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追放令嬢の賄い飯が美味すぎて魔王陛下が厨房に住みつきました  作者: 渚月(なづき)


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第三話 焦げた記憶と白いスープ

魔王城の厨房に立って最初に分かったのは、この竈が怒っていることだった。

火力が安定しない。人間の竈と違い、魔力で動く炉は使い手の感情に反応する。


私は深呼吸した。

手のひらを竈にそっと当てる。

冷たい鉄の肌が、ほんの少しだけ温まった。


「お願い。私に力を貸して」


竈が応えたわけではないと思う。

けれど、火力が安定した。


最初の仕事は、乾パンの再利用だった。

硬くなったパンを薄く切り、塩漬け肉の脂で揚げ焼きにする。干し野菜を戻して刻み、肉と一緒に煮込む。

根菜は皮ごと灰の中に埋めて蒸し焼きにした。


香りが立ちのぼる。

厨房の扉の向こうから、気配がにじり寄ってくるのが分かった。


朝食の時間。

食堂に並んだ魔族たちの顔は、一様に硬かった。


四十二人。

角のある者、牙のある者、羽のある者。

そのすべてが、私を——人間を——警戒の目で見ている。


皿を並べた。

揚げパンのスープ添え。根菜の蒸し焼き。干し野菜と塩漬け肉の煮込み。


誰も手をつけない。


当然だ。人間に追放された人間が作った食事。毒が入っていてもおかしくない。


私は自分の皿から一口食べた。

それから、じっと待った。


最初に手を伸ばしたのは、犬耳の少年だった。

茶色い髪に大きな瞳。お腹の虫が盛大に鳴っている。


「……いただきます」


一口。

少年の目が、まん丸になった。


尻尾が——勝手に振れている。

左右に、ぶんぶんと。


「うまい! なにこれ、うまい!」


「リュカ、静かに食べなさい」


ヘルガが窘めたが、その目は私の皿を見ていた。


「……毒見は済んだようね。いただくわ」


ヘルガが一口食べた瞬間、モノクルがかすかにずれた。

表情は変えなかった。けれど、二口目の速度が一口目の倍だった。


「この根菜はどう処理した」


「灰の中で蒸し焼きにしました。皮ごと入れると甘みが閉じ込められます」


「魔界の根菜は硬くて食べられないと思っていたのだけれど」


「硬い食材ほど、火を通したときに化けます。宮廷ではこういう調理法は格式に反するとされていましたが」


「格式ね。美味ければそれでいいわ」


ヘルガはそう言って、もう一皿おかわりした。




ヘルガが一口食べた瞬間、モノクルがかすかにずれた。

表情は変えなかった。けれど、箸が止まらなくなっていた。


一人が食べ始めると、堰を切ったように全員が食べ始めた。


食堂に広がったのは、食器の音と、咀嚼の音と——小さな感嘆のため息。


「パンがこんな味になるなんて」


「この根菜、甘い……」


「煮込みの肉、柔らかい」


(……良かった。)


胸の奥が温かくなる。

この感覚を、久しぶりに味わった。


宮廷では、料理を褒められることは少なかった。

格式に合っているかどうかが評価基準で、「美味しい」という言葉は——二の次だった。


食堂の隅で、ゼルドリスが一人で食べていた。


彼の前にある皿は、すでに空だった。

おかわりの皿も空。

三皿目に手を伸ばしている。


目が合った。


ゼルドリスは視線をそらした。

耳の先が——やはり赤い。



午後。食材庫の整理をしていると、リュカが走ってきた。


「ミレーユさん! 夕飯も作ってくれるんですか!」


「もちろん。三食担当だから」


「やった! あのスープもう一回作ってくれませんか」


「リュカくん。一つ聞いてもいいかしら」


「はい!」


「この城の人たちは、今まで何を食べていたの」


リュカの笑顔が少し曇った。


「乾パンと、塩水と、たまに配給の肉です。ゼルドリス様は食事にあんまり興味がなくて……城の食事は最低限でいいって」


「魔王様が?」


「はい。でもさっき、厨房の前を三回通ったの、僕見ました」


(……三回。)


