第二話 魔王は三杯おかわりする
赤い瞳の男は、焚き火の向こう側に立っていた。
銀の髪が夜風に揺れている。黒いコートの裾が、まるで翼のように広がっていた。
私は反射的にスープの鍋を庇った。
武器はない。けれど、これだけは渡せない。
(……煮込みが足りないけれど、味はちゃんと入っている。)
奇妙なことに、最初に浮かんだのは恐怖ではなく、スープの出来への不安だった。
男は一歩も動かなかった。
ただ、じっと鍋を見ている。
その視線に、敵意はなかった。
あるのは——興味だ。
それも、純粋な。
「……食べますか」
声が出たのは、料理人の本能だった。
目の前に空腹の人間がいたら——いや、人間かどうかは分からないが——食べさせたくなる。それが私の性分だ。
男はわずかに目を見開いた。
それから、何も言わず焚き火の前に座った。
木の器にスープをよそう。薬草と干し肉だけの、質素なスープ。
宮廷の基準なら、まかない以下だ。
男はスープを受け取り、一口含んだ。
長い沈黙。
そして——もう一口。
もう一口。
もう一口。
器が空になった。
「……もう一杯」
低い声だった。感情が削ぎ落とされた、硬い声。
けれど、耳の先がかすかに赤い。
「おかわりですか」
「もう一杯」
二杯目もすぐに空になった。
「……もう一杯」
三杯目を注いだとき、さすがに聞いた。
「お名前は」
男は器から目を上げなかった。
「ゼルドリス」
「ゼルドリスさん。私はミレーユです」
「知っている」
「え?」
「ヴァルディア王国の宮廷料理局。次席料理人。冤罪で追放された」
スープを持つ手が震えた。
「なぜ、それを」
「国境を越える人間の情報は、すべて私のもとに届く」
ゼルドリスは三杯目のスープを飲み干した。
それからようやく、赤い瞳を上げた。
「私はこの地の主だ。人間の言葉で言えば——魔王」
鍋の蓋が、カタンと音を立てた。
風のせいだ。たぶん。
「追放された料理人。行く宛てはないのだろう」
「……はい」
「なら来い。城の厨房が空いている。まかないを作れ」
「まかない?」
「城の者たちの食事だ。今は配給の乾パンしかない」
魔王城のまかない担当。
想像もしなかった展開だ。
けれど——厨房がある。食材がある。食べてくれる人がいる。
料理人に必要なものは、それだけだ。
「条件はありますか」
ゼルドリスは立ち上がった。
「一つだけ。二度と、あの不味い乾パンを出すな」
(……注文がそれだけなら、楽な仕事だ。)
「承知しました」
月明かりの下、魔王の背中について歩いた。
魔王の歩幅は大きい。
私の二歩分を一歩で進む。けれど、気づくと速度を落としてくれていた。
「ゼルドリス様。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ、追放された人間を雇うんですか。魔族の方が警戒するのでは」
「警戒はするだろう」
「それでも?」
「乾パンを三年間食べ続けた城の者たちに、これ以上我慢させるわけにはいかない」
「三年間、乾パンだけですか」
「以前は魔族の料理人がいた。だが——戦で死んだ」
声の温度が、わずかに下がった。
「そうでしたか」
「あの城には、人間も魔族も半魔族もいる。食事はそいつらの唯一の楽しみだ。それを奪ったまま放置していたのは、私の怠慢だ」
「怠慢なんかじゃありません。戦時中なら仕方のないことです」
「仕方がないで済ませていい話ではない」
ゼルドリスは足を止めた。
「お前のスープを飲んで分かった。温かい食事がどれほど——」
言葉が途切れた。
「どれほど?」
「……いい。歩け」
耳が赤い。月明かりでも分かるほど。
道中、ゼルドリスは一度だけ振り返った。
「ミレーユ」
「はい」
「あのスープの名前は」
「名前はありません。あり合わせの材料で作ったものですから」
「……そうか」
ゼルドリスは前を向いた。
その背中は大きかったけれど、どこか——お腹を空かせた子供のように見えた。
◇
魔王城は、想像していたものとは違った。
禍々しい城を想像していたのに、実際は古い石造りの砦だった。
壁は苔むして、中庭には名前の知らない花が咲いている。
厨房に案内された。
広い。設備は古いが、基本的なものは揃っている。
火力の調整が人間の竈とは違うが、慣れれば問題ない。
ただし——問題はすぐに見つかった。
竈に手を当てた。
人間の竈と違い、魔力で動く炉だ。温度の上がり方が独特で、慣れるまで時間がかかるだろう。
水場を確認する。井戸水は清潔で冷たい。これは使える。
包丁は錆びかけていた。自分の包丁があるから問題はないが、研ぎ石が必要だ。
「ヘルガさん。研ぎ石はありますか」
「研ぎ石?」
「包丁を研ぐための石です」
「厨房の隅にあったはず。三年間誰も使っていないが」
三年。この厨房は三年間、眠っていたのだ。
鍋を手に取った。銅製。厚みがあり、熱伝導は良さそうだ。
底に焦げ付きの跡がある。前の料理人のものだろう。
(……この厨房で誰かが料理を作っていた。その人はもういない。)
鍋を丁寧に、ゆっくりと磨いた。
これは私の厨房になる。前任者の仕事に敬意を払って、綺麗にしてから使おう。
食材庫は悲惨だった。
乾パン。塩漬け肉。干し野菜。黒い根菜。
新鮮な素材はほとんどない。
「これで城の全員分を?」
案内してくれたのは、白髪の長身の女性だった。
ヘルガと名乗った。家政婦長だという。
「城の者は四十二名。三食。以上」
「食材の追加は」
「週に一度、麓の市場で調達できる。予算はこれだけ」
渡された袋の中身は銅貨が数枚。
宮廷時代の一食分にも満たない。
「……分かりました」
「一つ忠告しておく。城の者たちは人間を信用していない。特にヴァルディアの人間を。過去に人間との条約を裏切られた歴史がある」
「それでも、食事は受け入れてくれるでしょうか」
「腹が減っていれば、種族は関係ないわ。問題はその後よ」
「では、明日の朝食で信用を勝ち取ります」
ヘルガは眉を上げた。
「自信家ね」
「自信ではありません。料理人としての義務です。食べる人がいる以上、美味しいものを作る。それだけです」
「義務、ね。宮廷ではそう教わったの」
「いいえ。師匠に教わりました。宮廷に入る前の——小さな町の食堂の、おばあちゃん先生に」
「人間の料理の師匠がいるのね」
「はい。その人が言っていました。『料理は愛だ。難しいことを言うな。腹を空かせた人に温かいものを出せ。それだけだ』って」
「……悪くない教えだわ」
ヘルガの表情がわずかに和らいだ。ほんの一瞬だけ。
ヘルガは眉を上げた。
初めて見せた表情は——かすかな興味だった。
部屋に案内され、固いベッドに横になった。
天井に見知らぬ紋章が彫ってある。
明日は早い。
乾パンと塩漬け肉と干し野菜で、四十二人分の朝食を作る。
宮廷料理局で鍛えた五年間の腕が試される。
(……いや、違う。試されるんじゃない。見せるんだ。)
私の料理は、毒なんかじゃない。
人を笑顔にするためのものだ。
それを証明できる場所が、ようやくできた。
目を閉じる。
明日の献立が、もう頭の中で組み上がっていた。
厨房の扉の向こうで、誰かの足音が止まった。
ゼルドリスの気配が、しばらくそこにあった。




