びますか」
「政治家だ。厨房にいるべきではない」
ゼルドリスは厨房を出て行った。
扉が閉まった後、一人で泣きそうになった。
泣いたわけではない。目頭が熱くなっただけだ。
リュカが顔を出した。
「ミレーユさん、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。玉ねぎを切っただけ」
「玉ねぎ、まだ出してないですよ」
「……これから出すの」
リュカは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、尻尾を揺らしながら隣に立った。
「手伝います」
「ありがとう」
晩餐会の準備は着々と進んでいた。
けれど、ゼルドリスが指摘した「足りないもの」は、まだ見つからない。
パンを焼きながら、考える。
宮廷にいた頃の私は、何を込めて料理を作っていたか。
答えが出ないまま、晩餐会の前夜になった。
そのとき、ナディアからの手紙が届いた。
宮廷料理局の見習い。私の元後輩。
手紙は短かった。
「ミレーユ先輩。局長が晩餐会であなたの料理を潰す準備をしています。気をつけてください」
指先が冷たくなった。
手紙を何度も読み返した。
ナディアの文字は小さくて几帳面で、ところどころインクが滲んでいる。書きながら泣いていたのかもしれない。
「局長が晩餐会であなたの料理を潰す準備をしています」
具体的に何をするつもりだろう。
考えられるのは——審査員への根回し、料理の妨害、あるいは再び「毒」の噂を流すこと。
どれも局長ならやりかねない。
リュカが顔を出した。
「ミレーユさん、顔色悪いですよ」
「大丈夫よ」
「嘘だ。ミレーユさん、大丈夫じゃないときほど大丈夫って言います」
「……鋭いわね」
「犬の鼻は嘘を嗅ぎ分けます」
「あなた犬じゃないでしょう」
「半分犬です」
リュカの真顔に、思わず笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ楽になった。
「ありがとう、リュカくん」
「何もしてないですよ」
「いてくれるだけで十分よ」
オーギュスト局長が動いている。
私を追放しただけでは足りず、料理そのものを潰そうとしている。
(……でも、負けない。)
包丁を握り直した。
リュカの言葉が頭に残っている。
「僕、ずっとここにいますよ」
ヘルガが黙って食材を手配してくれたこと。
ゼルドリスが格式を無視しろと言ってくれたこと。
リュカが毎日味見をしてくれたこと。
この人たちのために料理を作るとき、私は一番良い顔をしているのだと思う。
ナディアの手紙を見て指先が冷たくなったけれど——それでも、この手は料理を作るための手だ。
オーギュスト局長が何を仕掛けてこようと、どんな妨害を仕組んでこようと、私の武器は一つしかない。けれどその一つがあれば、十分だ。
皿の上で勝負する。それだけだ。
明日の晩餐会で出す料理が、ようやく決まった。
ゼルドリスが言った「足りないもの」——それが何か、分かった気がする。




