最終話 スタート
スタートの合図。
歓声が一斉に弾ける。
第一走が飛び出し、第二走へ。赤と白、青、緑のバトンがコースを駆ける。前に出ては抜かれ、抜き返す。トラックの上では、ほんの一歩が勝敗を分ける。
走者がテントの前を通るたびに、菜月の声が響いた。
「いいよいいよー! 頑張って!」
第三走から第四走の佐伯へ。俺はアンカーゾーンでしゃがみ込み、靴の紐をきゅっと締め直した。
顔を上げると、仲間がこちらに向かってくる。心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。
――その瞬間だった。
俺にバトンを渡す佐伯がバランスを崩し、前のめりに転んだ。
ざわめきがグラウンドを駆け抜ける。
「佐伯!」
俺は思わず叫んでいた。砂煙の中、佐伯は苦悶の表情を浮かべながらも膝を押さえ、必死に立ち上がる。優勢だった赤組は、一瞬で三人に抜かれてしまった。
それでも、佐伯は歯を食いしばりながら走り出した。膝を引きずるようにしながら、バトンを離さない。
「第四走、赤の佐伯くん転倒! しかし立ち上がった! 諦めていない!」
歓声が一段と大きくなる。赤のテントからは菜月の声が重なる。
「佐伯くん! 大丈夫! バトン繋げばまだいける!」
「……翔! たのんだ!」
佐伯の叫びと同時に、伸びてきた手から俺はバトンを受け取った。
その重みは、ただのプラスチックではなかった。仲間の痛みと、必死の想いが詰まっていた。
「任せろ!」
地面を蹴った瞬間、世界が遠のいた。
前の走者の背中が三つ、前方に揺れている。
「翔ー! いけぇーーーっ!!」
菜月の声が、群衆の歓声を突き抜けて届く。
その声が俺の身体を軽くした。足が勝手に回る。腕が風を切る。呼吸が熱を帯び、全身が燃える。
一人目を抜いた。歓声が弾ける。
「赤組の相馬くん、ぶっちきっています! 速い速い!」と放送委員の声が響き渡る。
続いて二人目をかわした。さらに大きな声援が沸き上がる。
残るは白組のアンカー。背中が見える。距離が少しずつ縮まる。菜月の声が、仲間の声が、観客の声が俺を押し出す。
「いけぇええええ! 相馬ーーー!!」
「がんばれー!」
最終直線。
「アンカー相馬くん、ラストスパート! 白との差はあとわずか! すごいすごい」と放送委員。
白のアンカーが肩を落とし気味に前傾を保つ。
ゴールテープが近づく。白組の背中は、もう数歩の距離。
だが――届かない。
全力で足を伸ばしたが、その僅かな差は縮まらぬまま、テープを切った。
俺達の赤組は二位だった。
足が止まった瞬間、膝が笑い、呼吸が荒く乱れた。肺が焼ける。それでも、胸の奥には後悔はなかった。
全力を出し切った。あのバトンを繋げた。誇りだけが残った。
「競技は以上で終了です。選手の皆さん、素晴らしい走りでした」
「翔!! 最高だったよ!!」
菜月が応援席から飛び出してきて、両腕を広げて跳ねた。
俺は笑って手を上げる。二位でも構わない。クラスの歓声は割れんばかりで、盛り上がりは勝ったチームに負けていなかった。
仲間に囲まれ、背中を叩かれ、誰かに水を渡される。佐伯も駆け寄ってきて、苦笑いを浮かべながら言った。
「悪ぃ、転んじまって……でも、翔が繋いでくれて助かった」
「何言ってんだよ。あそこで立ち上がったお前がすげぇよ」
二人で笑い合った。バトンは汗で滑りそうなくらい濡れていたけれど、その光沢がやけに眩しかった。
* * *
人波が落ち着いた頃、菜月が俺に手を振った。
「記念に写真撮ろ!」
「二位なのに?」
「なに言ってるの! 二位だって青春だよ! 汗は勝ち負け関係なく輝くの! 今日の翔は光ってた!」
「なんだそりゃ」
木陰で肩を寄せ合って撮った自撮り。画面には、全力で駆け抜けた証拠みたいな笑顔が並んだ。
「……必死すぎて、カッコ悪かっただろ」
「ううん、めちゃくちゃカッコよかったよ」
即答する菜月に、耳が熱くなる。彼女も頬を赤らめて目を細めていた。
「ねえ、翔」
「ん?」
「来年も、アンカーで走ってよね」
「同じクラスになるかどうかわかんないだろ」
「なるよ多分! ならなくても応援するけどね」
夕方の光が、彼女の横顔を柔らかく照らす。
俺は正面からうなずいた。
「わかった。来年も――その時も、隣にいてくれよ」
「……っ!」
一瞬目を丸くした菜月は、すぐにふわっと笑みを広げた。
「うん、約束」
校内放送が集合写真の号令を告げる。
クラス全員が集まり、自然と俺と菜月は隣り合った。肩が、さっきより近い。
カシャリ、とシャッター音。
夕暮れの空の下、クラスの笑顔の中で、俺と菜月はやっぱり少しだけ近かった。
――その写真は、きっといつかもう一度見返すだろう。
勝ち負けを超えて、友情と期待と、まだ名前のない気持ちが写り込んだ一枚として。
校門の前で足を止めた菜月が、にっと笑った。
「翔、前髪ぺったんこ」
「うるさい」
「でも、最高の顔してる」
「お互いな」
秋の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
全力を出し切った身体は疲れているのに、心は不思議と軽かった。
「じゃ、また明日」
「また明日」
そう言って別れた後も、胸の鼓動はしばらく止まらなかった。
たぶんこの先、勝つ日も負ける日もある。派手に転ぶこともあるだろう。
でも――期待は、一人で持たない。半分にして、二人で持つ。
そして喜びを二倍にするのだ。
光の残る帰り道で、俺は何度も右手にバトンの感触を思い出していた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。
今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。