第十話 おかえりのスープ
魔王城の厨房に立つ。
いつもの場所。いつもの包丁。いつもの竈の温度。
冤罪が晴れて一ヶ月が過ぎた。
魔王城の暮らしは変わらない。四十二人分の三食を作り、リュカに夜食を出し、ゼルドリスのおかわりを用意する。
変わったことが一つだけある。
ゼルドリスが、食事の時間に食堂に来るようになった。
以前は厨房の前を通り過ぎるだけだったのに、今は堂々と席に座る。
ただし、相変わらず無言で三杯おかわりする。
「ゼルドリス様。今日のスープはいかがですか」
「普通だ」
「普通、ですか」
「美味い。だから普通だ。お前の料理はいつも美味い」
(……それは普通とは言わないのでは。)
ツッコミたいのを我慢して、四杯目をよそった。
その日の午後。
ヘルガが執務室に呼んだ。
「ミレーユ。一つ知らせがある」
「何ですか」
「魔王陛下が、和平条約の正式締結を提案した。ヴァルディア王国との」
「和平条約……」
「陛下の悲願よ。人間と魔族の共存。そのために——」
ヘルガが言葉を切った。
「ヘルガさん?」
「条約の一環として、魔王城に人間の大使館が設置される。そして——人間と魔族の交流の象徴として、魔王城の食堂を一般開放する計画がある」
「食堂を?」
「あなたの料理を、人間にも魔族にも食べてもらう。それが『共存』の第一歩だと、陛下はお考えよ」
「ゼルドリス様が、そんなことを……」
「陛下は言ったわ。『あの厨房の料理を食べれば、人間も魔族も同じ顔をする。それが答えだ』と」
胸が詰まった。
(……私の料理が、世界を変える一歩になる?)
大げさだ。私はただの料理人だ。
けれど——ゼルドリスがそう信じてくれるなら。
「やります」
「即答ね。あなたらしいわ」
ヘルガの口元が緩んだ。彼女が笑うのを見たのは、これが初めてかもしれない。
◇
食堂開放の準備が始まった。
リュカが看板を書き、ナディアがメニューを整え、ヘルガが運営を仕切った。
開放初日。
人間と魔族が、同じテーブルに座った。
ぎこちない空気。警戒の視線。
私は料理を出した。
白いスープ。焼きたてのパン。根菜の蒸し焼き。
あの最初の朝食と同じ献立。
最初に手を伸ばしたのは、人間の子供だった。
一口食べて、目を丸くした。
「おいしい!」
隣の魔族の子供が、恐る恐る手を伸ばした。
一口。
「……おいしい」
二人の子供が顔を見合わせて笑った。
人間の子供が器を差し出した。
「おかわり!」
魔族の子供も真似をした。
「おかわり!」
二人の声が重なった。
食堂にいた全員が、その声に振り向いた。
リュカが二人の隣に座った。
「おかわり、僕もください!」
三つの声が重なる。
人間と半魔族と魔族の子供が、同じ皿からスープを飲んでいる。
ヘルガがモノクルを拭いていた。目が潤んでいるのだと、後で気づいた。
ナディアが厨房から追加のスープを運んできた。
「先輩。鍋が空になりました。もう一鍋煮ます」
「お願い。パンも追加で焼いて」
「はい!」
大人たちも恐る恐る手を伸ばし始めた。
一口食べると、表情が変わる。それを見て隣の席の者も手を伸ばす。
波紋のように「美味しい」が広がっていった。
人間も、魔族も——「美味しい」の顔は、同じだった。
ゼルドリスが食堂の隅に立っていた。
腕を組んで壁にもたれ、食堂全体を見渡している。
その表情は相変わらず乏しい。けれど——目が温かかった。
ヘルガが隣に立った。
「陛下。ご覧になりましたか」
「ああ」
「人間と魔族が同じ食事をして笑っています。陛下が望んだ光景です」
「私が望んだわけではない。あの厨房にいる女が実現したことだ」
「陛下がミレーユを連れてこなければ、何も始まりませんでした」
「ヘルガ。お前も変わったな」
「何がでしょう」
「最初は人間を警戒していただろう」
「ええ。でも——あの子の料理を食べたら、そんなことはどうでもよくなりました」
ヘルガの口元がかすかに緩んだ。
「美味しいものの前では、種族の壁は溶けるのよ。あの子が教えてくれたわ」
「ヘルガ」
「何でしょう」
「あの子を、手放すなよ」
「それは陛下がご自身で伝えるべきことでは」
ゼルドリスの耳が赤くなった。
「……善処する」
「善処ではなく、実行してくださいませ」
ゼルドリスは小さく頷いた。
その表情は相変わらず乏しい。けれど、目が——温かかった。
食堂が賑わいを見せる中、ゼルドリスが私の横に立った。
「ミレーユ」
「はい」
「一つ、話がある」
「何ですか」
「私の正体を知っているか」
「魔王でしょう」
「そうだ。だが——もう一つある」
ゼルドリスは周囲を見回した。誰も聞いていないことを確認して、低い声で言った。
「私はかつて、ヴァルディア王国に人間として暮らしていたことがある」
「え?」
「十年前。人間の姿で、宮廷の近くに住んでいた。人間の暮らしを知るために」
心臓が跳ねた。
「そのとき——宮廷の裏口で、見習いの料理人が余った賄い飯を配っているのを見た」
「……まさか」
「パンの耳と、野菜くずのスープ。貧しい食事だった。だが、配っていた少女は笑っていた」
「それは——」
「その少女が作ったスープを、一杯もらった。名前も聞かなかった。だが——あの味だけは、忘れなかった」
呼吸が止まった。
十年前。私が宮廷の見習いだった頃。
余った食材で賄い飯を作り、裏口で通りすがりの人に配っていた。
師匠に叱られた。「格式に反する」と。
けれど、お腹を空かせた人の前で料理を出さないなんて、できなかった。
「あの——銀髪の、男の子」
「人間の姿のときは、髪は黒かった」
「でも——目だけが、赤くて」
「変装が下手だった」
十年前の記憶が蘇る。
裏口に立っていた、黒い髪の少年。赤い目。
スープを一杯飲んで、何も言わずに去っていった。
「あれが——ゼルドリス様だったんですか」
「ああ。あのとき決めた。いつかまた、あの味を食べたいと」
「だから——私が追放されたとき」
「国境に迎えに行った。たまたまではない。お前を待っていた」
すべてが繋がった。
あの夜、焚き火のそばでスープを飲んだ赤い瞳の男。
「知っている」と言ったあの言葉。
三杯のおかわり。
「ここにいろ」という、不器用な願い。
全部——十年前の、一杯のスープから始まっていた。
「ゼルドリス様」
「何だ」
「十年、長かったですね」
「……長かった」
「これからは、毎日作ります」
「ああ」
「おかわりも、何杯でも」
ゼルドリスの耳が赤くなった。
けれど今度は、視線をそらさなかった。
「ミレーユ」
「はい」
「隣にいろ」
「厨房の隣ですか」
「……そうじゃない」
「分かっています」
二人の間に、スープの湯気が立ちのぼった。
食堂では、人間と魔族が同じ料理を食べて笑っている。
リュカの尻尾が揺れている。
ヘルガがモノクルの奥で微笑んでいる。
ナディアが厨房で次の仕込みを始めている。
すべてが、一杯のスープから始まった物語。
包丁を握る。
今日も明日も、ここで料理を作る。
お腹を空かせた誰かのために。温かいものを届けるために。
隣にいてくれる、赤い耳の魔王のために。
——鍋の底で、ことことと、スープが歌っていた。
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