「リュカくん。魔王様の好き嫌いを教えてもらえる?」


「好きなもの……分かりません。嫌いなものは——甘いもの、って聞いたことあります」


「甘いものが嫌い」


「はい。でもミレーユさんの揚げパン、ちょっと甘かったのに、三皿食べてましたよね」


確かに。

あの揚げパンには、根菜の自然な甘みが移っている。砂糖の甘さではなく、素材の甘さ。


「……ありがとう、リュカくん。とても助かったわ」


リュカの尻尾がまた揺れた。


夕食の準備を始める。

今度は、白いスープを作ろう。


根菜を丁寧に刻んで、弱火で炒める。水を加え、ことこと煮込む。

最後に、干し乳を溶かして白いスープに仕上げる。


宮廷時代、この白いスープを作ったのは一度だけだ。

王太子のために。


あの日、王太子は初めて「美味しい」と言った。

そしてあの日から、すべてが狂い始めた。


(……思い出すな。今は、目の前の鍋に集中しろ。)


湯気の向こうに、焦げた記憶がちらつく。

局長の冷たい目。公爵令嬢の涙の演技。王太子の沈黙。


手が震えそうになる。


深呼吸。

包丁を握り直す。


私の手は、料理を作るための手だ。

震えている暇はない。


夕食の白いスープは、朝食以上の反響だった。


ヘルガが初めて口を開いた。


「ミレーユ。明日から、食材の調達を私が手配する。予算も見直す」


「え、でも」


「まともな食事を出せる人間を、銅貨数枚で働かせるほど、私は非道ではないわ」


ヘルガの目に、信頼の芽が見えた。


食堂を片付けていると、ゼルドリスが入ってきた。


何も言わず、空の鍋を覗き込む。


「……なくなったのか」


「おかわりでしたか? 少しだけ残してあります」


「残して——」


「はい。食べ足りないだろうと思って」


ゼルドリスは受け取った器をじっと見つめた。


「なぜ分かった」


「厨房の前を三回通った方が、一杯で足りるわけがありません」


ゼルドリスの耳が赤くなった。

今度は先端だけではなく、耳全体が。


「……もう通らない」


「通ってくれていいですよ。おかわりは、いつでも用意します」


ゼルドリスは黙ってスープを飲んだ。


その横顔は、焚き火のそばで三杯おかわりした夜と同じだった。


違うのは、場所だけ。

あのときは野ざらしの焚き火。今は城の食堂。

けれど、スープを飲む表情は同じだ。


「ゼルドリス様。明日のリクエストはありますか」


「リクエスト?」


「食べたいものがあれば、できるだけ応えます」


ゼルドリスは考え込んだ。

真剣に考え込んでいる。国政より真剣な顔だ。


「……あの揚げパンを、もう一度」


「承知しました」


「それと——白いスープも」


「両方ですね」


「……多いか」


「いいえ。おかわりも用意します」


ゼルドリスは無言で頷いて、食堂を出て行った。

扉が閉まった後、小さな足音が遠ざかるのが聞こえた。


(……足音まで、少し嬉しそうに聞こえるのは気のせいかしら。)


厨房に戻り、明日の仕込みを始めた。

手が、もう震えていなかった。


けれど、ヴァルディア宮廷から目を逸らしてはいけない。


冤罪は、まだ晴れていない。

そして——冤罪を仕組んだ者たちは、まだあの厨房にいる。


明日の朝食の献立を考えながら、ふと思った。


料理局長オーギュストが私を追放した本当の理由は、毒ではない。

王太子が私の料理を「美味しい」と言ったことだ。


あの一言が、局長の二十年の権威を脅かした。


(……真実はいつか、必ず皿の上に乗せる。)


しかしその前に、もう一つ気になることがある。


ゼルドリスが人間の宮廷料理人を受け入れた理由。

「厨房が空いている」だけが理由とは思えない。


魔王は何を考えているのだろう。


その答えは——三日後、予想もしない形で届くことになる。


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