第四話 宮廷の味と厨房の味
宮廷の味と厨房の味は、まるで別の言語だった。
私はそのことを、ヘルガが持ち帰った一枚の招待状で思い知ることになる。
「ヴァルディア王国主催の国際晩餐会。魔王領にも招待が来ている」
ヘルガが淡々と読み上げた。
「国際晩餐会……人間と魔族が同じテーブルにつくということですか」
「形式上はね。実際は政治的な牽制よ。ヴァルディアが和平を主導しているという見せかけのために、魔王領も呼ぶ」
「ゼルドリス様は出席されるんですか」
「出席する。そして——料理を一品、持参する慣例がある」
(……つまり、私が作るということ。)
「ミレーユ。あなたに任せたいのだけれど」
「私が作った料理が、ヴァルディアの宮廷で出されるんですか」
「そう。追放された場所に、料理だけが帰るのよ」
胸がざわついた。
あの宮廷に——オーギュスト局長がいる。シャルロット公爵令嬢がいる。
そして、王太子がいる。
「やります」
「即答ね」
「料理人ですから。作る場所は選びません。食べる人も選びません。でも——」
「でも?」
「美味しいものを作ります。言い訳のしようがないくらい」
ヘルガの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
晩餐会に向けた試作が始まった。
問題は、何を作るかだ。
宮廷の格式に合わせるなら、伝統的な品が無難。
けれど——私が作りたいのは、そういう料理ではない。
「ゼルドリス様。一つ相談があるのですが」
執務室を訪ねると、ゼルドリスは書類の山に埋もれていた。魔王の仕事は意外と事務的だ。
「何だ」
「晩餐会の料理について。何か希望はありますか」
「ない」
「……本当に?」
「お前の作るものなら、何でもいい」
無表情のまま、そう言った。
けれど、万年筆を持つ手がほんの少し止まっていた。
「では、一つだけ教えてください。ゼルドリス様が生まれて一番美味しかったものは何ですか」
長い沈黙。
「……覚えていない」
「覚えていない?」
「魔族に味覚はある。だが食事は生存のための行為でしかなかった。美味しいという感覚を知ったのは——」
言葉が途切れた。
「知ったのは?」
「お前のスープが初めてだ」
静かな声だった。
淡々と事実を述べるような。
けれど、耳がまた赤くなっている。
「……分かりました。では、あのスープを進化させましょう」
「進化?」
「野営のスープを、晩餐会に出せる一皿にします。素材の味を活かした、飾らない料理を」
ゼルドリスは私を見た。
赤い瞳に、何かが灯ったように見えた。
「……任せる」
試作の日々が始まった。
リュカが味見役に立候補し、毎日厨房に入り浸るようになった。
「ミレーユさん、これ美味しい! でもさっきのほうが好き!」
「どこが違った?」
「んー……さっきのほうが、ほわって来ました」
「ほわっと」
「はい。胸のあたりが、ほわって」
リュカの感想は専門的ではない。
けれど、その「ほわっと」を追いかけることが、料理人にとっては一番大事だ。
試作を重ねるうちに、ヘルガが上等な食材を手配してくれるようになった。
魔界の市場でしか手に入らない黒トリュフ。火山灰で育った塩の結晶。深海の海藻から取った出汁。
「ヘルガさん、これは高級品では」
「魔王の名前で出す料理が貧相では困る。それだけよ」
彼女なりの応援だと分かった。
そして試作七日目。
完成した一皿は、白いスープの上に黒トリュフの薄切りを浮かべたものだった。
シンプル。けれど、一口で分かる。
素材の力と、それを引き出す技術の両方が。
ゼルドリスに試食を頼んだ。
一口。
二口。
三口。
器が空になった。
おかわりを注いだ。また空になった。
三杯目を注ごうとしたら、ゼルドリスが手で制した。
「……」
器を置いた。
長い沈黙。
リュカが厨房の隅で固唾を飲んでいる。
「ミレーユさん……ゼルドリス様、怒ってます?」
「静かに」
ゼルドリスが目を閉じた。味を反芻しているのだと分かった。
魔王の味覚は鋭い。一口ごとに素材の層を読み解いている。
やがて目を開けた。
「まだ足りない」
「え?」
「味ではない。この料理に、まだ何か足りない」
「何が足りないんですか」
「分からん。だが——お前が宮廷にいた頃の料理には、あったもの」
私は手を止めた。
ゼルドリスは立ち上がり、扉に向かった。
「思い出せ。お前があの宮廷で、何を込めて作っていたかを」
扉が閉まった。
厨房に一人残されて、私は鍋の前に立ち尽くした。
ゼルドリスの言葉が、頭の中で反響している。
「お前が宮廷にいた頃の料理には、あったもの」
リュカが恐る恐る顔を出した。
「ミレーユさん……大丈夫ですか」
「ええ。ちょっと考え事をしていただけ」
「ゼルドリス様、怒ってたんじゃないんですか」
「怒ってはいないわ。ただ——正直なことを言ってくれたの」
「足りないって言ってたけど……僕はすっごく美味しかったですよ」
「ありがとう、リュカくん。でも、ゼルドリス様が言っているのは味のことじゃないの」
「味じゃなかったら、何が足りないんですか」
良い質問だった。
私自身がそれを知りたい。
「たぶん——気持ち、かな」
「気持ち?」
「料理には、技術と素材以外にもう一つ、大事なものがあるの。それを私は——見失っているのかもしれない」
リュカは首を傾げた。
けれど、何か言いたそうにして、結局黙った。
代わりに、黙って隣に座った。
温かい体温が、少しだけ気持ちを楽にしてくれた。
「リュカくん」
「はい」
「あなたがいてくれて、助かるわ」
尻尾がぱたぱたと揺れた。
翌日も試作を続けた。
ヘルガが調達してくれた深海の海藻で出汁を取り、根菜の甘みと合わせてみた。
スープの色が、少し金色がかった。
味見する。美味しい。けれど——何かが足りない。
リュカに食べてもらった。
「美味しいです! でも昨日の方が好きでした」
「どう違う?」
「昨日のは、ミレーユさんが楽しそうに作ってました。今日のは、難しい顔で作ってた」
(……見られていたのか。)
料理人の表情が味に影響する。
師匠もそう言っていた。楽しんで作った料理と、悩みながら作った料理は、同じレシピでも違う味になる。
科学的な根拠はないかもしれない。
けれど、リュカの舌がそう言うなら——きっと本当だ。
「僕、ずっとここにいますよ。ミレーユさんの料理が食べられるなら」
(……この子のために作りたい。そう思える。)
ふと気づいた。
それだ。「誰かのために作りたい」という気持ち。
宮廷にいた頃、私は王太子のために料理を作っていた。
初めて「美味しい」と言ってもらえたとき、胸が弾んだ。
あの気持ちが、料理に宿っていたのだ。
追放されてから、私は「証明するため」に料理をしていた。
自分の腕を見せるため。冤罪を晴らすため。
それは間違いではないけれど——足りない。
宮廷にいた頃の料理に、あったもの。
技術でも素材でもない何か。
(……何だろう。私は、あの頃、何を考えて料理をしていた?)
思い出せない。
いや——思い出したくない。
あの厨房での記憶は、追放の痛みと結びついている。
それでも、ゼルドリスの言葉が引っかかって離れない。
晩餐会まで、あと三日。




